Tenth Phrase 明るい未来の夢を見た
ひどい頭痛で、エレーナは目を覚ました。昼は、ピクニックとは名ばかりのテラフォーミング作業に駆り出され、既に肉体の疲労は限界だった。それでも、開拓団で働いていたころよりは随分楽だったが。
吸水ポリマーと水をまき、土中の微生物が生きる環境を整える。テラフォーミングの第一歩であるが、エレーナにとってはかなりの重労働であった。
「うう……」
体は休息を欲しているのに、一定のリズムで強くなる頭痛に吐き気がする。エレーナは体を起こした。水分も塩分も、十分に摂らされていたはずだが。
「マリートヴァ」
闇の中から聞こえた声に、エレーナは息を飲む。エモニの声だ。だが、エモニだ、と断定するのをはばかる自分がいた。
「駄目だよ、マリートヴァ。その子は天使じゃない」
「……エモニ……?」
窓から差し込む月光の中に、エモニが現れる。両手で肩を押さえられ、エレーナはベッドに座らされた。エモニは目を閉じ、エレーナと額を合わせる。わずかな機械の振動が、骨越しに伝わってきた。エモニの鼓動だ。
「夢見るのはね」
囁くような声は、自分ではなく、背後のマリートヴァに向けられていると自覚して、エレーナは口を閉じた。
「生きている人間の特権なんだよ」
すぅ、と頭痛が引く。エレーナが息を吐くと、エモニが額を離した。
瞼が重くなり、エレーナはベッドに横になる。エレーナが目を閉じたのを確認すると、エモニは音もたてずに出て行った。
* * *
創造主に呼ばれて見下ろした星は、赤茶けていた。パビエーク・バムブーカは、ガラス玉の瞳に宇宙空間を映して、機械的に瞬きの動作をする。
「皆の傷も癒えたころだ。そろそろ着陸しようと思う」
「そうですか」
「地表のスキャンを行う。近くに酸素と水のある惑星もないようだし……安定するまでは、この中で過ごすことになるかもしれないな」
微苦笑してタブレットを見下ろすのは、フィシン・E・ローイ。のちにデルタポリスの父となる男だ。九十九の人工知能搭載機器を作り、地球の統一政府に真っ向から喧嘩を売ったと、語り継がれるようになる。
パビエーク・バムブーカは、フィシンの表情をスキャンする。期待と不安が入り混じっていたが、呼吸や脈拍、体温は安定していた。
「あなたの判断は正しかったです」
その一抹の不安をぬぐおうと、パビエーク・バムブーカは口を開く。
「統一政府に勝とうというのは、夢物語でした。バベルの強制退却命令がなければ、全滅していたでしょう」
「それは結果論だよ。皆が行くのを看過したのは私の驕りだ。私の子供達なら、統一政府に石を投げるくらいはできると思っていた」
フィシンは長く息を吐く。
「ですが、文字通り星を支配する統一政府に反旗を翻し、一人も欠けることなくここにいる。あの星が、我々の次の仕事場なら、あそこに地球と同じ大地と街を作りましょう」
「……パビは優しいな」
フィシンの手が、パビエーク・バムブーカの頭に乗った。
「優しい、は理解できません。我々は、人間の命令に従うために在ります。道具は使われるからこそ、意味があるのですから」
パビエーク・バムブーカは目を伏せる。
「……パビは、やりたいこととかないのかい? 何か、希望とか」
「…………質問の意図が理解できません」
希望。望み。言葉は理解できる。それが欲求と言い換えられ、人間の行動原理になることも知っている。だが、それは生きた人間だから持ちうるもので、機械である自分には不要だ。パビエーク・バムブーカはそう結論付けたからこそ、フィシンの質問が理解できなかった。自分を道具として作り上げたのは、ほかならぬフィシンだというのに。
「……うん、正直に言うと、この先、苦しい時間が来ると思う」
フィシンの目には、かろうじて人間が生存できる酸素と、掘り出さなければ永劫見つからないであろう水を抱えた星が映っている。地球の目が届かず、かつ、地球に類似した星。そんな都合のいいものは、そう簡単に見つかるものではなかった。
人間が生きていられる環境は、かなり条件が厳しい。酸素がなければならず、温度は摂氏でせいぜい六十度の範囲内。肉体はそれ以上や以下の温度でも短時間は生存できるが、行動は著しく制限される。肉体の維持には栄養のある食物の摂取が必要で、水分は言わずもがな必要不可欠だ。当然食物の元となる動植物も、生きられる環境が決まっている。
「ようやく見つけたここが、旅の終点で、再出発の地にしたい。だから、開拓を……うん、君達サーヴァントを、開拓のために使いたいんだ」
「了承しました」
「軽いね。びっくりするよ」
パビエーク・バムブーカは目を瞬かせ、困惑を表現する。
「道具は、使い手で目的を変えるものです」
「……そっか」
フィシンの手がゆっくりと、パビエーク・バムブーカの頭を撫でた。
「パビ。ララがそろそろ起きる時間だから、よろしく」
「はい」
絡まった合成繊維の頭髪を直し、パビエーク・バムブーカはフィシンに礼をして踵を返す。
縦長の宇宙船は、別名を『始まりの塔』と言う。六層からなる内部と、それを囲む居住エリアの外殻からなり、フィシン含む三十数名の乗員のほか、九十八名の『ケモノ』が乗っていた。フィシンが作成した人体依存型特殊技能補助装置を装着し、地球で統一政府軍と戦った兵士達だ。
統一政府は、国境の撤廃という名目で全ての軍隊に同じ旗を掲げさせていた。従えば保護し、従わなければ蹂躙する。単純な選択は、平和を夢見る国家元首達に国家を放棄させることに成功した。
そして、断固として抵抗する者達を、宇宙に追い出すことに成功した。
パビエーク・バムブーカはじめ、九十八の機械は、史上最悪の殺戮兵器だと指差された。間違いではない。その兵器を装着し、統一政府の勢力を一時撤退に追い込んだ兵士達が、人間離れしていると恐れられるのも、当然だ。
だがフィシンは、恐れられ、石を投げられる立場になったことに心を痛めていた。人間ではない、闘争本能剥き出しのケモノだと言われたことに、何故フィシンが心を痛めるのか。パビエーク・バムブーカには理解ができなかった。
「マスター」
到着したのは、兵士達が好んで集う大部屋だ。大人から子供まで、男女問わず片目が橙色をしている。大きな手や金属の鳥が、ふわふわと漂っていた。
「パビ君、お話終わった?」
眠い目をこすって、少女がパビエーク・バムブーカに近付く。手に持った毛布は、引きずられて長く伸びていた。それを拾い、パビエーク・バムブーカは少女を見上げる。
「ええ。今日の勉強の時間ですよ」
「……はぁーい」
少女は唇を尖らせる。パビエーク・バムブーカは少女と毛布を抱き上げると、兵士達に礼をして出ていった。
「……あの子、何歳だっけなあ」
その背を見送った初老の男が、かすれた声で呟く。床に座っているその男の横に、少年がマグカップを置いた。
「俺と同い年です」
「……十二か……悪いことしたなあ」
男は、マグカップの中身を一気に飲み干した。
「命を投げ捨てられる光景なんて、いくつになっても見たくはねえけどさ」
立ち上がろうとした男を、銀色の糸で組まれた人形が支える。
「お前は前線に来なくてよかったと思うよ、ヴォラル」
「……俺は」
少年は、銀色の左腕を持ち上げ、ぎし、と拳を握った。
「俺は、抑止力ですから」
少年の左腕にあるのは、『護るもの』の名を冠された九十九番目のサーヴァント。『始まりの塔』と対をなす、兵士達の歯止め役だ。
「でも、ララは戦いに赴いて、俺は博士のところに残った。それは、少しだけ……少しだけ、残念に思います。俺も戦いたかった」
「……やめとけ」
男は少年の頭を乱暴に撫でる。
「結果、俺達は根無し草だ。国のため誰それのためと大義名分を立てて好き勝手暴れた、短慮で愚かな獣だよ」
いくつもの橙色の瞳が、じっと少年を見つめていた。少年は拳をほどき、目を伏せる。
鉄と血の匂いが染みついた部屋は、薄暗い。手を、足を、或いは目や耳を失って、それでもなお戦い続けた兵士達も、今は抜け殻のようだった。統一政府に一泡吹かせた実感すらなく、気付けば宇宙船に詰め込まれていたのだから、それも当然かもしれないが。
「ヴォラル、ひとつ、頼みがある」
「なんです?」
「お前のその力でさ」
少年を見下ろす男の目も、やはり濁っていて。
「俺達を、消してくれないか」
今にも気が狂いそうなのだと、誰もが自覚してしまっていた。
泣きじゃくるララとヴォラルを両腕で抱え、パビエーク・バムブーカは船内を走っていた。
「もうすぐ着陸です。座席へ」
「やぁー! パビ君と遊ぶのー!」
「やだ、俺も、俺もみんなと一緒にっ……」
「今はお二人の命を優先します」
二人を手早く座席に固定し、パビエーク・バムブーカはその前にしゃがむ。
「どうしても痛いなら、食べますが」
「痛くないよ、遊びたいの!」
「……食べないで」
「ではバニシングのマスターに問いますが」
パビエーク・バムブーカは両手で、小さいヴォラルの手を握る。
「それほど痛むなら何故、マスター達を消したのです?」
ひゅっ、とヴォラルは息を飲む。見開かれた目には、無表情のパビエーク・バムブーカの顔が浮かんでいた。糾弾ではない。ただ、単純に疑問だったから問うている。それでも、ヴォラルを追い詰めるには十分だった。
「ごめんなさい」
震える声でヴォラルは絞り出す。目を閉じれば先刻の光景が蘇ると分かっていて、瞬きすらできなかった。吸った息が喉で止まって吐き出せなくなる。
消してくれ、と願われた。気が狂ってしまう前に。
自分達のせいで、宇宙に出ることになったのだから。
自分達は、敗北者だから。
自分達は、戦争の象徴だから。
自分達は、独断専行した愚者だから。
様々な理由をつけて、兵士達はヴォラルを納得させた。その真意を今更知ることはできないが、九十五人分のサーヴァントはマスターを失って転がり、ヴォラルの姉代わりの女性だけが、ヴォラルを抱きしめて泣いた。
「……時間だ。パビも席に」
フィシンの声に、パビエーク・バムブーカは黙って立ち上がる。膝の上で握ったヴォラルの拳は、白くなって震えていた。
「……ヴォー君?」
ララが首を傾げてヴォラルをの顔を覗き込む。噛んだ唇から滲んだ血が、紅い珠を作っていた。
「……痛そう……パビ君、パビ君!」
「待っ……」
口を開いた瞬間、かふ、と喉の奥から空気が漏れる。吐き出せていないと思った息は、ほとんど胸に残っていなかった。反射的に息を吸い込もうとしても、吸った空気はすぐに漏れ出してしまう。
息苦しさに、ヴォラルは喉元に手を当てる。自分の息の音がうるさくなり、それでも息苦しさはひどくなるばかりだ。身体を丸めれば楽になるかと俯いても、全身は座席にベルトで固定されている。涎と血が混ざった雫が、膝の上に落ちた。
「パビ君、ヴォー君が! 助けて!」
叫んでいるララの声が遠くなる。口を何かで覆われて、ヴォラルは目だけで前を見る。パビエーク・バムブーカが、静かに自分を見下ろしていた。
「過呼吸発作です。……バニシングのマスター。その苦痛を、食べましょう」
拒絶の言葉は、声にならない。忙しく電子音声が響く中、ヴォラルはゆっくりと意識を失った。
人間の心の機微というものは、パビエーク・バムブーカにとっては完全なブラックボックスであった。機械であれば、あらゆる条件を用意し、結果を比較することで機能を理解できる。だが、同一条件下でも、『ヒトのココロ』は毎回違った結果を出した。
人間の感情を理解する機能として、創造主からパビエーク・バムブーカに与えられたのが、人間の苦痛の吸収、咀嚼と、それを栄養にした成長だ。ヴォラルの苦痛を喰らい、パビエーク・バムブーカは、自らの中にもそのブラックボックスがあることを理解した。
仲間を消したヴォラルが、狂いそうなほどに苦しんでいることも、ララの言動が幼くなった理由も理解できた。
「何でみんな、死んじゃうんだ?」
だが。人の苦痛は理解できても、死を選ぶ心境は理解できない。パビエーク・バムブーカに詰め寄られ、ヴォラルは深いため息をついた。
開拓の基盤となる町が完成し、局所的とはいえテラフォーミングもできて、開拓が軌道に乗ろうという頃。地球から来た乗組員は、当初の半分以下になっていた。
「開拓なら俺達が手伝う。俺達のマスターになれば、デルタポリスの外でも普通に作業ができる。なのに、何で誰もマスターになろうとしないで、死んじゃうんだよ」
デルタポリスの中心、宇宙船の内側のみが地面に突き刺さった『始まりの塔』の第二層。十五歳になったヴォラルは、フィシンに代わってこの塔とデルタポリスの管理を任されていた。ヴォラルの手元には、また一つ名前が減った住民表がある。
「そういうものなんだ」
「俺達は使われるためにあるのに!」
「道具を使わない権利も人間にはある」
「それはっ……そう、だけど」
パビエーク・バムブーカは言葉に詰まる。
「開拓を成功させたくないのか? 確かに道具は使わなくてもいいかもしれないけど、俺達を使えばもっと楽なのに」
「……パビ。お前達の一番大事な所は、便利なことじゃない」
空になったマグカップを持ち、ヴォラルは立ち上がる。
「お前達は、人間に対して過保護すぎる」
「過保護……だってそれが仕事だ。存在意義だ! それを否定されたら、俺達にはもう何もない!」
パビエーク・バムブーカは両手でテーブルを叩いた。
「人間が持てないものを持って、人間がいけないところに行って、人間ができないことをして、死にそうだったら護って、呼んだら駆け付けるのが俺達なんだよ」
「……死にたくなることもある」
ヴォラルは、それ以上の言葉を拒絶するように背を向けた。パビエーク・バムブーカは唇を曲げる。
「午後はララのところに行くんだろう。よろしく言っておいてくれ」
レリーフがあしらわれた壁の奥へと向かいながら、ヴォラルは空のカップを振った。その雑な挨拶に、パビエーク・バムブーカは舌打ちを返す。
「分かったようなこと言って。ヴォーだってまだ子供じゃないか」
エレベーターで六層目へ移動すると、パビエーク・バムブーカは、正面の大きな水槽に近付いた。周囲にはぐるりと、水槽に入れられたパビエーク・バムブーカの同胞がいる。
「フィシンは死にたくないからそこにいるのにね」
水槽の中には、管に繋がれたフィシンが浮かんでいた。その姿は三年前と皴一つも変わらない。
「……やっぱり、人の心はブラックボックスだ。死ぬより怖いことがあるなんて、分かるもんか」
自分が苛立っていることは分かる。だが、何故苛立つかと言われれば、説明のしようがない。事象に対する感情の変化はパターン化できても、その理由までは分からないのだから。
まして、死は生物が最も恐れるべきもので、それを自ら選ぶなどという行動は、異常なものでしかない。それを肯定するヴォラルもまた、パビエーク・バムブーカにとっては異様なものだった。
「……俺は、それよりも、怖いことがあるよ」
パビエーク・バムブーカは床に座る。見上げたフィシンは、ただゆらゆらと浮かんでいた。
「ヴォラルがみんなのマスターを消した日みたいに、また、全部壊れる日が来るんじゃないかって」
ほかのサーヴァントならいざ知らず、パビエーク・バムブーカは、自立歩行できる足がある。人の真似事をできる躯体がある。そして、人に似た感情を生み出す回路がある。
もし人間が全員死を選んでも、それが人間達の選択ならば、パビエーク・バムブーカは受け入れる。異議を唱え、やめろと訴えても、直接行動を止める権利は持っていないのだから。遺体を丁寧に葬って、弔いの言葉も投げられる。
だが、その先は?
マスターのいないサーヴァントは、この塔の中で眠り続ける。人がいなくともエネルギーさえ循環すれば、パビエーク・バムブーカがメンテナンスも行えるだろう。パビエーク・バムブーカ自身は、エネルギーさえあれば、マスターがいなくとも自立活動ができる。
死んだように眠っているフィシンとサーヴァント達は、自分の言葉に応えてはくれない。何年も、何十年も、何百年も――――もしかしたらその先まで、動いて、言葉を発すものが自分だけになったら。
「……嫌だな」
正確に未来予想図を描く演算回路を停止させ、パビエーク・バムブーカは俯いた。
恐れた感情を『孤独』だと知るのは、二百年ほど後の話だ。
デルタポリスの外れには、小さな泉がある。労働を終えたララは、よくそこで水浴びをしていた。パビエーク・バムブーカが着替えを持って行くと、丁度、下着一枚でララが水から上がってきた。
「ありがと、パビ」
長く伸びた金髪を絞って、ララはタオルを受け取る。
「手伝いできなくてごめん」
「ううん。ヴォー君に会ってたんでしょ。にがぁい顔、見れば分かるよ」
ララは苦笑を漏らす。つられるようにパビエーク・バムブーカも笑った。
「北の方にずっと行った所にね、金属の鉱脈を見つけたんだ。あれが掘り出せれば、道具がグレードアップできそう」
「砂丘の向こうまで行ったんだ? 大変じゃない?」
「大変じゃないって言ったら嘘だけど、私、皆からちょっと遅れてるから。その分頑張らないとね」
痩せた体を大きな服で覆って、ララは両手の人差し指を口角に当てた。
「ほら、パビ。にーって笑って。私の真似して。顔怖いよ」
「……にーっ」
「上手上手」
それが世辞だと分かっていても、パビエーク・バムブーカには嬉しかった。
「でも、顔が怖くもなるよ。俺はララが心配なんだ」
「私を心配するのなんてパビくらいだね」
「……皆がララとおんなじならなあ。開拓も進むし、俺達も働けるのに」
パビエーク・バムブーカの言葉に、ララは一瞬、驚いたような顔になる。だが、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、細い両手をパビエーク・バムブーカの頬に添えた。
「パビ。あなたにいいことを教えてあげる」
ララはにっこりと、満点の笑顔を浮かべてみせた。パビエーク・バムブーカは、不思議そうに目を瞬かせる。まだ幼いはずの少女の顔が、途端に大人びて見えた。
「生きていれば、思い通りにならないことはある。世界は、誰を中心にも回らないんだから」
頭を引き寄せられ、パビエーク・バムブーカは膝を折る。
「だけど、希望に向かって進んでいるうちは、誰でも主人公になれるんだよ」
痩せていても、砂ぼこりに汚れていても、なお、ララの笑顔は輝いていた。
「ね。パビの希望は何?」
「……俺の……」
いつか、答えられなかった問い。パビエーク・バムブーカは両手を伸ばし、ララの、骨が浮いた背中を引き寄せた。
「……なに?」
「え? えっと……何でだろう、わかんない」
パビエーク・バムブーカ自身、自分の行動に驚いていた。フィードバックはないはずだ。だが、ララの肌の感触も鼓動も、息遣いすら感じられた。それを手放したくない、と、初めてパビエーク・バムブーカは、何の理由もなく思った。
「ララ」
まだ名前を知らない感情とともに、パビエーク・バムブーカは望みを告げる。
「一緒に生きたい」
それは、機械人形が、自分自身の命を自覚した瞬間でもあった。
「じゃ、お人形さんじゃなくなったあなたには、名前が欲しいね」
優しく笑ったララの声すらも、いつまでも残していたいと思った。
乾燥した赤砂の星で、雨が降ったのは、開拓が始まって五年後のことだった。
初めて雨が降った日は、パビエーク・バムブーカが作った墓が、三十八を数えた日の夜だった。
「……ヴォラル」
「何だ」
「痛い」
パビエーク・バムブーカは俯く。雨が頬を伝い、地面へと落ちた。
「俺は、人が痛いなら、全部食べるよ。食べてと言われたらどんな痛みでも、何回でも。でも、じゃあ、俺の痛みは、俺が痛いのは……何で、食べられないんだろう」
「………………」
ヴォラルは黙って、パビエーク・バムブーカに傘を差し出す。
「なあヴォラル。分かったようなこと言うなら教えてくれよ。何でみんな死んじゃうんだよ。何でっ……何で、死にたいなんて言わなかったララまで、いなくなっちゃうんだよ」
パビエーク・バムブーカの手が、ヴォラルの襟をつかむ。雨で張り付いた合成繊維が鬱陶しい。
「みんな、何で生きたいって言わないんだ! そう望むんだったら、延命装置にだって俺達はなるよ。百年でも二百年でも! 何でララみたいに、いつかの未来に希望が持てないんだ! 死んじゃったら、何もかも無駄じゃないか!」
「パビ、」
「フィシンはみんなに生きて欲しかったんだろう? だから、いろんなものを犠牲にしてここまで来たんだ。なのに、何で、何で、何で!」
ヴォラルは左手で、パビエーク・バムブーカの手を握った。
「……たぶん、だけれど」
絞り出すように、ヴォラルはつぶやく。その声は細く、震えていた。
「みんな……いつかの未来が、怖かったんだ」
それが正解だとは、ヴォラル自身も思っていない。死を選ぶ心境も、死に逝く人間が抱く感情も、想像するしかないのだから。
だが、もし、未来に希望を抱いて、明るい明日が来ると信じられていたら、それはどれほど幸せだろうか。
靴を放って、明日天気になあれと言って、明日は晴れだと根拠もなく言い切れる。故郷を捨て、安寧を捨て、辿り着いた何処かも分からない赤い星で、そんな心持でいつまで生きていられるだろう。
「……なあヴォラル、約束してくれよ」
滴る雨粒をぬぐって、パビエーク・バムブーカは振り返る。
「お前とフィシンだけは、いつかの未来から逃げないって」
「……保証はできない」
「先延ばしなら許すよ。いつかの未来が怖いなら。先伸ばした先の先で逃げなきゃ、いい。俺達は、ただの延命装置じゃない。けど、みんなみんなに死なれるのは、俺も……怖いから」
ふ、とパビエーク・バムブーカの口元が緩んだ。
「我慢する」
足音が駆け寄ってくる。ヴォラルはパビエーク・バムブーカを見下ろし、左の拳を握った。
「じゃあ、パビ、お前も一つ、約束してくれ」
ヴォラルは、雨で垂れ下がる前髪を掻き上げた。
「お前は最後まで、覚えていてくれ。馬鹿な獣達が足掻いた、虚しいだけの物語でも、俺には結構、大切なんだ」
頬を伝う雫に、ヴォラルは下手な笑みを浮かべる。パビエーク・バムブーカは頷き、小指を立てた左手を突き出した。
「指切り」
「ああ」
機械の小指同士が絡み、金属の擦れる音がした。
パビエーク・バムブーカがエモニと名乗り始めたのは、それからすぐ後のことである。
* * *
夜風が吹き抜け、エモニは森を振り返った。静かな双眸が、感慨深げに細められる。
「眠れないの?」
エモニの背に声をかけたのは、ヴェナだった。
「ああ、うん。眠れないよ」
「でしょうね」
ヴェナは小さく笑いをこぼした。
「やっとなんだ。やっと、やっとフィシンもヴォラルも歩き出した。俺は、前に進む人間が好きだ。這いつくばっても泥臭くてもいい。前に進む意志さえあれば、俺は、俺達は役に立てる」
エモニは拳を握り、空を仰いだ。冴えた夜空から注ぐ月の光は、密林の中のデルタポリスを青白く浮かび上がらせる。決して狭くない星の中で、デルタポリスは、始まりの塔で突き刺された一枚の板のようだ。デルタポリスを護っていた砂嵐はもう無く、刻一刻と、周囲との境界は溶け始めている。
「前は地球で、戦争に負けた。だから、今度は勝ち取ってみせるよ。夢見た未来を」
歓喜と期待の笑みをこらえきれず、エモニはぎゅっと目を閉じた。




