Eleventh Phrase 雨上がり
開拓団とデルタポリスが協力関係となってから一週間が過ぎた。ヴォラルとエリックは話し合いを重ね、カルミアとログの処遇は抜きに、開拓を進める上で協力することを約束した。
ヴォラルが四度目にシェルターを訪れた朝は、珍しく、雨が降っていた。
「なあ、ヴォラル、その人は?」
エリックはゲートでヴォラルを出迎えながら、その隣の男に視線を向ける。
「ああ、医者だ」
「……へえ?」
ヴォラルが医者だと紹介したのは、本人が病人ではないかと疑わしいほどに痩せ細った男だった。
「初めまして、開拓団のリーダーさん。フィシン・E・ローイと申します」
胸元に手を当て、男、フィシンは礼をする。エリックもそれに合わせて頭を下げた。
「ローイって……」
「ああ、うん。彼の父親代わりで」
「じゃ、あの遺産を全部作ったっていう?」
「まあ一応、そういうことにはなるのかな。勿論、まさか全部ひとりで作ったわけではないけれど」
フィシンは気の抜ける笑みを浮かべ、頬を掻いた。
「まあ、好きに呼んでくれていい。フィシンでも、博士でも、機械工学の権威でも、天文学者でも、心療医でも、引きこもりでも、ケモノの親とでも」
「そ……そうか。歓迎、します」
交わした握手の冷たさに、エリックは身震いをこらえた。
「じゃ、早速案内してもらおうかな」
「ああ、はい。じゃあとりあえずぐるっとシェルターを」
「いいや、あなたの弟さんのところへ」
フィシンは笑顔のまま、エリックの肩に手を置いた。細められた奥の目が笑っていないと気付き、エリックは今度こそ身震いをする。
「……何故?」
「今は言えない」
フィシンはすっと背筋を伸ばした。
「ただ、少し、話をしたいと思って」
薄いフィシンの笑みに、エリックは眉根を寄せた。
砂だらけになり、エレーナは泉で水浴びをしていた。気温は高く湿度もある。ただでさえ、開拓は重労働だというのに。
「エレーナ、服、ここに置いておくよ」
木の向こうから、エモニが声をかけた。返事をして、エレーナは肩まで水につかる。背中のマリートヴァの重みも、ずいぶん気にならなくなってきた。
「……そうだ。ねえエモニ、ちょっとこっち来て?」
「えっ? 俺は構わないけれど……」
エモニが近づくと、エレーナはその足をつかんだ。えっ、とエモニが声を出す間もなく、エレーナはエモニを池に引きずり込む。
「うわっ!」
濡れた泉の淵で滑り、エモニはそのまま、頭まで水を被った。
「何するんだ、エレーナ」
「ほら、綺麗になった」
立ち上がったエモニの頬を、エレーナは両手で包んだ。エモニは言葉を飲み込み、瞬きをする。
「エモニだって汚れてるし、誰よりも働いてるのに、バケツの水浴びて終わりにするんだもん。綺麗にしよう」
「……言ってくれれば入ったよ。危ないなあ」
エモニは指先でエレーナの額をはじく。エレーナは水に浮いていたタオルを取り、エモニの顔を拭き始めた。
「すごい、肌がちょっと明るくなった」
「ちっちゃい砂とか埃がくっつくからね」
「ほら、しゃがんで。髪も綺麗になると思う」
「俺は自分で手入れできるからいいのに。確かに、道具の手入れは人間の仕事かもしれないけどさ」
言いながら、エモニは膝を曲げる。エレーナは眉根を寄せ、エモニの頭をつかんだ。
「私には仲間って言うのに、自分には道具って言うんだ。エモニ、最近そうだよね」
エモニはうっと言葉を詰まらせた。
「私は、エモニは人間だと思ってたよ」
「そりゃ、開拓団に入るから、ちょっとはそれっぽくするさ。でも、俺は機械なんだよ。デルタポリスの皆のことは、家族みたいに思ってる仲間だよ。でも、人間と機械じゃちょっとずつ違うんだから、そう意識しないとね」
エモニはエレーナを見上げ、首を傾げる。
「何か怒ってる?」
「……んーん。別に」
「それ、怒ってるときの言い方じゃないか」
エレーナは口を閉じ、砂が詰まったエモニの関節を洗い始める。エモニはエレーナを見上げたまま、開きかけた口を引き結んだ。肩から肘、指先と、細かい砂は関節の隙間から洗い流され、水面に浮いた。濡れて、エモニの頬に張り付いていた髪は、強い日差しで瞬く間に乾いていく。
「エモニって、怒ったり笑ったりするけどさ」
「あ、うん」
片手をすっかり洗ってから、唐突にエレーナが切り出した。
「それって、誰かの真似? それとも、エモニに、人みたいな心があるってこと?」
エレーナと目が合い、エモニは答えに窮する。即座に出た答えが、正解だとは思えずに飲み込む。
表情をスキャンすれば、エレーナが望む答えと事実を用意はできる。表情を作って望む答えを言えば、エレーナは満足するだろう。
「感情のシステムはある……けど……」
「じゃ、人間と道具って線引きしようとするのはどうして? この間まで、もっと好き勝手やってたじゃない」
「それは、ヴォラルとフィシンが止まってたからだよ。今の俺には仕事があるんだ。道具は道具らしくしないと」
エモニは、洗われている手を見下ろし、諭すような口調になる。
「ちょっと変に見えるかもしれないけれど、これが、パビエーク・バムブーカと名付けられた俺の、本来の姿なんだよ」
「……嘘」
「嘘じゃない。どうして嘘なんか」
「エモニだって、こうしたいって思う心があるでしょう。好き勝手やってたんだから、なおさら」
エモニの言葉を遮り、エレーナは微笑んだ。
「それ、聞きたいな」
フィードバックがないはずの掌から、エレーナの冷えた手の感触が伝わってくる。
いつかも言われた言葉。あの時は確かに、自分の望みだと言い切れる言葉を口にした。その望みを失って、いつかの未来のために、我慢すると宣言した。
「あ」
はた、とエモニは気付く。
道具だから人の命令を聞く。道具だから人のために尽くす。道具だから、ワガママは言わない。道具だから。道具だから。道具だから……
本当は?
エレーナやほかの住人達をデルタポリスに連れてきたのは、何故か。
エレーナを『ララ』と呼んだのは。
その笑顔が見たいと言ったのは。
決まっている。誰に命令されたわけでもない。そうしたかったから、そうしていた。
「う、わ、あああああああっ!」
エモニは膝を折り、ざぶん、と頭まで沈む。エレーナはぎょっとして手を引いた。水の中でエモニは頭を抱える。口の中に残っていた空気が、泡となって吐き出された。不思議なもので、熱を持たないはずの顔が随分と熱く感じる。気温や接触しているものの温度はスキャンできるが、自分自身の体温など無いに等しいものだったのに。
「恥ずかしい!」
水から飛び出すなり、エモニはそう叫んだ。
「我慢するって言って全然我慢できてなかったじゃん! ヴォラルに子供だって言って、俺だって子供だったじゃん! うわあああ、やだよどんな顔でヴォラルとヴェナとフィシンに会ったらいいか分かんないよ!」
エモニはそのまま池の端に突っ伏し、バタバタと両足を上下させた。蹴り上げられた水を、エレーナは頭からかぶる。
「ううう、ヴォラル笑ってたのかなあ、俺馬鹿みたいじゃん……」
「……エモニ」
エレーナはエモニに近付き、首を傾げてその顔を覗き込んだ。エモニは前髪の隙間からエレーナを見上げる。
「その姿もちょっと恥ずかしいよ?」
「ぎゃーっ!」
追い打ちにのたうつエモニに、エレーナはいたずらっぽい笑みを見せた。
「俺、今日から自分の好きに生きるから!」
「今までも好きに生きていただろう」
ヴォラルとエモニのやり取りを聞き、木陰でフィシンがむせた。
「博士、笑うなよ! 俺、真面目なんだから!」
エモニは握った拳を上下させる。フィシンは口元を手で覆い、「分かってる、分かってる」と言いながらもエモニから顔を逸らす。
「それで、好きに生きるって、どう?」
「えっ……とぉ……まずは……うん、命令されてないことをする!」
「もうやってたな」
「それから、ヴォラルの言うことを聞かない!」
「わりとやってたな」
「大人になる!」
「時と場合に寄ったが割と大人なときもあったな」
「ヴォラルーっ!」
いちいち茶々を入れるヴォラルに、エモニが悲鳴を上げた。
「……あいつアレでいいの? 輪をかけてガキっぽくなったじゃない」
ヴェナの袖を引き、カルミアは眉根を寄せた。ヴェナは頬に手を当て、困ったように笑う。
「でも子供って、悟ったようなこと言ったり大人ぶったりしたと思ったら、反抗期が来て、それから自立するでしょう? そんなものでしょ」
「……ふーん……」
「ま、ヴォラルまでつられてやんちゃになるのは困るけれどね」
その割には嬉しそうだな、とカルミアは半眼でヴェナを見上げた。ヴェナの視線の先で、ヴォラルは珍しく、本当に珍しく、相互を崩して笑っていた。
「ほら、カルミア。あなたの労働はまだまだ終わらないからね」
「はーい」
呼びかけに返事をして、カルミアはまぶしい日差しの中へ走っていった。ヴェナは、荷物を満載にしたソリを引いて、木陰の三人に近付いていく。
「エモニ、あなた、エレーナちゃんと約束してたんじゃないの?」
「……あ!」
エモニはぱんと両手を打った。
エモニに呼ばれ、エレーナはデルタポリスから外れた森の中を歩いていた。開拓団とデルタポリスを行き来する場所は多少道が作られているが、塔の影になる部分はほとんど人が踏み入っていない。
「わっ!」
木の根に足を取られ、エレーナはバランスを崩す。そのまま、鬱蒼とした茂みに倒れ込んだ。
「あいっ……たたた……」
「エレーナ、大丈夫?」
先を行っていたエモニが、慌てたように駆けよってくる。エレーナは茂みから体を起こし、土と折れた枝を払った。
「大丈夫。それよ……り……」
顔を上げ、エレーナは言おうとしていた言葉を失う。茂みを抜けた先は、陽の光が地面まで届いていた。ぽっかりと、木々が生えていない場所があるのだ。木どころか、背の低い草以外は何も、その空間には生えていない。
どんな場所かは、エレーナにはすぐに分かった。柔らかな草に包まれるように、白い大きな石が並んでいたからだ。同じものを一定間隔で並べ、そして手入れする場所と言えば、新興住宅地か墓地程度だろう。地球ではどんな人間も、共同墓地で小さな箱に詰め込まれてしまうので、土葬は教科書の中の景色であったが。
「ごめんごめん、道も整備しておくべきだったよ」
エモニはエレーナを持ち上げ、日の当たる地面にそっと降ろす。白い石は、形はさまざまであったが、どれも表面に、小さく文字が刻まれていた。
「……デルタポリスの人達?」
「ん……んー……そうだな、デルタポリスの人に、なれなかった人達」
エモニは、いっとう綺麗な墓石の前に膝をつく。
「エレーナ、紹介するよ。俺の大事な人」
墓石には、『ララ』と刻まれていた。エレーナは、エモニの隣にしゃがむ。小さな墓石はエレーナの頭ほどの大きさで、文字もやや擦り切れている。
「俺の、はじめてのマスターだった人」
そうつぶやくエモニの声は、懐かしさが滲んでいた。エレーナは横目でエモニを見上げる。細められたエモニの目には、きっと、ララの姿が映っているのだろう。
「……エモニは、この人の遺産なんだね」
「うん」
「だから、私をララって呼んだんだ」
エレーナは膝を抱え、そこに顎をうずめた。
「……うん?」
「好きだったんでしょ、ララさんのこと」
エモニはばっとエレーナを振り返る。エレーナは膝に頭を乗せて首を傾げた。
「ララさんみたいな人が好き、って言ってたけど。ララさんが好きだったってことでしょう?」
「……うん」
「ごめんね、私、ララさんじゃなくって」
困ったように笑うエレーナに、エモニは慌てて首を振った。
「俺は、エレーナも好きだよ。前に進む人間は誰だって好きだ」
「……そうじゃなくって。愛してたんでしょ、ララさんのこと」
「……あい」
エモニは目を瞬かせる。
愛。親兄弟親族、或いは性的相手として特定の人間をいとしいと思う心。物事を大切に思う気持ち。宗教的には神から与えられるものであり、悟りの妨げであるもの。そんな辞書通りの意味を思い浮かべて、嗚呼、と納得したようにエモニは頷いた。
「そうだね」
名付け親で、マスターで、庇護対象で、友人。誰よりも大事だった。一緒に生きたいと願った。もう世界のどこにもいない人の影を追いかけて、どれだけ手を伸ばしただろう。
立ち上がって、エモニはぐっと膝を押す。
「うん、そうだ」
小さく呟いたエモニを見上げ、エレーナは目を伏せる。エモニは視線を上げ、すっと背筋を伸ばした。視界の端で何かが光り、振り返ると、立ち上がったエレーナの頬を、涙が伝っていた。
「えっ?」
エレーナは、エモニと同じく前を向いたままだ。眉根を寄せることもなく、静かな表情のままで、ただ涙だけが流れている。
「……どうしたんだ、エレーナ」
「あなたが泣かないから」
ぎし、とエレーナの背中で、マリートヴァが動いた。エモニがそちらを見遣ると、服の隙間から、細い金属板が顔を出して上下する。
「だから、私が泣くの」
マリートヴァが読み取るのは、人間の脳波だ。人間の思考だ。当然、機械のエモニの心内が読み取れることはなく――――
「……ありがと」
エモニは視線を落とし、遠慮がちに、エレーナの手の甲に指先を触れさせる。と、エレーナの指が、エモニの掌へ滑り込んだ。
白い掌が重なる。エモニは、唇をきゅっと引き結んだ。
「俺、」
重なっていた手をほどき、今度は指先を絡ませる。握ったエレーナの手を胸元まで持ち上げて、エモニはエレーナに向き直った。
「エレーナが、好きだよ」
手を強く握る動作に、エモニの意志はない。細いエレーナの手を離すまいと言うように、エモニの手はエレーナの手を握りこむ。エレーナはゆっくりとエモニを見上げ、それから、微笑んだ。
「知ってる」
フィシンが部屋に入ると、ログは表情をやわらげて腰を浮かせた。
「先生」
ログの呼びかけに、驚いてエリックはフィシンを見遣る。フィシンは穏やかな笑みを浮かべたままだった。
「あー……えっと」
「一時間ほどで戻るので」
フィシンが言うと、エリックは視線を泳がせたまま頷いた。
ドアが閉まり、フィシンは後ろ手でロックをかける。ひゅっ、とログが息を飲んだ。
「その後、夢見はどうだい?」
フィシンはやや離れた場所に立ったまま、静かに話しかける。
「あ、えっと……はい、少しは眠れるように……」
ログはベッドに座り、両手を膝の間に垂らす。指先は落ち着きなく絡められ、視線も定まっていなかった。
「それは上々」
フィシンはログの向かいに座る。
「それじゃ今日も、少しだけ、夢を見に行こうか」
フィシンが両手を差し出し、ログは震える両手をそれに重ねる。繋がった二人の手の間に、半透明の立方体が現れた。フィシンの橙色の右目が、わずかに発光する。
「……『アリスの世界』、起動」
ワンダーランドは、人の心象世界を映し出す遺産だ。カウンセリングが主な使用方法だが、時に相手を自らの心象世界に引きずり込むことも可能だ。
「この遺産は、少しマリートヴァと似ていてね」
マリートヴァ、と聞いたとたん、ログの体が硬くなった。フィシンが目を閉じると、立方体が回転する。
「……マリートヴァは……あれは……」
「怖かったかい?」
「あ……うん、はい。俺に聞こえていたのは、多分、周りの人間の本心なんだろうけれど」
「……マリートヴァは危険な遺産だ。人のこころ内を暴いて言語化して、思考を混ぜ合ってしまう。君がもし罵詈雑言を聞いたとすれば、それは、エレーナも同じ言葉を聞いていたということだ」
ログは顔を上げる。フィシンは目を薄く開き、微笑んだ。
「アレは、人に命令する遺産でも、人を従わせる遺産でもない。人を自分と同じにする、自爆じみた攻撃しかできない遺産だよ。人の考えも痛みも気持ちも全てわかってしまう、優しくて、苛烈な遺産だ」
「……俺が……エレーナと……同じに……?」
足先から、震えが上ってくる。
エレーナと対峙し、足を撃たれた瞬間。頭の中を虫に食い破られたような感覚があった。周囲の人間全てが自分を軽蔑し、見下している。言語化された罵倒の言葉に、押しつぶされそうになった。
全てを思いのまま話したのは、エレーナがそう望んだから。エレーナが本心で知りたいと言ったから、ログも本心で真実を語った。怖くて押しつぶされそうだったのは、エレーナ自身が、他人の思考に溺れそうだったからで。今ログがともすれば死にたいと思うのは、あの時、エレーナは確かにどこかで、死にたいと思ったからなのだろう。
エレーナは理不尽に味方を失った。自分は必然で味方を失った。エレーナは歯を食いしばって耐えて立ち上がり、自分は――――。ログははっと息を飲み、頭を振る。それでも、こびりついた思考は晴れなかった。
「ログ・スパロウ」
フィシンの言葉が、ログの胸を突く。
「残念ながら、現実だ」
振り払おうとした思考を眼前に突き付けられ、ログは言葉を失った。
「……俺は、先生、」
腰を浮かせたログを、ノックの音が止めた。フィシンがワンダーランドを収め、ログを座らせる。
「失礼。ログ、お前に至急の仕事だ」
「俺に?」
「地球からの通信だ。返信だということは分かる」
入ってきたエリックが、一枚の紙を差し出した。ログは紙を受け取り、そこに描かれている幾何学模様に視線を落とす。
「お前リーダーなら、通信機の暗号化パス知ってるだろ」
「ああ、地球……地球へ……は……!」
さっと顔を青ざめさせ、ログは立ち上がった。
「ケモノに関する報告だ……!」
フィシンの顔が曇る。ログは紙を握って俯いた。
「先生、その、」
「いいよ。行くといい。私は勝手に帰るからね」
フィシンも腰を浮かせる。ログはフィシンに礼をして、エリックの後を追って走った。
開拓団には、地球の統一政府によって個別の暗号パターンが与えられている。遠い星に開拓に出ても、政府がそれを把握するためだ。
大まかな星の場所と距離は、電波の強さと方角で分かる。当然いくつもの中継衛星で電波を増幅しているので、時間こそかかるが、中継衛星のシリアルナンバーが付与された暗号を解読すれば、点と線で、地球と開拓中の星が結ばれるようになっている。
「なんだってケモノのことを地球に報告したんだ」
「リーダーマニュアルに書いてあったんだよ、月に一度は報告を送れって。二か月も経たないのにこうも状況が変わると思わないだろ?」
みーっ、と通信機の下端から、暗号の解読結果が出される。
通信機の前に座り、ログは長い息を吐いた。
「どうだった」
「駄目だ、兄さん。もう先遣隊が送られたとさ。一年以内に地球の使者が来る」
「……はあ。やっぱり、ケモノの技術は、地球は何としてでも欲しいってところか」
エリックはガリガリと頭を掻く。
「通信しなくても電波は出てる。開拓団の電波は特定の周波数があるから……書き換えることは不可能じゃないが、一時しのぎにもならないだろうな」
「電波切ったらダメか?」
「レーダーでもあるんだ。明日隕石が落ちるって気付かなくていいならいいぜ」
ログが指差した場所には、円形のモニターがある。一定の間隔で緑色の線が動くモニターを睨み、エリックは腰に手を当てた。
「ログ、お前、どっちにつく?」
「……分かって聞いてるだろ。この期に及んで地球につくほど命知らずでも恥知らずでもねえよ」
ログは立ち上がり、通信機の電源を切る。
「デルタポリスの奴らに、このことは言うか?」
「言うさ。もし武装して来られたら開拓団じゃどうしようもない」
「……だよな」
ログは口元をわずかに笑わせる。
「だが、なあ兄さん。もし可能なら、それはちょっとだけ先にしてくれないか」
「……何をするつもりだ?」
「別に」
エリックに背を向け、ログは唇を舐めた。
「いい人な兄さんは、知らない方がいいことだよ」
手を振りながら、ログは表情を改めて足を速めた。
『悪人が許されるにはいくつか条件がある』
フィシンの言葉が脳裏をよぎる。
『悔い改め償うこと。そして被害者に認められる働きをすること。許されなければ償いは自己満足に終わる。口先だけの謝罪では、社会が納得しない。改心、罰、その先に救済があるべきだ』
まるで古い宗教の教えを説くように、フィシンはログにそう言った。しっ、とログは歯の間から息を吐く。
「それで許されりゃあ世話ねえな」
既に針の筵だというのに、誰が自分の行為を償いだと認めてくれようか。悪あがきだ、ご機嫌取りだ、偽善者だと罵られるに決まっている。
息を止めたくなるようなこの場所で、それでも息を吸って吐くのならば。
「……カッコわりぃ」
自分の妄想を嗤い、ログは足を止める。見上げる先に掲げられているのは、今は亡き、ニーヴァ夫妻の名前だ。
「許せよ、エレーナ」
震える指で暗証番号を入力し、ログは、閉ざされていた鉄戸を開いた。
光が入らない部屋は、随分前に置いていたであろうアロマの匂いがそのまま残っている。使えそうな物品は運び出され、残っているのは、日記や娯楽本程度だ。後ろ手で戸を閉め、ログは長く息を吐いた。自分が殺し、自分が蹴落とした二人が、まるでまだ生きて出入りしていそうなほど、部屋の様子は変わっていなかった。
扉に背を当てたまま、ログは繰り返し深呼吸をする。初めの一歩を踏み出すまで、たっぷり五分ほど時間がかかった。両手で扉を押して、体を無理やりに傾けてようやく、足が出る。窓を覆っていたブラインドを上げると、傾いた日の光が差し込んだ。
ぎしぎしと、心臓が締め上げられるような感覚。マリートヴァのあの鋭い翼が、首筋にひたりと押し付けられているように感じた。一つ行動を間違えば、そこで自分の命が終わるような緊張感。
ここで膝をついて、床に頭を擦りつけて謝罪が言えれば、まだ自分は救いようがあったのだろう。だが、口にしても誰も聞かない謝罪を、ログは偽善だと嘲笑った。一方で、嘲笑う自分を、救えないと切り捨てる。どちらが本心かなど、分かるわけもない。マリートヴァに征服され、息を止めて逃げようとした。だが死ねもせずに、のうのうと生きて罵られる自分を、拾い集めた過去の残影で覆い隠す。継ぎ接ぎの残影が吐く言葉は、文字通りの虚勢にしかならなかった。
鍵がかかっていないデスクの引き出しから、一冊の日誌を取り出す。エレーナの父親の、船長としての日誌だ。立派な装丁の表紙を開くと、几帳面な字で、その日のことが子細に記録されていた。
「あった」
日誌の最後のページには、銀の縁取りがされた、半透明の栞が挟まっていた。日誌のバックアップであり、日誌の持ち主の肉声が記録されている。
「…………留守の神様とやらがいるんなら」
栞を懐に入れ、ログはそっと日誌を閉じた。
「終いまで見届けてから、罰してくれ」
握った拳の掌に、じわりと汗がにじんだ。
木の実を入れた籠を持って、エレーナは塔に向かっていた。始まりの塔には、食料を保管し、腐ったら合成保存食に作り替える機構があるそうだ。地球で果物といえば店に行儀よく並んでいるもので、肉や魚といえば同じ大きさに切りそろえられているものだ。エモニが大きな動物を抱えてきたときに、食べるなど想像もできなかったことを思い出し、エレーナは苦笑をこぼす。手足に傷を作りながら木の上に登って果物を取り、汗水垂らしてそれを運ぶ。学校の授業でもそうない体験だ。
「ねえ、これってどんな味? 林檎? 梨? それとも」
「どれでもないわ。昔は地球のモノだったらしいけど、進化したの」
前を歩くカルミアが、振り返らずに答える。カルミアは、エレーナより一回り大きな籠を抱えていた。
「じゃ、甘い?」
「この時期のはそんなに甘くないわ。水分が多いの」
「ふうん」
「あと二か月くらいでうんと甘くなる。けど、それを全て取ると翌年ができないから、いくつかは」
カルミアが足を止め、エレーナはその背にぶつかりかけて顔を上げた。言葉を切ったカルミアの視線は、塔に入る二つの人影を追っている。
「エレーナ、エモニ呼んできてくれない? 今日は水撒きに行ってると思う」
「え? うん」
エレーナは、カルミアが差し出した片手に籠を乗せる。カルミアはエレーナを見送ると、足早に塔へ向かった。
塔の入り口で、カルミアは腕組みする。六層目まで昇ったエレベーターは、十数分で降りてきた。カルミアの背中を汗が伝う。
「カルミア」
エモニの呼びかけに振り返らず、カルミアは「雀よ」と言った。首を傾げるエレーナを振り返り、エモニは表情を厳しくする。
「エレーナ、悪いんだけど」
「私ここにいるからね」
エレーナは、エモニの表情で察したように言い返した。
エレベーターから降りてきたのは、ヴォラルとエリック、そしてログだった。ログはカルミアを見ると、表情を硬くする。橙色になったログの右目を見上げ、カルミアは鼻を鳴らした。
「馬鹿にしていた割に、あっさり仲間入りするのね」
「ああ、これで俺もケモノだ」
「あら、前から獣じゃない」
カルミアは、エレーナの視線を遮るように立つ。エリックは苦い顔で視線を落とした。
「……カルミア、威嚇するな」
「警戒よ。あっさり遺産をあげちゃって」
カルミアはヴォラルを睨む。
「猫に鈴をつけたようなものだ。それより、今日の仕事はどうした?」
「終わったわよ。話題をずらそうとしないで」
「ならこちらも終わった話だ。蒸し返すな」
ぴしゃりと言って、ヴォラルは一人エレベーターへ戻っていく。追おうとしたカルミアを引き留め、エモニはエリックに視線をやった。
「リーダーさんさ、ちょっと力仕事手伝ってくれない?」
「あ……ああ、いいけど」
「助かる。じゃ、エレーナ、俺達あっちにいるから」
エモニはカルミアを引き摺りながら、果物の籠を置いていた場所へと歩いていった。ぽつんと取り残されたログを見上げ、エレーナはゆっくりとひとつ、瞬きをする。
「……エレーナ、」
「許さない」
遠慮がちに口を開いたログに、エレーナは間髪入れずに言葉を叩き付けた。息を飲み、ログは次の言葉を噛み殺す。彼女の背中に控えるマリートヴァが、自分を睨みつけている、と、ログには感じられた。
「……でも、謝罪する」
「いらない。私にはあなたの言葉は全て薄っぺらな嘘に聞こえるし、あなたからは何も受け取りたくない」
目の前に立つ少女は、本当に見かけのままの歳なのだろうか。自分を突き放す冷静な言葉に、ログはただ頭を下げた。
エレーナは踵を返し、エモニ達の方へと足を向ける。顔を上げたログは、日に照らされた外のまぶしさに目を細めた。
「……うん」
じわりと熱くなる右目に手を重ね、ログは服の裾を握った。エレーナと入れ替わりに戻ってきたカルミアが、ログを見上げて眉宇をひそめる。
「……やあお嬢さん」
「ふん。悟ったような顔して。ひと殺し同士だからいじめてやろうと思ったのに」
カルミアは腕を組む。ログは唇の間から息を吐き、一度ぎゅっと目をつぶった。
「それは困るな。お嬢さんにお願いしたいことがあったのに」
「……は? あたしに?」
「ああ」
ログは右目から手を離し、ふ、と薄く笑った。
「ひみつの悪巧みを一つ、手伝ってくれないか」
ログの笑みを睨み上げ、カルミアはますます怪訝な顔になった。




