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Sixth Phrase ふたつのディストピア

 古今東西、相手を殺さず痛めつける方法は無数に存在する。拷問と称されるそれらは、しかし、多くの場合は死なない前提で苦痛を与えている。相手を殺す前提で行うのは拷問ではなく、残忍な処刑である。

 そういう意味では、カルミアの行為は間違いなく処刑に分類された。

「……あ……ぐ……」

 巨大化した白い手は、ログを壁に磔にしていた。床からすくい上げられた勢いそのままで壁に激突し、意識もはっきりしていない。押さえられている胸元に全体重がかかり、骨が軋む音がした。

「か・い・た・く・だ・ん・の……」

 カルミアは、右手で左手の指をなぞる。指先、間、と交互に移動した指は、一周して人差し指の先で止まった。

「さて……圧死、窒息、転落、解放、圧死、窒息……圧死」

 ひゅっ、とログが息を飲む。カルミアを見下ろす目は、焦点が定まっていなかった。

「ああ、そうそう。エレーナがあることないこと、とか楽しそうに妄想語ってくれちゃったけど」

 カルミアは、にっこりと笑って見せた。

「あの子はね、何にも言ってないわ」

 白い手は緩慢に、壁との距離を詰めていく。間に挟まっているログは、ゆっくりと胴体を圧迫された。がちがちと歯を鳴らし、ログはぎゅっと目を閉じる。

「……う、さん……」

 だが。絞り出したような声が、カルミアを止めた。声の主は、ログの足元で身体を捻る。

「状況……分かんねえけど……勘弁してやって、くれないか……?」

「……血の匂いの正体? あんたに関係ないでしょ」

「……弟なんだ」

 門番のエリックは、埃を吸って咳をした。カルミアはログを磔にしたまま、デスクの横へ回った。

「兄を気絶するまで殴って転がしておくのが、弟?」

「……救いようのねぇバカでも、弟なんだ」

 カルミアはちらりとログに視線を向ける。ログは既にほとんど意識がないようで、かろうじて呼吸している状態だった。抵抗しようにも、下手に動けば一瞬で潰される状況である。肋骨と背骨がきしみ、悲鳴を上げていた。

「名前も知らない他人の弟であることが、あたしが許す理由にはならないわ。次はあんたも殺すから。できることなら皆殺しにしたいのよ、開拓団なんて」

「……そう、か……」

 エリックは、切れた唇を笑みの形にした。痛みに眉根を寄せながら浮かべたのは、自嘲の表情だ。

「じゃ……エレーナに、よろしく……」

 エリックの言葉に、カルミアは一瞬顔をしかめた。唇をへの字に曲げ、黒い手でこぶしを作る。振り下ろせば、痛いと思う暇もなく、エリックの頭は粉砕されるだろう。

 大きく息を吸い、カルミアは左手を掲げた。エリックは目を閉じる。

「…………」

「…………」

「……?」

 エリックが恐る恐る目を開くと、カルミアは両腕を降ろしてこぶしを握っていた。眉根を寄せて目を細めた表情は、哀れんでいるようでもあり、何かを押し殺しているようでもあった。

「……やーめた。今日はもう遅いし、寝なくちゃ。怖がってないやつを殺してもすっとしないわ」

 ぱっと機械の手が離れ、ログは床に落下する。

 咳き込むログに背を向けて、カルミアは前髪をかき上げた。ほっと息を吐くエリックに、ログは苦々しい顔をする。

「気が削がれた。また今度にするわ」

「げほっ……そう、かよ……」

 ログは手探りでデスクの下の何かをつかんだ。

「今度は……」

「そうね、明日とか?」

「ねえよ、ばぁか!」

 鉄の筒が振り上げられ、カルミアの背を向くまで、一秒とかからなかった。捨て台詞とともに、ログは引き金を引く。一瞬前までは苦痛に歪んでいた顔に、勝利の笑みがたたえられていた。放たれる弾丸の威力を、ログはよく知っている。音速を優に超える散弾が、防ぎようもない事実も。

 がちん。

「……へっ?」

 銃弾が飛び出すどころか、銃声すらしなかった。体を起こしていたエリックが、溜息をついて脱力する。

「……安全装置……」

 ログははっとして銃身に手を伸ばす。だが、それをカルミアが見逃すはずもなかった。

「そう死に急がないでよ、殺しに来るから」

 銃は、カルミアの手に移っていた。黒い手が、カルミアの両手にそっと銃を渡す。

「重いのね。火薬を使うなら反動もありそう。それが命の重さってやつかしら」

 黒々とした銃口が、ログを向いた。

「死ぬのが怖い?」

 天使の笑みを浮かべて、カルミアはログに語り掛けた。

「あなたの生殺与奪の権限はあたしの手にある。勝った気になったようだけれど」

「う……あ……」

「さて……こういうときってお決まりのカッコいいセリフでも言うんでしょうけど、そんな教養ないのよね」

 ログはがちがちと歯を鳴らし、壁に背を当てるまで後ずさる。

「ああ、じゃあこうしましょう。胴体に当たったら五点。顔に当たったら十点。耳に当たったら十五点。目玉に当たったら五十点」

 銃を構え、カルミアは歯を見せて笑った。

「それでも生きていたら、百点をあげるわ」

「……くそが」

 カルミアの指が、引き金にかかる。ログは震える唇を、血が出るほどに噛んだ。

 部屋の戸が激しくノックされたのは、次の瞬間だった。

「……何よもう。誰?」

「へへ、当ててみな、ハワイへご招待……ところでハワイってどこ?」

「……エモニ」

「驚いてよもう。ピーターパン、とかさ。あれ、鍵開いてるねえ」

「あれは窓から来るのよ」

 入ってきた青年を見て、ログはまた息を飲んだ。エモニはログとカルミアを見比べ、首を傾げる。

「お取込み中だったかな?」

「ええ、もうちょっとで誤射しちゃうところだったの」

「ふうん。門番だったえりっくすぱろーはリーダーの部屋だって聞いたんだけれど」

「……あの人かしら。連れて帰る?」

「うん……カルミア、リーダーを殺すかい?」

 エモニの双眸が、ログを捉える。立ち上がろうとしていたログは、びくりと肩を震わせた。

「いつかね。今日じゃないわ。もう眠いから」

「そう。それ、俺の得物だから、取らないで」

 ぎしっ、と、部屋のドアが軋む音がする。カルミアは溜息をついて銃を落とした。

「はいはい。あたしは宇宙船さえもらえればあとは何でもいいわ。あげる」

「ふざけんな!」

 ようやく立ち上がったログが、胸いっぱいに吸った息で怒鳴った。

「何がっ……何のためにお前らは来やがったんだ! これだけ暴れて帰るって、何……何なんだよ!」

 エモニは、デスクの後ろに転がっているエリックに気が付くと、ぱっと顔を明るくした。

「俺達はまだケモノに手を出しちゃいねえし、こんなことされるいわれはねえ! 銃で脅したのも全部正当防衛だ、突然乗り込んできて好き勝手暴れてるてめぇらに、とやかく言われる筋合いはねえだろうが!」

「そうねえ」

 エモニはエリックの縄を切り、傷の具合を確かめる。血こそ出ているがさして深くないと分かると、懐から取り出した液体を傷にかけ、包帯を巻いた。ログはカルミアを指差し、唾を飛ばして怒鳴り続ける。

「人の命を、オモチャみたいに扱いやがって! 学もねえ暴れるしかできねえクズどもが、狂ってやがる……! 滅茶苦茶やりやがって、許されると思ってんのか!?」

 ひとしきり怒鳴ると、ログは荒い息を吐いた。視線はカルミアから外さず、床に転がった銃に体を向ける。カルミアは黙って聞き終えると、額に手を当てて長い息を吐いた。

「……許される……だれが許すの?」

「ハッ? そりゃ、シェルターの長である……俺、が……」

「そ。じゃあここであんたの腹と背中と壁を仲良しこよしにしちゃえば、許す人はいないわね」

「ち、違う! そんな話じゃねえ、人殺しだ! 理由も大義もねえ人殺しが、神に許されるとでも」

「神様ってどこにいるの」

 カルミアは、ゆっくりと一歩、ログに近付いた。

「あたし、知ってるわ。あんたみたいな人間を何て言うか」

 カルミアの細い指先が、ぴたりとログの額に触れた。

「ばぁか」

 ぐるりと視界が回り、ログの意識はそこで途切れた。



 夢を見ていた。夢だと自覚したまま、エレーナは、夢の中の自分を見下ろしていた。それは夢というよりは過去の記憶の反芻で、つなぎを省いた映画のように、焼き付いた記憶が連続して再生されていた。

 宇宙船がこの星に着いてから。着地点を決めた直後、ログによる父の糾弾。ガラクタの中からエモニのコントローラーを拾ったこと。ログが署名を集めて父をリーダーから罷免しようとしたこと。そして――――。

 思い出したくもない事実が繰り返し繰り返し、目の前で再生される。映画であればB級も名乗れないであろう、胸やけのするようなシーンばかりだ。

『憎い?』

 ささやくような声は、胸の内側からした。

『憎いでしょう?』

 覚えたばかりの悲しみを通り越して、燃えるような感情が、エレーナの胸の内に植え付けられる。

「あなたは誰?」

 言いようのない虚しさが、悲しいというのだと思い出した。だが声がささやくのは、その先――憎悪だ。それはまだ、エレーナの胸には馴染まない。

『知っているでしょう?』

 声は、懐かしい響きがした。

 銀幕を切り裂くように、再生されていた記憶が断ち切られる。現れた白い炎を、エレーナは両手で受け止めた。

『私は、あなたの心の獣の代弁者』

 炎は、エレーナを眩ませるほどにまばゆく光る。エレーナは初めて、自分が水底にいると気付いた。急に息苦しくなって、わずかに残っていた息を吐き出す。

『私の名前を呼んで』

 揺らいだ銀幕が、エレーナの背中を押す。見上げた水面は、遥かに遠かった。光へと手を伸ばして、エレーナは、苦しくなった胸を押さえる。吐き出した息を追っていくと、みるまに水面は近付いた。

 銀幕はやがて、エレーナを押し上げる翼になる。エレーナは、息の残っていない胸から、声だけを絞り出した。


「マリートヴァ!」


 伸ばした手は、冷たく硬い手に握り返された。

「エレーナ」

 指先から、感覚が戻ってくる。大きく息を吸って、エレーナは傍らのヴォラルを見上げた。まるで水を浴びたかのように汗だくになって、息がまともにできているかも怪しい。

「……ローイ、さん……」

 涙のせいか、目のまわりがひりひりと痛んだ。一瞬火照った体は、途端に指先から冷えてくる。身震いをして体を起こすと、背中を優しくなでられた。

「……あれ?」

 背中にあったはずの金属の翼が感じられず、エレーナは肩をつかんで振り返る。張り出していた金属は、随分と小さくなり、背中にぴたりと張り付いていた。

「……はっ、ごめんなさいローイさん、私、ふぎゅっ」

「謝るな。誰も、気にしていないから」

 ヴォラルの手がエレーナの顔をつかんだ。視線を逸らしながら、ヴォラルは言葉を探す。

「……俺は、辛いだろう、とか、言えないが……頼むから、気に病まないでくれ」

 ヴォラルの左手が、不器用にエレーナをなでる。エレーナは目元をぬぐった。

「……風呂入るか? 体が冷えるだろう」

「いいえ。平気……ねえ、エモニは戻ってきた? あの人達は?」

「……はぁ」

 ヴォラルは頭をガリガリと掻いて、溜息をついた。

「今は療養しろ。今日は誰も入らないように言っておくから」

「待って!」

 立ち上がったヴォラルを、慌ててエレーナは捕まえる。

「いや、いや! まだ行かないで!」

 指が白くなるほど強く、ヴォラルの服を握りしめた。ヴォラルは吐き出しかけた息を飲みこんで、エレーナの隣に座る。エレーナはヴォラルの顔を見て、はっとして手を離した。

「ごめんなさい」

「満足するまでここにいる。お前はデルタポリスの住人で、俺はそこの、いわば父親なんだから」

 エレーナは俯き、口を引き結ぶ。ヴォラルはエレーナに背を向けて座ると、左腕をなでた。

「……ローイさん、その……」

「話がしたいか? あいにく口下手でな」

「ううん。ごめんなさい」

「気にするな……と言っても、無理か」

 エレーナは再び横になる。柔らかいベッドは、汗で濡れてやや冷たかった。

「……眠ったら、嫌な夢を見そう……なのに、起きていると、いろいろ考えてしまいそうだから」

 体を包むシーツの冷たさに、エレーナは身震いした。シーツを握る手は震えている。目を閉じればそこに、忘れていたかった光景がありありと蘇った。

 父が監禁されたのは、小さな鉄の壁の部屋だった。

 少ない食料に頭を悩ませ、着陸地点の計算に夜を徹していた父は、うめき声をあげるだけの肉塊になっていた。髪は引き抜かれ、顔も手足も腫れ上がって変色していた。前歯は全てなくなっていた。そんな父を見せられて、娘が泣いているぞと背を叩かれた。やがて父は、まともではない発音で誰かを罵って、牢の壁に頭を打ち付けて死んだ。廃棄孔に投げ捨てられた母は、全身に赤い手形がついていた。それを全て見せつけられて、逆らう気力など湧くはずがない。

「……おとぎ話でもしようか」

 ヴォラルは唐突に言って、無精ひげをなでた。

「いや、昔ばなしか。だが、五百年の昔の話は、おとぎ話と言って差し支えないだろう?」

 丸くなっていたエレーナは、シーツの間からヴォラルを見上げる。ヴォラルはエレーナに背を向けたまま、長く一つ息を吐いた。

「今の地球での歴史がどうなっているか分からないが、当時はずいぶんたくさんの国があった」

「……たくさんって、いくつ?」

「……二百くらいだったかな」

 おぼろげな記憶の糸を手繰りながら、ヴォラルはぽつりぽつりと思い出話をする。

「統一政府を作ろう、という声はずいぶん昔からあった。俺が生まれたころにはもうあったと思う」

「……反対した人もいたんでしょう?」

「ああ」

 唇を指先でなぞり、ヴォラルは頬杖をついた。

「戦争を忌み嫌うのは誰もが共通して持っていなくてはならない価値観だった。何故戦争はなくならないのか? いくつも理由はあるが、その中で一つ出された極論が、独立した国家の存在だった」

「……学校では、みんながそうしたいから、一つになったって」

「それはそう教えるだろうな」

 ヴォラルは苦笑する。

「きっと、考えることに疲れたんだろう」

 エレーナは寝返りを打ち、顔の下で手を組んだ。足で持ち上げた布団は軽く、埃も立てずにひるがえる。枕元には、砂時計の形をした小さな置物があった。中に入っているのは淡い緑色の液体のようだが、砂や水のように落ちることはなく、一定の間隔で大きな雫が滴っている。

「それで、デルタポリスのもとの国は、逃げてきたのよね」

 エレーナは頬杖をついた。見上げた砂時計型の中で、ぽたりと大きな雫が落ちる。

「ああ。他の国は知らない。潰されたか、迎合したか……。そのどちらも嫌だったから、俺達は逃げた。まだ宇宙旅行がマイナーな時代だった」

「……遺産の力があれば、それなりに戦えたんじゃない?」

「ああ、だが負けて、この技術を何かに悪用されるのは嫌だったんだろう。父さんはそういう人だ」

 唇の間から息を吐き、ヴォラルは目を伏せた。

「ともかく、統一の国家になるまでにずいぶんとあれこれがあった。血も流れた。あれが最後の戦争と呼ばれるんだろうな」

「……たくさん、人が死んだ?」

「ああ」

 エレーナは、ゆっくりと作られていく雫を見つめる。透明な緑色の珠は、名残惜しそうにぽたりと落下した。下部に溜まる液体は、新しい雫を受け止めても揺らぎもしない。新しい雫との境目はすぐに見えなくなった。

「俺の本当の両親も、その時に……幼い頃だから父さんに引き取られた。俺は地球を出るその日まで、両親を忘れられないと泣いていたそうだ」

 目を瞬かせ、エレーナはヴォラルを見上げる。ヴォラルは咳ばらいを一つ、顔を上げた。

「今も、忘れたわけじゃない」

「……かなしい?」

「悲しいとも」

「……そう」

 ほろ、とエレーナの目から雫が落ちる。エレーナは枕をつかんで引き寄せると、それに顔をうずめた。ヴォラルは半身だけ振り返り、エレーナの頭を軽く叩いた。



 キューブの一つの上に座り、カルミアとエモニ、エリックは冷たい缶詰を開けていた。三人を覆うように、カルミアの遺産が両手でテントを作っている。

「カルミア、寝ないのか?」

「お腹すいちゃったの」

「食べてすぐ寝ると牛になるよ」

「いつの時代の迷信よ」

 味の濃くぼそぼそとする肉を口に入れて、カルミアは眉根を寄せる。エリックはテントの内側に寄り掛かり、息を吐く。

「痛い?」

「……お前、エモニだよな? 面構え変わったな」

「痛まないなら、寝て。日が昇ったら、デルタポリスに行くからさ」

 エモニは、腰に巻いていた布を外し、膝を抱える。と、するするとその体が縮み、布の中に納まった。カルミアも横になり、体を丸める。

「迷彩発動してるから、朝までは見つかんないと思うわ。あんたも寝なさい。これからこのちびっこに振り回されるんだから」

「いいや……なあお嬢さん、眠いところすまないが、ひとつだけ、答えてくれないか」

 エリックは眉間にしわを寄せた。

「地球に、行きたいのか?」

「……何? あたしを改心させようって?」

「いや。事情も知らねえのにそこまで言わねえさ」

 エリックは咳き込み、頭の傷に手を当てる。

「だが、まあ、何だ。地球は何もかもが行き止まりだ。俺みたいな一般人でもそれが分かっちまう」

 カルミアは、被った布の間からエリックを見上げた。手の隙間から入り込む光では、エリックの表情までは見えない。ただ、缶詰の油でともしたランプの火が、わずかに風に揺れていた。エリックは、足元のランプを持ち上げて、ふう、と消す。わずかに見えた顔は、痛々しく憔悴していた。

「ずっと前から、行き止まりよ。だから開拓団になったの」

「へえ……何年前に?」

「三十年」

「……それくらいなら、開拓の記録くらい残ってそうなものだがな……」

 エリックは、煙の出るランプを外に押し出した。

「リーダーは……ああいや、あのバカじゃなくてエレーナのお父さんな。リーダーは、この星での開拓の記録は、百年前が最新って言ってたが……」

 エリックは顎の無精ひげをなでる。暗闇の中で、カルミアの暁色の右目がらんらんと光っていた。じっと自分を見上げてくる瞳に、エリックは苦々しく顔を歪める。そして、口の中で「そうか」と呟いた。

「悪いことはするもんじゃねえな」

 暁色の瞳は、答えを欲していた。その答えを飲み込んで、エリックは抱えた膝に顎をうずめる。

「なあお嬢さん、それでも、あんたは地球に帰りたいと思うのか?」

 暁色の目を見返す。返事はなかった。



 裸足で踏むと、デルタポリスの地面は驚くほどに冷たかった。向かいのソファで眠っているヴォラルを起こさないように、エレーナは外に出る。

 静かな夜だった。涙を流して空になった心に、月の光だけが差し込むようだった。ずんと伸びた塔以外に、エレーナの視界を遮るものはない。見上げた星空は、手を伸ばせば届きそうなほどに冴えていた。

 ずいぶん昔に、学校の図画工作で、好きなものを描くという課題があった。渡されたタブレットに描いた夜空は確かにそれ「らしく」描けていたし、親も教師も褒めてくれた。だがそれは、エレーナの知る空とはどこか違った。

 エレーナが住んでいた街では、週に一度、夜の一定時間、屋外が消灯される。その時にマンションの屋上に行くと、満天の星空が見られた。少し前までは、人工衛星を処分する際の流れ星がよく見られたそうだ。だが、どこかの団体が声を上げてからは、それも一切なくなった。

 初めて夜空を夜空と認識したとき、地上の光で隠れていない星を見たときに、それに魅了される人の気持ちが分かった気がした。

「透明ね」

 呟いた感想は、夜風に消える。暗い屋上から見上げたときと、同じ色の空だった。

 白い画面に、繰り返し、繰り返し藍色を重ねた色などではない。色がないからこそ、この夜空なのだ。

「飛べる?」

 ささやいた相手は、エレーナの背中で返事をした。金属同士をこすり合わせる音がして、腕よりもまだ大きな翼が姿を現す。

「ねえ、マリートヴァ、私ね」

 自分を包むように曲がった翼の先端は、ひやりとしていた。エレーナは指先を滑らせ、それからゆっくりと笑みを浮かべる。

「帰ろうと思うの。息が止まりそうだから」

 翼は、応えるように大きく開いた。エレーナは塔の先端へ視線を向け、拳を握る。

 そうして、片翼の天使は産声を上げた。

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