Second Phrase デルタポリス
父に呼ばれて、眠い目を擦って見下ろした星は、赤茶けていた。地軸がどうとか、自転と公転がどうとか、難しいことはエレーナには分からなかったが、北と南で違う世界のようになっているのだということは分かった。地球でも極寒の地域から常夏の国まで様々だが、この星はそれが顕著なのだそうだ。北半球は密林に覆われ、南半球は赤茶色の砂が舞っている。密林の周囲は砂嵐があり、その密林に、『ケモノ』と呼ばれる未知の生命体が存在している。その『ケモノ』がいるために、今まで何度も開拓団が送られているのに、遅々として開発が進まないのだそうだ。
「デルタポリスって?」
「君たちが『ケモノ』と呼ぶ、俺達の街だよ」
「……シャワーある?」
「喉乾いたの?」
「違うわ」
どうも、時折エモニとはすんなりと話が通じない。元々人の話を聞かないとは思っていたが。
「ララ、ごはんは好き?」
「お腹いっぱいよ」
「じゃあ、今欲しいのは?」
「……暖かいシャワーと、洗濯された服と、ベッド」
どれも、ご無沙汰になって久しい。
「だってさーっ!」
突然、エモニが森へ向かって叫んだ。
「……うるっさいわね。お客様気取ってんじゃないわよ」
面倒そうな少女の声が降ってくる。エレーナが声の方へと視線を向けると、がさりと木の枝が揺れた。
木の枝に、少女が立っていた。顎のラインで切りそろえられた栗色の髪に、橙色の右目。左目は琥珀色をしていた。少女が枝を蹴り、その体が宙へ浮く。落ちる、とエレーナは息を飲んだ。
しかし、少女の背後から大きな影が飛び出して、少女をそっと受け止めた。
「ダブルバインドじゃない。今日の見張り?」
「そういうあなたはお久しぶりの顔ね。何の用? ふらりといなくなって、また百年は行方不明だと思っていたのに。随分お早いご帰還だこと」
エモニの目線ほどの高さまで降りて、少女は地面に降り立った。少女を支えていたのは、エレーナならば軽く握りつぶせそうな大きさの手だ。
「ご挨拶だね。この子、俺のマスターなんだ。入っていい?」
「……ふ、うーん……」
少女は腰の後ろで両手を組んだ。大きな黒い手を追うように、白塗りの手が森から飛んでくる。二つの巨大な手は、翼のように少女の背後に並んだ。じろじろと無遠慮に顔を眺めてくる少女に、エレーナは俯き加減になる。エレーナの全身をじっくりと見終わると、少女は露骨な溜息をついた。
「確かに暁の義眼ついてるわね。運がいい子。育ちも気立てもよさそう。ああ、妬ましい」
とげとげしい少女の言葉に、エレーナは一歩退く。
「こんな子もケモノにしちゃうなんて。見境がないのね」
「ララはいい子だよ」
「あんた基準でしょうが」
え、とエレーナはエモニを見上げた。
「ケモノって……あなた達がケモノじゃないの? 私がケモノなの?」
「……なぁんにも知らないのね。無理もないけど。持ってるでしょ? これ」
少女は自らの右目に指を添える。と、しゃりん、と金属が擦れる音がして、歯車のモノクルが現れた。先刻、エレーナの右目に現れたものと同じだ。
「これを持ってる人が、ケモノなの?」
「そうよ。詳しい話は、もっと優しい人に聞いて。あたし不寝番で忙しいの」
少女は森の奥を親指で示すと、黒い手に飛び乗った。手はふわりと浮き上がり、また少女を木の上へと運ぶ。
「入っていいって。暖かいシャワーと、洗濯された服と、ベッド、全部あるから行こうか」
エモニに引きずられるようにして、エレーナは森へと踏み入った。
しかし、労働で疲れ切っていて、デルタポリスに着いたと言われる頃にはエレーナはほとんど寝ていた。立ったままぐらぐらと揺れているエレーナを、エモニが抱き上げる。こつん、とエモニの靴が、固い地面を踏んだ。数歩戻れば密林に飲み込まれている地面は、青白くつるりとしている。いくつもの金属板を張り合わせたように、一定の間隔で溝があり、溝の交差地点からは草が生えているところもあった。
やがて木々の闇が晴れ、月明かりが無機質な地面を照らす。エモニの靴音があたりに響き、木々の間で反響した。
エモニの眼前に広がるのは、青白い街だった。中心にそびえ立つのは、先がやや細った柱状の塔で、そこから円錐形の家が同心円状に並んでいる。テントのような家々は、四角い入り口を一様に中心の塔へと向けていた。どの家も明かりはついていない。中心の塔のみ、側面にわずかな光をともしていた。
塔は、よくよく見れば、いくつかの背の低い円柱を重ねたような形になっていた。一番下は暗く、側面は青白い金属板で覆われている。二番目はガラス張りだが、やはり暗い。三番目は回路のように、壁の表面に溝が彫られていた。そこを、ゆっくりと光の球が移動している。四、五番目は他の層より高さがなく、それぞれ逆の方向にゆっくりと回転していた。六番目の層は最も背が高く、やや膨らみのある円錐形で、これが頂点になっている。窓は一つもなく、先端が時折、思い出したように紅く点滅していた。
寝息を立て始めたエレーナを抱え、エモニはその塔へと近づいた。
ぽっかりと開いた穴に入ると、青白い床はすぐに、光が届かず黒々とした闇に飲み込まれる。塔の内側はがらんどうで、こつんと鳴った足音はしばらく響いてから消えた。
「……だーれが殺したクックロビン……」
天井を見遣って、エモニは床に座る。エモニの足と腕の中で、エレーナはすっかり熟睡していた。
「私が殺した、スズメが言った」
エモニの手がエレーナの頬をなでる。ぎしりとその腕が軋んで、一回り小さくなった。
「……それならスズメを殺さないとね」
エモニの体は一秒ごとに小さくなり、やがてエレーナと同じ年ごろの少年となる。大きくなった服を床に敷いて、エモニはエレーナに添い寝した。
「駒鳥の雛は死なせやしない」
エレーナの汚れた服、その襟の裏に指を入れると、小さなチップを取り出した。襟の裏に縫い付けられていたようで、白い糸が絡まっている。黒い、小指の爪ほどの大きさのそれを見、エモニは口元を笑わせた。
「皆殺しだ」
言うや否や、エモニの指先でチップはべきりと二つに折れた。
周りで誰かが歩いている音がした。エレーナの意識がゆっくりと持ち上がり、遠かった音が近付いてくる。同時に、自分が冷たい床に寝ていることに気付いた。だが瞼を開く力はなく、ただ耳からの情報だけが入ってくる。
「起きた?」「寝てるよ」「起きたんじゃない? ほら瞼が」「静かにしなさいな」「まだ寝てるでしょ。暢気なものだわ」「カルミアにしたら、この都市の子みーんな暢気だわ」「エモニは?」「このちっちゃいのでしょ。マスターが寝ちゃったから縮んだんだよ」「ほらほら、退いて。もうちょっと寝かせてあげなさい。ベッドに運ぶわ。カルミア」「げっ」
嫌がったその声に、聞き覚えがあるような気がした。身体が、下に敷いている服ごと持ち上げられる。
「不寝番で眠いのに、なんであたしが……」
「力持ちじゃない、あなたの遺産」
「好きで力持ちになったんじゃないわよ」
ああ、とエレーナは思い出す。この声は、先刻、森の入り口で自分とエモニを迎えた少女のものだ。とすると、今自分を持ち上げているのは、あの大きな手だろうか。頭が重たくて考えが回らない。
揺れながら、どこかに運ばれていくのが分かった。敷いていた服の端をつままれているからか、自然とエレーナの体が丸められる。
「カルミア、コウノトリみたい!」
「あら、あんたコウノトリ見たことあるの?」
「データベースで見たよ。小象を運んでるの」
「耳でお空を飛ぶんだよー!」
ああ、その映画なら見たことがある。エレーナはようやく覚醒を始めた意識で同意した。
「……起きた?」
途端、耳元でそんな声がした。
「起きたね、ララ」
「……に?」
唇は動いたが、声は出なかった。エレーナはようやっと目を開けて、真っ白な光を受け入れる。
「う……」
「あら、起きたの」
やや乱暴に地面に下ろされ、エレーナは呻く。髪を手でどかして上を見ると、昨晩の少女が腕を組んで、エレーナを見下ろしていた。
「……おはよぉ……」
「はいおはよう。起きなさい」
眠い目を瞬かせて体を起こし、空を掻く。その手をつかんだのは、少年の姿になったエモニだった。
「おはよ、ララ!」
「……ちっちゃくなった……?」
「そりゃあなるよ。俺はパビエーク・バムブーカだからね」
「ぱび……ふぁああ……」
ぺたりと座ったまま、エレーナは目を擦ろうとする。が、指と瞼に砂の感触があり、目頭を押すだけにしておいた。がっしりと、いきなり大きくなったエモニの手がその体をつかんだ。
「さあララ、あったかいシャワーとお布団とご飯だっけ?」
「……おろして」
「高い高ーい」
「降ろして!」
エレーナが足をじたばたとさせ、エモニは笑いながらエレーナを降ろす。カルミアは、細い両腕を組んでふんと鼻を鳴らした。
「あら、起きたのね。まずは沐浴かしら。そんな砂だらけでお風呂に行ったら、排水がじゃりじゃりになっちゃうわ」
カルミアやその周りに集まってくる少年少女の向こうから、恰幅のいい女性が現れた。
「ママ、この子は新しいきょうだい?」
「そうよ。さ、朝ご飯まで遊んでいらっしゃい。もうすぐヴォラルさんくるからね」
はあい、といい返事をして、子供たちが散っていった。カルミアも、腕を解いて踵を返した。
出ていったカルミアが、数歩先で止まる。エレーナがそちらへ視線を向けると、ふっとあたりが暗くなった。一人の偉丈夫が入り口の前に立ったために、日の光が遮られたのだ。
「おかえり、エモニ」
ずん、と、腹に響く声だった。傍らのエモニは、ぱっと幼い姿になってその偉丈夫に駆け寄る。
「ヴォラル! んへへへ、俺頑張ったから今日は甘えていい?」
「もう甘えているだろう」
飛び上がったエモニは、偉丈夫の肩に乗って両手でその頭を抱きしめる。エレーナはぐっと唾を飲んだ。
偉丈夫は、さっと横によけたカルミアの頭を軽く撫でる。カルミアは顔を真っ赤にして俯いた。軋むほどに拳を握っていた二つの大きな手は、地面にぐったりとして転がっている。
「君がエモニのマスターか」
偉丈夫が、エレーナの前に片膝をついた。逆光が和らぎ、エレーナは、その顔が存外若く、優し気な目をしていることに気付く。エレーナは視線をエモニへとやり、小さくうなずいた。
「そうか。随分苦労をしたようだ。それに、嵐をそのまま抜けてきたな。きれいな髪まで砂だらけだ」
偉丈夫の右手が、エレーナに向かって伸びる。エレーナはきゅっと唇を噛んだ。偉丈夫は、髪に触れる直前で手を引っ込め、細く息を吐く。
「疲労が溜まっているようだ。ヴェナ」
偉丈夫は背後を振り返る。「はあい」と恰幅のいい女性が現れた。
「シャワーと、服が必要そうだ。任せる」
「はいはい」
ヴェナは、右目だけが橙色に光り、髪と左の瞳はダークブラウンだった。ぽってりとした両手が体をつかみ、ふわりとエレーナの体が浮かぶ。
「ふぇっ!?」
「さ、シャワーに行きましょう」
「え、ちょっと、あの?」
シャボン玉が風にさらわれるように、エレーナはふわふわと浮いたままで運ばれた。偉丈夫の肩に乗っていたエモニが、「いってらっしゃーい」と手を振っていた。
ぬるま湯で沐浴をさせられ、渡された清潔な下着と白いワンピースに着替えたエレーナを、エモニが待っていた。
「さあ、ヴォラルとお父様に挨拶しよう」
ようやく目が冴えたエレーナの手を引いて、エモニは町の中心へと向かう。
「あれは?」
そびえ立つ塔を見上げて、エレーナは目を細めた。塔はつるりとした表面に太陽を映している。無機質な地面や外見も相まって、エレーナは、自分が地球から遠く離れた場所にいることを自覚させられた。
「あれは、始まりの塔。いっちばん最初の遺産なんだ」
地球の都市は、安価な灰色のコンクリートを主な建材として作られている。同じものをコピーしたような風景はデルタポリスも似ているが、デルタポリスのベースカラーは青だ。
「ねえ、どうしてここはこんな色をしているの?」
「んー? 俺知らないや。興味ない」
「……ふうん」
湧き上がる疑問を飲み込んで、エレーナは前を向いた。塔の入り口、今朝方エレーナが寝ていた場所に、あの偉丈夫が立っていた。明るい日の光に照らされると、偉丈夫の左腕が鈍く光った。肩から指先まで、銀色のもので覆われているようだ。
「ご苦労、エモニ」
「ん!」
「ここから先は俺が預かる」
エモニはエレーナの背を押す。エレーナが偉丈夫の前に歩み出ると、「じゃあね」と言い残して踵を返した。表情を硬くして、エレーナは偉丈夫を見上げる。
「……空の向こうに憧れたんだ」
「……?」
「ここの色だ。このデルタポリスを作った人々は地球から来た。だから、遠い地球を思って、その地球がある空を見た。それが、この色だ」
「はあ……」
「中に。色々聞きたいこともあるだろう」
ドアのない一階の中心には、円筒型のエレベーターがあった。一つしかないボタンを押すと、即座に扉が左右に開く。白い筒の内側は、淡い橙色の光で満たされていた。音もなく扉が閉まり、二人は上へと向かっていく。
「パンケーキは好きか?」
「え? はい、まあ」
「ジャムは」
「ええと……ブルーベリーが」
エレベーターは反動一つなく止まり、扉がさっと開く。明るい日の光に照らされた、広い空間に出た。ガラス張りのフロアだ。塔全体がほぼ円錐形であるので、外側のガラスもカーブしていた。
「来客フロアだ」
「はあ」
偉丈夫の言葉に、エレーナは生返事をする。磨かれた床を歩くと、こつんと靴音がフロア全体に響いた。
エレベーターを降りて、右側に少し進むと、円卓が一つ置いてあった。白い床から生えているような、白い、一本足の円卓だ。同じように、床から生えた椅子が二つ向かい合っていた。
フロアはその円卓の向こう側から、壁で仕切られていた。壁は植物のレリーフが刻まれ、腰ほどの高さに小さな扉が一つついている。偉丈夫はその扉へと近づいた。
エレーナはあたりを見回し、それからガラスの外周へ駆け寄った。空調があるのか、わずかに暖かい風を感じる。ガラスに額をくっつけるようにして下を見ると、先ほど寝かせられた家は随分と小さく見えた。
「ララ」
そう呼ばれて、はっとしてエレーナは振り返る。円卓に、ジャムとクリームの乗ったパンケーキが置かれていた。エレーナが椅子に座ると、空のマグカップが差し出される。
「飲み物は?」
「え……その、えっと……」
「好きなものを」
「じゃあ……あったかい、ココアを」
円卓の中央にマグカップを置くと、みるみる、カップがココアで満たされた。エレーナは目を丸くする。
「さあ、どうぞ」
「……ありがとうございます……」
甘い香りがして、エレーナは空腹を思い出した。よく磨かれたフォークは、持つとほのかに温かい。二枚のパンケーキの上で、溶けたクリームがゆっくりと形を崩し始めていた。ブルーベリーのジャムとクリーム、それに粉砂糖が混ざって皿へと流れる。
「でも、私お金なんかないのに」
「取るわけがないだろう」
「それに、ごはんの前におやつなんて」
「叱ると思うか?」
「でも……だって……」
フォークを持ったまま、エレーナはごくりと唾を飲み込んだ。偉丈夫はエレーナの向かいに座り、自身もマグカップにコーヒーを満たす。
「どうぞ、召し上がれ」
「……いただきます」
エレーナはナイフをつかみ、パンケーキにフォークを突き刺した。意を決したように切り出したケーキを、大きく開いた口に押し込む。二切れ目には、滴るほどにジャムとクリームをつけた。口の中が乾いて、ややぬるくなったココアで流し込む。
偉丈夫は何も言わずにカップを傾けた。エレーナは喉を鳴らしてココアを胃に収めると、汚れた口元を乱暴に拭った。手の甲についたジャムとクリームを舐めとって、またナイフを取る。
あまり甘くないパンケーキだった。だが、冷たいクリームとジャムをとろかす程度に温かく、口に入れると甘い香りが広がる。ナイフで切ると、一瞬しぼんだ断面は即座にふくらんだ。
最後のひと切れで皿を綺麗に拭き、ナイフとフォークを並べて置く。ココアも飲み干して、エレーナはもう一度口元を拭いた。
偉丈夫がタオルを差し出す。それを受け取って、エレーナは目の下も親指で拭った。いつの間にか流れていた涙が、今更のように存在を主張する。澄んでいた視界はうるんで歪み、鼻の奥はつんと痛んだ。目の奥が熱を持っている。
「……夢じゃ、ないんだ」
開いた口から、やっとのことでエレーナはそう絞り出した。
「まずは名前を聞こう。ララ、君の本当の名前は?」
「……人に聞くなら、教えてくれる?」
「ヴォラルだ。ヴォラル・A・ローイ。デルタポリスの管理を任されている」
「……エレーナ」
二杯目のココアをもらい、エレーナはヴォラルを上目遣いで見上げた。
「そうか、エレーナ。エモニが突然すまなかったな」
「え? ううん……たくさん助けてもらったし」
エレーナは首を横に振る。ヴォラルは「そうか」と目を細めて笑った。
「昔から、エモニはああでな。開拓団が来たと聞くと、飛び出していって潜り込むんだ。気に入った人をマスターにして連れてくることもある」
「……えっと」
「何から話そうか」
こつん、とヴォラルはカップの底を鳴らした。
「デルタポリスのことか、ケモノのことか、遺産のことか」
「全部で」
「……はいはい」
ヴォラルはまた小さく笑い、椅子から立ち上がった。
「父さんに会いに行こう。こっちにおいで」
エレーナは頷き、ヴォラルの後を追った。