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Third Phrase 『始まりの塔』

 二人は、塔の六番目の層、円錐形の頂点にいた。窓はなく、エレベーターの扉が閉まればあたりは暗くなる。ヴォラルが歩く靴音だけがやけに大きく反響した。

「父さん」

 ヴォラルがそう呼びかける。と、二人の足元が、うすぼんやりと白く光った。その光がまっすぐに床を走り、その先で壁が薄緑に光る。

「ひっ」

 思わずエレーナは息を飲んだ。

 光った壁には、巨大な水槽が埋め込まれていた。床から十数センチの部分から、天井が内側に曲がり始めるまでの数メートルが、全て水槽になっている。形は円筒状のようだ。光は、水槽の天井部分から漏れていた。

 そして、水槽の中ほどに、男が浮かんでいた。服は一切身に着けておらず、足と背中を丸めてうつむいている。丁度、生まれる前の胎児の姿が似ているか。だが腕だけはまっすぐに、自分の足をつかんでいた。水槽の下部から伸びた、おびただしい数のチューブが、男に繋がっている。

 男は、三十代半ばか、それより少し上といった容貌だった。髪は淡い色なのか、緑の光と混ざって黄緑にも見える。口や目はぴたりと閉じていた。エレーナは、学校の教材で見せられたホルマリン漬けを思い出した。

「エレーナ、彼が、このデルタポリスの創設者で、全ての遺産を作った博士だ」

 ヴォラルがそういうと、男の瞼がぴくりと動いた。

「い……生きて、るの?」

「ああ。もっとも、意思の疎通は俺しかできない。そのため、俺が代行として管理人をしている」

「デルタポリスを作ったって……一人二人で作れるものじゃないでしょう?」

 エレーナは、ここに来るまでに見たデルタポリスの風景を思い出す。

 密林の地面に金属板を押し付けて、上から家で重しをしたような街並みだった。塔を中心に、同じ形の、テントのような家が数十個。水道も電気も完備されていて、少し離れた場所には、沐浴ができる人工の河もあった。住民は、皆右目が橙色である以外に共通点もない。

「ここは本来、街じゃなかったんだ。博士が作った遺産を管理するための場所だった」

 ヴォラルが、自らの右目を指差す。水槽からの明かり以外がない中でも、その瞳が橙色に光っているのが見て取れた。

「遺産……と、便宜上は言っているが、全て、この博士が作った機械だ」

 ヴォラルは視線を、水槽の男に向ける。水槽の男が、頷いたように見えた。

「正式な名前を、人体依存型特殊ジ・メカニカル技能補助装置(・サーヴァント)という。人の右目にコントローラーを移植して使う、大昔の機械だ」

「……人の目に?」

「お前も持っているだろう」

 ヴォラルが、エレーナの右目の下をつついた。と、呼応するように、エレーナの右目の前にモノクルが浮かぶ。

「これが遺産のコントローラー、『暁の義眼』だ。これはエモニのものだな」

「……えっ?」

「博士が作った遺産は九十九ある。この塔が一つ目の遺産『始まりの塔(ラ・トゥール・バベル)』だ。デルタポリスの管理をしている。コントローラーの持ち主は、この博士」

 エレーナはヴォラルの指先を追って、水槽の男へと視線を向ける。だが、水槽の男が薄目を開いたとたん、さっと顔を逸らした。

「これで、デルタポリスと遺産のことはオーケーだな」

「えっ? いいえ、全然」

「……何が分からない? すまないな、この説明はカルミア以来だから、どうにも」

「遺産が、機械だっていうのは分かったわ。みぃんな右目がオレンジなのも、遺産を持っているからなんでしょう? 遺産は一人用の機械ってことでしょ?」

「……理解が速くて大変助かる」

 ヴォラルは眉間をぐりぐりと親指で押した。ごぼっ、と泡の音がして振り返れば、水槽の中で男が顔を歪めている。笑っているのかもしれない。

「エモニが機械だって言われたら、ちょっと納得できる。でも、人間みたいに動くロボットは地球にもいるけど、エモニは大きさまで変わるでしょう? あれは、どういうこと?」

「……地球の技術はまだ追いついていないのか……」

 ヴォラルは水槽の男を振り返る。

「博士がこの遺産を作ったのはずいぶん前だが、その当時でもかなり進んだ技術だったんだ。当時の地球は、世界平和を銘打った統一政府が、それに加わらない小国を淘汰していた」

「えっえっ、何年前の話?」

 エレーナは慌てて、長くなりそうなヴォラルの話を遮る。

 記憶が正しければ、エレーナがいた開拓団が地球を出たころ、統一政府は成立から五百周年が近かった。であれば、少なくとも五百年以上前の話となる。

「……ええと……六百……もう少し、前だったかな」

 ヴォラルはがりがりと頭を掻きながら、また水槽の男へ視線をやった。

「その時から、生きてるの?」

「ああ、遺産の持ち主は老いないから」

「それ聞いてない!」

 ようやくパズルのピースがはまった気分で、エレーナは声を大きくした。水槽の男はまた笑っている。

「……ごめん」

 体の大きなヴォラルが、妙に情けない声でそう言った。



 紙とペンをくれと主張したエレーナに、白い大きな板とペンが渡された。エレーナはそれに、得た情報を事細かに書き込んでいく。隣にしゃがんでいるヴォラルはエレーナと視線を合わせず、水槽の男はずっと肩を震わせていた。

「じゃあ、デルタポリスの人達はみんな、開拓団で置いていかれた人達なのね?」

「ああ。一番最近は三十年ほど前で、カルミアだ」

「……ちっちゃい子も?」

「ああ」

 そもそも遺産は地球で作られたものだった。だが、それは小国が持つにはあまりに過ぎた技術だと、統一政府が目をつけた。結果として、全てを奪い取られる前に、遺産を持つ小国はこの星に移住し、デルタポリスを築いた。大まかに語られたのは、そんな歴史だった。

 そこまではまだいい。

 デルタポリスの住民が、開拓団に『ケモノ』と呼ばれるようになったのは、百年ほど前からだそうだ。ほぼ不老長寿の自分達は、確かに『ヒト』からは外れるだろうと、その呼称が自称となった。

 遺産を持ち、『ケモノ』となれば命が保証される。そのため、開拓に失敗したのちに置き座られた人々やその子供を引き取り、希望者を『ケモノ』にしてきた。また、開拓の折に、デルタポリスに危害を加えようとする連中は返り討ちにした。

 そこまでもまだいい。

「何で、エモニは私を連れてきたの?」

 エレーナの一番の疑問はそれだった。

 話を聞けば、デルタポリスの生活は全て、このデルタポリス内で成立している。確かに、砂嵐に囲まれているとはいえ、いつ開拓団が資源を求めてやって来るとも知れない。だが、カルミアが不寝番だと言っていたように、ケモノ達はデルタポリスを守っている。そして、返り討ちにできる十分な戦力もあるのだろう。ならば、わざわざ開拓団に手を出す必要もないだろうに。

「エモニの仕事は偵察だ。それで、きっと、君のことが気に入ったんだろう」

「でも。地球も技術が進んでいるんだから、そんなことをしたら、いつか誰かがやってくる。そうしたら、また、搾取されてしまうんじゃない? 誰かが捕まったら、解析されて、量産されるかもしれない」

「我々は決して、現状を最良と考えてはいないんだ。エモニはそれをよく知っている」

 ヴォラルは口元を歪めて笑った。

「遺産は我々を生かしてくれるが、それは死からの開放じゃない。……エモニは、遺産がある本当の意味を知っている。遺産の本当の利用方法も知っている。だから、人を集めようとするんだ」

「……まだ何か隠しているでしょう」

「まだ君がケモノになると決まったわけじゃないから、全ては話せない」

 ヴォラルが言って、えっ、とエレーナは右目に手をやる。

「ああ、エモニは特殊な遺産でな。マスターへの影響が少ない。君がもしデルタポリスに留まるなら、そして、我々と同じ時間を生きたいならば、別の遺産を持つしかない」

 ヴォラルが立ち上がり、ばっ、と部屋が明るくなった。エレーナはまぶしさに目を細める。

 男が入っている水槽と同形の、だが大きさはその三分の一ほどの水槽が、壁一面に並んでいた。縦に三つ、横は壁に沿ってぐるりとなっているので正確な数はまだ分からない。中に何かが浮かんでいる水槽もあれば、空の水槽もあった。男が入っている水槽の右下だけ水槽がなく、代わりに小さな扉がついている。

 浮かんでいるものは、一様に、緑に色づいた銀色をしていた。おそらく、陽の光の中では、ヴォラルの腕と同じ色をしているのだろう。エレーナは水槽を見回して、感嘆の息を吐く。

 まぶしさに目が慣れると、それぞれの水槽の上に番号と文字が書かれているのが分かった。二番から九十九番まで。これが、ヴォラルの言う人体依存型特殊ジ・メカニカル・技能補助装置(サーヴァント)、つまり遺産だろう。

「これは博士の最高傑作で……。俺が持っているこれが九十九番目だ。ここで生きたければ、好きなものを選ぶといい。死にたければ、強制はしない」

 ヴォラルの視線に、初めてエレーナはぞっとした。優し気な青年の顔でも、口下手な保護者の顔でもない。狼のような鋭い眼光だ。

「我々は既に、ヒトの理の外にいる。ケモノで、化物だ。それでもいいなら、歓迎しよう。俺はこの遺産を継いでいかなければならないし、そのためには、人が要るのだから」

 足元の光が、ふっと消える。薄緑色の光の中で、ヴォラルの腕と右目だけが光っていた。

 エレーナはうつむいて、緩く手を握る。

 嗚呼、あの牢獄から連れ出されて、少し優しくされたから、希望を持ったのに。思えば、開拓団で働いていれば、苦しかろうと、その日暮らしだろうと、いつかは解放されただろう。それがどのような形であれ、どれほどの苦痛を伴ってであれ。

 だが、ここでケモノの仲間入りをすれば、その先にあるのは、あまりに不明瞭な年月(としつき)だ。優しくされるかもしれない。居場所が与えられるかもしれない。少なくとも、自分がケモノである限りは。

 だが、何年先も、何十年先も、何百年先も、自分はここにいて、幸せだろうか。

「分からない」

 エレーナは自答した。

 死んだまま生きて、苦痛の果てに何かを勝ち取るか。

 人であることを辞めて、安寧を得るか。

「……ゆっくり考えるといい。君にも我々にも、時間はいくらでもある」

 ヴォラルがそう言って、エレベーターへと足を向けた。



 デルタポリスから少し離れると、密林は右も左も分からないほどに木々が生い茂っていた。エレーナは、洗ってもらった自分の服を着て、密林を当てもなくぶらつく。密林の草は柔らかく、裸足でもけがをしないのでは、とエレーナは思っていた。だがそれはほんの一部のようで、とげとげしい蔦や、触れた途端に鉄のように堅くなる葉などが、そこら中にあった。

「痛っ!」

 思わず声を出して、エレーナは自分の手を見る。右手の甲をどこかに引っかけたのか、細い切り傷ができていた。血がぷつぷつとにじんでいて、エレーナは苦い顔で傷を舐める。

 足を止めたエレーナに、影がかかった。エレーナは振り返り、木々の上へと視線を向ける。

「眠いんじゃなかったの?」

「……ふうん、勘はいいのね」

 木の陰から現れたのは、カルミアだった。

「隠れる気がないだけでしょう? 私にご用事?」

「まあね。あんた、遺産は何にした?」

 カルミアは、エレーナの隣に降りてきた。

「……まだ決めてないわ。ケモノになるとも決まってないし」

「あらそう。でもあんた、開拓団に戻りたいって顔でもないでしょう」

 カルミアは機械の手を伏せさせ、座れ、と指で示す。エレーナは、ひやりと冷たい手の甲に座った。

「えっと、カルミアさんは」

「カルミアでいいわ。年も近いでしょ」

「カルミアは、どうしてケモノに? ほかに選択肢がないわけじゃないでしょう?」

「じゃあ何? こーんな辺境の星で、大人しくババアになって死ねって? 冗談じゃない」

 カルミアは足を組み、手を広げて見せた。

「あたしはね、地球に帰りたいの。そして、あたしを捨てていった連中を見つけて、言うの。地球での金持ち生活はどう? あたしは金はないけど、あんたたちを握りつぶせる手を持っていますってね」

 そう語るカルミアの瞳は、驚くほどに澄んでいた。怒りや憎しみではなく、純粋に、それを楽しみにしているようだ。

「復讐?」

「ええ。長生きなんて、それくらいの楽しみがないとやってらんないわ」

 あっけらかんとして、カルミアは自身の心内を吐露した。

「開拓団なんて、要するに姥捨てでしょう? 遠い星だから復讐できないし、生き延びられるかもしれないから、殺した罪悪感も薄い。ヒドいモンよね。だから、ここの遺産を持って行ってぶっ潰すの」

 カルミアは、機械の手をなでる。

「だからいつか、仲間を増やして、開拓団を襲う」

「……え?」

「そうすれば、開拓団の宇宙船が手に入る。宇宙船さえあれば、地球に絶対行きたくないって人はきっといないわ。みんな地球が故郷だもの。デルタポリスのお父様だって、きっと、地球の統一政府は憎いと思う心があるはず……」

 ふと言葉を切り、カルミアはエレーナに視線を向けた。エレーナはカルミアの話を聞きながら、足下の草を踏んですりつぶしている。膝に肘を乗せて頬杖をつき、カルミアは目を細めた。

「あんた、やっぱりケモノになりなよ」

「えっ?」

「あんたも、開拓団が憎いんでしょ?」

 カルミアは笑っていた。だがエレーナは、その言葉に心臓が跳ねて息を飲む。

「それは……その」

「ここの暮らしも悪くないよ。あんたならきっとすぐ馴染む」

 カルミアが立ち上がり、エレーナは手の上から退いた。

「それでいつか、一緒に復讐しようじゃん」

 大きな手を翼のように広げて、カルミアはエレーナに手を差し出した。

「ケモノになれば、あんたが憎い連中の喉笛に噛みつけるよ」

「でも、私は」

「それに自由だ。ヒトの理に従ってやる義理なんかなくなるから。ま、それでも心ばかりはヒトでいたいなら、応援はするけどね?」

 じゃあね、と挨拶もそこそこに、カルミアはひらりと木の上へ行ってしまった。それをぼんやりと見送って、エレーナはまた考えを巡らせる。だが、二つの選択肢のどちらに行こうとしても、目の裏に焼き付いた光景がそれの邪魔をした。まるで、そのどちらも許さないと言うように。

「……痛い……」

 エレーナはしゃがみ込み、血がにじむ手の甲を握った。



 温かい食事と清潔なベッドに服、毎日浴びられる熱いシャワー。どれも、エレーナは開拓団では得ようもなかった。大人でも精一杯の労働と劣悪な環境で、体の汚れも気にかけなくなっていたのだが。

「エレーナちゃん、すごいわ、こんなやりがいのある子初めて」

「……すみません」

 小さなテントのような家には、玄関のほか、トイレ、浴室、リビング兼寝室がある。外見よりずいぶんと広く感じられ、窓と戸を閉めてしまえば外の音もほとんど遮断された。壁に沿って作られたレモン型の浴槽に入れられ、エレーナは頭から湯をかけられていた。ヴェナは目の粗いタオルで、エレーナの首や背中を丹念にこすっていく。

「いいのよ。女の子はきれいでいなくっちゃ。さ、前は自分でできる?」

「はい」

「髪の毛は、お湯でよく洗ってからシャンプーを使ってね。白い泡がたつまで何回でも。リンスはこっち。耳の後ろまでよーく洗うのよ」

 排水溝に流れていく汚れが全部自分の体から出たと思うと、エレーナはぞっとした。さぞ臭っていただろう。

 十人が十人頷く美少女になって、エレーナは浴室を出た。脱皮とはこんな感覚だろうかと、自分の体を見下ろしてエレーナは苦い顔をする。体が一回り小さくなった気までした。

「終わった?」

 玄関の向こうから、エモニが顔を出す。エモニはエレーナを見ると、ぱっと顔を明るくした。

「わあ、きれい、きれい! 俺が初めて見たときみたいだよ、ララ。まるでお姫様だ」

「こら、エモニ。今きれいになったところなんだから、汚れた手で触らないの」

「はぁーい」

 エモニは手洗い場で、両手の泥を落とす。子供たちと遊んでいたのか、何か仕事をしていたのか、顔や髪にまで泥がはねていた。

「へっへーん、ぴっかぴか。触っていい?」

「え、ど、どうぞ」

 エレーナが頷くとほとんど同時に、水で冷えた両手がエレーナの頬を覆った。人の手のように柔らかい両手が、エレーナの頬を揉みしだく。

「もちもちだねえ。ララはきれいだし、可愛いし、柔らかいねえ」

 エモニは目を細めて笑う。

「たくさん汚れて、たくさん頑張ってたんだねえ」

 エレーナはうつむいて、両手の指を絡ませた。汚れは洗い落とせても、荒れた手までは治らなかった。ヴェナがクリームを塗ってくれてはいたが、爪も指も掌も、細かい傷だらけで固くなっている。

 唇を緩く噛んで、エレーナはエモニの手を払った。

「……ローイさんに、会ってくる」

「ローイ……ああ、ヴォラルか。行ってらっしゃい」

 エモニとヴェナに見送られ、エレーナは塔へと向かった。さして長くもない直線の道が、眩暈がするほど遠くに思える。まだ濡れている髪が重かった。

 ヴォラルはエレベーターの前で、エレーナが来るのを待っていた。来ると知っていたように、何も言わずにエレベーターの扉を開く。遺産が並んだ層で降り、二人はしばらく黙って、水槽の男を見ていた。

「……まだ、私の気持ちが正しいか分からない。幸せになっちゃいけないんじゃないかって思うの」

 ぽつりと言って、エレーナは自分の胸元に拳を当てた。

「デルタポリスに来てから、ここがずっと痛い。……でも、死にたくないし、ただ生きていたくもないの」

「それでいいだろう。皆、悩んで、それでも生きたいと願ってここにいる。生きていれば、いつか自分の望みが見つかるかもしれないと」

 エレーナは振り返り、ヴォラルを見上げる。

「あなたも?」

「俺はもう叶った」

 ヴォラルが視線を逸らし、エレーナがそれを追って遺産へと目を向ける。空の水槽をいくつか通り過ぎた後、エレーナは一つの遺産に近付いた。

「……これは?」

片翼の天使(マリートヴァ)

 水槽には、銀色の翼が浮かんでいた。鳥の翼をかたどっているが、ほとんどは直線で構成されている。根元の肩羽と上部に二本、計三本の金属柱があり、そこからうす平べったい羽が三層になって生えている。エレーナは知らなかったが、この銀色の翼は忠実に、鳥の翼の構造を再現していた。羽の一つ一つは、菱形の一つの頂点だけを引き延ばした形をしていた。

 ヴォラルは、その翼が浮かぶ水槽の上、アルファベットが刻まれた金属プレートをなぞる。

「マリー……不思議な文字ね。習ったことがない形」

「ロシア語だ」

「ええと……ユーラシアの北を席巻した国、だったかしら。ふうん。昔は国で言葉も違ったのね」

「ああ、統一政府が作った言語はエスペランサとか言ったか」

「ええ。……私、この遺産にする」

 エレーナは、マリートヴァの水槽に触れた。

「……それは、装着すると外せないものの一つだ。それでも?」

「ええ。もういいの」

 振り返ってヴォラルを見上げ、エレーナは淡々と言った。

「どっちにいても、私は生かされるしかできないもの」



 始まりの塔からまた一つ遺産が取り出され、塔の頂点はやや不規則に瞬いた。鉄色の翼を生やした天使がエレベーターで降りていくのを、水槽の男はじっと見つめていた。

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