新宿のやっさん
人が行き交う朝の新宿駅。雑踏の中、僕は柱にもたれて、することもなく改札口を眺めていた。
世間はめまぐるしく動いている。背広を着た人達が早足で仕事場へと向かい、また黒服のホスト達がそれとは反対に寝床へと帰る。ここは眠らない街だ。そして忙しい空間でもある。かつては僕もこの流れの中にいた。そのせいなのか、この時間この場所がとても心地良い。同じレールの上を走っていた数ヶ月前の自分を懐かしんでいるのかもしれない。
大学卒業後、無理して入ったブラック企業の事務職を僕は三ヶ月で辞めた。次いで勤めた保険会社の営業は一週間でクビになった。何度もバイトの面接に失敗し、また失職を繰り返す毎日が続いた。
最初は売るほどあった自信も余裕も傷付けられるたびに減っていった。最後は履歴書を書くのさえ面倒になった。動かなければ、ただ貯金が減っていくだけである。そうこうするうち、生活費が底を尽き、アパートから放り出されたのだ。
こうして社会不適合者というハクがついた僕は初めてその事態の深刻さに気がついた。住所がなければ就職活動はおろか、アルバイト探しすらままならないのだ。身なりが悪ければ、さらに難しくなるだろう。新宿にきてもう五日である。袖襟の汚れもやや目立つようになってきていた。
「やる気だけは……誰にも負けないつもりです。よろしくお願いします」
面接のときを思い出して、僕はボソボソと小さく呟いた。
くすみ始めた僕ではあるが、それでも十一月も終わりに差し掛かった今の時期は、夏場と違ってまだマシといえた。体を洗えず鼻を突くアンモニア臭が強くなるからだ。まあ、そのときになれば慣れるだろうし、今は冬を越せるかどうかが問題だ。雨や雪の夜が特に怖い。毎年何人も寒さが原因で死ぬらしいのだ。
もっといえば、今日の食事探しから悩まなければならないだろう。誰がおにぎりやお金を恵んでくれるわけでもない。しかし、それに関しては当てがあった。
「おめぇ、またここにいたんか」男性は僕に声をかけた。「警察がいる。早く行くぞ」
男性の名前は杉村八郎(通称やっさん)といった。ホームレスになって十五年というベテランだ。僕とは違い、交友関係も広くて色々な情報を持っている。ここで生きる術を知っている人物だ。過去に何があったのかはわからない。
ホームレスに対する行政の態度が厳しくなったという報道は本当だった。暖かい駅の中にダンボールハウスを設けることは許されない。朝から警察のお世話となるのは御免被りたいので、僕はやっさんと駅を後にした。
僕らの住処は公園だった。雨よけのブルーシートは熱も保ってくれる。隣のやっさんの家はどこで見つけてきたのか畳まで敷いてあった。こちらは建てたばっかりで家具などは何もない。風が吹けば簡単に飛んでしまいそうな感じだ。盗まれるものが無いだけ気軽でいいが。
僕はやっさんのところで一緒に持ち帰った朝食をとることにした。コンビニ裏のゴミ箱から頂戴した賞味期限切れの弁当である。店側が廃棄した物だが、それを回収するにあたってはちゃんと縄張りがあるらしい。時には、その争いで死傷者も出るのだという。
やっさんが僕と組んだ理由はそこにあった。彼は知識が豊富だし、ここで生きる術を知っている。だが、老いというものは例外なく誰にでもやってくるもので、道徳や約束が簡単に破られるこの社会では肉体の衰えはそのまま死活問題なのだ。縄張り争いと物取りからの防衛。それが僕に与えられた役割だった。
「景気はよくならねぇな。また大手がリストラだってよ」
駅のクズかごから拾った新聞を読み、やっさんは溜息まじりに言った。
「三千人か。このうち何人が路頭に迷うんだろうな」
「ここも仲間が増えるかもしれませんね」
「そしたら、たまんねぇよ」
一見すると仙人のように世間の情勢とは無縁に思えてしまうホームレスという存在。しかし、もっとも社会の波に揺れるのは他ではなくここなのだ。
「どっかに金でも落ちてねぇかな」とやっさん。
ホームレスを人生の落伍者というが、そうなった人間の全てが生き残れるわけではない。寝床はともかく、手に入る食事には限りがあるのだ。当然、奪い合いは熾烈になってしまうだろう。そうなれば、誰が痛い目をみるのだろうか。負け組みの中で、さらなる負け組みを作らなければならないのだ。
朝食を終えた僕らには空き缶集めという日課があった。やっさんはリヤカーを持っているので効率が良さそうだ。一方のこちらは袋を担いで、ひたすら歩きまわるのみ。たとえ重くても公園のテントに置いてはおけない。盗まれてしまうのだ。
夕方、僕はコンビニの前でやっさんの買い物を待っていた。今日一日の報酬として手に入れた金額は五百円。リヤカーを駆使したやっさんは千円も稼いでいた。
「セブンがない」店から出たやっさんがぼやいた。「酒も高くなったよな」
煙草一箱とワンカップ。毎日の稼ぎのほとんどはこれで消えていた。二つはやっさんの生きがいらしい。僕にはもったいなくて、とても出来ない使い方だった。
公園の戻ったときには、辺りはすっかり暗くなっていた。ランプのあるやっさんのダンボールハウスで夕食をとった。もちろん賞味期限切れで廃棄されたものだ。
「これ飲めよ」やっさんが言った。
レジ袋から出され、僕の前に置かれたワンカップ。よく見ると、もう一本買ってあるのがわかった。
「いいんですか?」
「今日だけな」
やっさんのように、生きる糧になるほどお酒が好きなわけでもない。むしろ少しずつでも貯金をしたほうがいいのではないだろうか。明日からは自分で買わなければいけないと言われ、僕はやっさんの厚意に嬉しい反面複雑な心境だった。
チビチビと酒を飲みながら、僕はダンボールの隙間から外の様子を眺めた。入り込む空気は乾燥していて寒い。今日は快晴で雲ひとつ無いはずなのに、夜空には星が少なかった。それは公園の電灯のせいだけではないだろう。ビルのネオンに、道路を走る車のランプ。街全体が明るすぎるのだ。
ようやく良い心地になってきた頃、新聞に目を通しながらやっさんは尋ねた。
「お前さ、まだ若いから何とかなるんじゃないのか?」
「ええ、若いといえばそうですけど」
どう答えればいいのか困ってしまい、僕はしばらく時間をかけた。
「でも色々と試したんです。何度も自分を売り込みました。散々もがいて、頭を下げて、それでもやっぱりダメでした」
言い終えた後で、僕は泣いてしまいそうなほど、悲しい気持ちになった。自分が情けなく思えた。それでもやっさんは励まし勇気付けるわけでも、逆に馬鹿にするわけでもなかった。ただ「じゃあ、しょうがないな」と評価してそれっきり。そうだ、他人から見てそんな程度のことなのだ。所詮は僕自身の人生なのだから。
「そういえば、入り口そばのテントって誰が使っているんですか?」
中を覗いてみたが、誰もいなかった。ゴミなどの生活の跡らしきものは散乱していたが、めぼしい日用品は皆無くなっていた。もしかしたら空き家かもしれない。
「川元っていう奴だ。二週間ほど前にな、強盗事件起こしちまって、それっきりだ」
刃物を持って銀行へ押し入ったらしい。家具は仲間うちで分けてしまったと教えられ、僕は自分が使う毛布の前の所有者を知った。
「のんびりしているけど、ここはやっぱり」
「怖いところだよ」
やっさんはポケットから手製の刃物を取り出して見せた。
「お前もよ、護身用に持っといたほうがいいぜ。こいつは釘を潰して作ったんだ」
本当に怖いところだ。平穏なその日暮らしの中に暴力や盗み、そして死が潜むことなく存在している。薄氷の上に飾られた道徳はいざというときに役には立ってくれない。ここは団結すら難しい社会なのかもしれない。
騒ぎは寝静まった深夜に起きた。
「オラオラ! 起きなちゃーい!」
しゃがれた男の大声が聞こえ、慌てて自分の寝床から出てみると、素行の悪そうな数人の若者がやっさんの家を取り囲んでいた。
「じじぃ、出でこいやぁ!」
若者達は数が揃っているせいか、えらく強気だった。手には金属バットなどの凶器を持っている。それでバンバンとダンボールの壁を叩き、いぶり出そうとしているようだった。これが世間でいわれるホームレス狩りなのだと知った。
「おい、なんだお前?」若者の一人が僕に気付いて言った。
お前もやられてぇのか。てか、働けよ。だらしねぇオヤジだ。色々なことを言われて、笑われた。遠慮も恥じらいも無い、付け加えて知性も感じられない不快な声色だ。そんな彼らに説教をされるような、今の自分は情けない存在なのだろうか。
彼らの言うところのヒョロイ存在である僕は、何もやり返すことができなかった。多勢に無勢、いや一対一だとしても、きっと勝てないだろう。数や腕力の前に、気持ちで負けていた。心が彼らに対して白旗を振っているのだ。
余裕の表情である若者達の関心は、すでにやっさんから僕へと移り変わっていた。このままの流れではボコボコにされてしまう。その前に、何とか平和的に解決できないだろうか。僕は頭の中で必死に打開策を考えようとした。
そんなときだった。
「や、やめろよな!」若者達とは別に声がした。「それ以上、馬鹿なことをしてると痛い目みるぜ」
ベージュの長ズボンにチェック柄の長袖シャツ。リュックを背負った眼鏡の助っ人は明らかに秋葉原の香りがした。
「なんだこいつ」若者の一人が言った。「どうした眼鏡君、アニメの見過ぎか?」
明らかに正義の味方は頼りなく、場違いな存在である。この公園おもしれぇよ、などと若者は馬鹿にして笑い転げた。
「こいつら素っ裸にして、吊るしとこうぜ」
冗談じゃない。こんな寒空で衣服を取られたら死んでしまう。そんなこともこの若者達にはわからないのか。ややっこしい展開になって、僕はさらに焦ってしまった。
「俺とやろうってのか?」眼鏡の助っ人は未だにヒーロー気取りだった。「お前ら悪党には反省が必要だ」
テレビドラマから切り取ったような、決め台詞。痛すぎる。それでも若者の一人は真に受けたフリをして、眼鏡君に向かっていった。どうやら、弱い相手に勝って自分のハクにするつもりらしい。それとも本当に怒るほど単純にできているのか。
「逃げろ!」僕は眼鏡君に向かって叫んだ。
バンッ。突然、まぶしい閃光を放って何かが破裂した。バンッ。続けてもう一発。けたたましい音とたち込める煙に、これは火薬だとわかった。
「爆弾だ! こいつ、爆弾を持ってやがる!」
若者達は蜘蛛の子を散らすように、慌てて逃げ出した。バンッ。バンッ。破裂音が彼らの背中を追いかけた。明らかに市販されている花火などとは威力が違う。おそらく手製だろうと思った。
ホームレス狩りの若者達がいなくなってからしばらくして、眼鏡の助っ人が戻ってきた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとうございます」
眼鏡君は汗ビッショリで、緊張したせいか笑顔が強張っていた。きっと長い間計画していて、初めて実行に移した偉業なのだろう。とにかく大成功に終わってくれて良かった。こちらも命拾いしたのだ。
僕らが会話をしていると、安全だとわかったのか、やっさんもダンボールハウスから出てきた。
「凄い音だったな」とやっさん。
そこへ、制服を着た警察官二人がが公園の入り口からこちらへと駆けてきた。遠くでパトカーのサイレンも聞こえた。
「爆発があったと通報があってな。お前ら、犯人を見なかったか?」
間が悪いことに、眼鏡君はポケットに入れていた手製の爆弾を地面に落としてしまった。捜査は終わりである。僕とやっさんは連行されていくチェック柄の長袖シャツを黙って見送った。
どうして、弁護をしなかったんだろう。確かに爆弾を使ったのは非常識だし、度が過ぎている。ただ、彼が不良達から守ってくれたことも事実なのだ。僕は毛布に包まりながら、眠れずに何度もそれを考えていた。
隣のやっさんはダンボールハウスを修復して、すでに寝てしまった。たいして気にしてはいないようだ。面倒なことには巻き込まれたくない。それに警察署は怖い。その場限りの計画で生きているやっさんにとって、恩人とはいえ他人のこれからなど、どうでも良いことなのだ。
翌朝、僕は始発の電車に乗って、高校を卒業して以来帰っていなかった実家を目指していた。
早朝ということもあり、電車の中はあまり乗客がいなかった。暖房が効いている。近づくと臭うかもしれないので、なるべく他の人から離れていた。
故郷は山梨である。雑巾のようになって帰ってきた僕を見て、数年ぶりに会う両親はいったい何を思うのだろうか。落胆するだろうか。きっとそうに違いない。僕がアパートを追い出されても、帰郷をためらっていた一番の理由がそれだった。
「やる気だけは誰にも負けないつもりです。よろしくお願いします」
実家に帰ったら、何かしら仕事を見つけよう。何度クビになっても、不採用になってもかまわない。一生懸命働こう。なんとしてでも、レールの上に戻りたいと思った。
『次は荻窪、荻窪です』電車のアナウンスがあった。
寝床の中に別れの挨拶を記した手紙を置いてきた。それから眼鏡君の弁護をするために、警察署へと向かった。彼は未成年だったらしい。事情も話したし、きっと大きな罪にはならないだろう。
衣食足りて礼節を知るとはよく言ったものだ。このまま公園で暮らしていたら、きっと僕はやっさんのようになっていただろう。今を生きることに必死で、ほかの事に無関心になってしまうかもしれない。では、やっさんは悪人なのだろうか。
ワンカップをおごってくれたやっさんの顔を思い出すと、僕は胸がつまった。寝床作りを手伝ってくれ、食事を分けてくれたやっさん。歳をとって縄張りが心配だと言っていたやっさん。そんな彼を見捨てて、僕は貯めたお金で実家に帰るのだ。
一番の悪人は他でもない自分だと感じた。
了
題名『新宿のやっさん』
蒼井 果実
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