39 担任の最後
夜の学校で、ゆらゆらと揺れる光が廊下を移動するのを外から見ることができる。
その光は、今日最後の見回りをしている先生だった。
残った生徒がいないか?窓のカギは閉まっているか?教室のカギは閉まっているか?不審者はいないか?不審物はないか?異常はないか?
一つ一つの確認を作業として簡単にこなしていく先生の足が止まった。
「全く・・・」
先生がため息をついて足を止めたのは、一つの机の前。その机を使うものは誰もいない。机には一輪の花が小さな花瓶に挿されていて、その机の使用者が亡くなっていることを示していた。
「また、あなたか。」
問題ばかり起こす彼女に苛立ちさえ覚えていた先生は、彼女の生前に彼女に言った言葉を呟いた。もう彼女は死んでいるというのに。
机の上には落書きがされていた。彼女の生前と同じように。
消えろだとか、死ねだとか。もう、彼女はどこにもいないのに。もう、彼女は死んだのに。
「もう一度死者の尊厳について話さないといけませんね。これも仕事です。」
ため息をついて、再び歩き出す先生の耳に声が聞こえた。
「消さないの?」
ゾクリと背筋を悪寒がはしった。辺りを見るが、残った生徒などいない。しかし、聞こえてきたのは、どこかで聞いた女の子の声。
「誰か、いるのか?先生をからかうのはやめなさい!」
大きな声で、姿の見えぬ生徒に言う先生の声には苛立ちが含まれていた。仕事を増やされることが何より嫌いな彼らしい。
「消してくれないの?」
もう一度聞こえた声。先生は、わずかに目を見開いた。
聞き覚えのある声が、その声の主が誰なのか、気づいてしまったのだ。
「いや、そんな・・・」
「死者の尊厳を守って?先生・・・」
先生の背後で何かが落ちる音がした。先生が振り返ると、そこには一個の消しゴムが転がっていた。
「な・・・え、えぇ?」
「先生?」
カチカチと歯を打ち鳴らす音が、教室に響き渡った。先生は言葉を発することもできないほど震えていた。
先生の中では、最近の噂話が何度も何度も繰り返される。
最初はあの山の神の祟りだった噂は、今ではこう言われている。
祟り殺された少女の呪い。トウコの呪いだと。
「わからない?消してよ。それとも・・・」
あなたが消える?
「ひぃっ!?」
すぐそば。自分の耳元から聞こえた声に、完全に腰が抜け崩れ落ちる先生。持っていた懐中電灯は、先生の手を離れ教室の後方へと転がっていった。
まとまらぬ思考などとは、いってはいられない。先生は、女の子の声に必死に答えた。
「消すぅっ!消すぅかぁらっ!」
涙があふれ、鼻水を垂れ流したままの先生。
四つん這いで、ハイハイして消しゴムを拾う先生。
また、ハイハイで机の前に戻り、一生懸命に机に消しゴムをこすりつける先生。
「消えてくれぇー。早く、はやくぅー!」
先生の鼻水や涙、それによだれが机に垂れた。
「汚れた。拭いてよ。」
「ひぃぃいいっ!」
消しゴムと同様に現れた雑巾にしがみつく先生。それは普段先生が触らないような、半乾きの異臭を放つ雑巾だったが、彼はそんなことは気にならない様子でそれを手に取った。
「消えで。ぎえで・・・お願いだぁ・・・」
雑巾で汚れた机をふき取り、また消しゴムをかけるが、止まらぬ涙と鼻水などが再び机を汚し、さらに先生は取り乱した。
「先生?机をきれいにしてくれる気はあるの?」
先生の顔は声が聞こえると一瞬こわばって、その言葉を理解すると首が落ちるのではないかというほどに頭をたてに振った。
それを見て、先生に見えないトウコは呆れた表情を隠しもせずに、遠い目をした。生前のことを思い浮かべ、ため息をつく。
「先生、私に意地悪してるの?そうだよね。だって、生きてる時だって、助けてくれなかった。それどころか、問題児扱い。」
正直、先生がどう思おうがトウコはどうでもよかった。いや、本当は傷ついて、どうでもいいと思い込んでいただけだった。しかし、今の先生を見れば、何に傷ついていたのかと笑みさえこぼれてくる。
先生がトウコに抱いている感情は、恐怖一色。それのなんと心地いいことか。
侮られず、さげすまれず。これこそが望むべき周りの感情なのかもしれない。
尊敬も感謝もいらない。もう。
私は、人間の恐怖心で、負の信仰で強くなる。その舞台はアノカミが整えてくれる。もうすぐ、私の願いは叶うのだ。
目の前には、トウコの机に向かって土下座をして謝る先生がいた。
目をつぶって、自身の力を見つめれば、怯えたいくつもの瞳がこちらを見ているような気がして、笑みが深まる。
「ご機嫌だね、トウコ。」
ずっと黙っていたアノカミが、トウコににっこり微笑んだ。抱きかかえられているせいで、すぐそばに声が聞こえるが、それももう慣れた。
「うん。だって見てよ、アノカミ。私を見下していた先生が、今は私に許しを請うこの姿を。とっても素敵だよ。」
「・・・トウコ。」
「アノカミ、私の心を読んで。負の信仰に耳を傾けたら、こんなにも素敵な声が聞こえるの。ほら、聞いてみて。」
「ごめん。僕にはもう読めないみたい。君の心がもう。」
それほどまでにトウコは強くなった。アノカミが心を読むことを気軽にできないほど、トウコは強くなった。負の信仰によって。
だから、トウコが何を考えているのか。アノカミにはわからなかった。
微笑むトウコが何を考えているのかわからないアノカミは、ただトウコに笑い返した。




