happy telephone
母が、亡くなった。
2年前、骨粗鬆症で骨折した右脚2ヶ所を手術。2ヶ月後、自宅へ戻して療養。
認知症も発症し、ほとんど寝たきりになった母を、私と妹が交代で介護した。
今年9月半ばから急に食事の量が減り、心配はしていたのだが。あっという間に容体は急降下した。
11月の中旬。
グッと冷え込んだ朝に、母は逝った。
泣く間もなかった。
私たちはパタパタとお葬式の準備をし、母を見送った。
その後の様々な手続きに10日ほどを費やし、今日、まともに出勤する。
あと少しで師走。
朝から北風が強く、コートと手袋なしでは歩けない。
最寄駅から徒歩20分の職場は、バスも通っていない道沿いのビルの3階だ。
慌ただしくて忘れていたが、喪中の葉書を準備しなくちゃ。
遠縁のおじさんには、出さなくていいのかな?
などなど、考えながら歩いていると、雪が降って来た。
「11月に、雪?」
今年は異常低温、と天気予報で伝えていたが、ほんとだな、と思いつつ急いでバッグから折り畳み傘を出す。
強い北風が、傘を開こうとする私の邪魔をする。
やっとのことで傘を広げ、歩き出した時。
コツン。
傘の縁が何かにぶつかった。
「……なに?」
私は前屈みになっていた姿勢を上げた。
目の前に、電話ボックスが、あった。
アルミ製の支柱をコンクリートの土台に立て、四方を透明なアクリル板で囲った、昔ながらのスタイル。
——こんなところに電話ボックスなんて、あったかなあ?
見回す景色は、見慣れた通勤路だ。
ちらちらと降る雪の中、出勤する人々は皆、傘を手に、あるいは鞄や雑誌を傘代わりに、背を丸め足早に歩いている。
誰も電話ボックスになど気付いていない様子だ。
私は不思議な気分で電話ボックスに目を戻した。と、赤い屋根の縁に、何か大きく書いてある。
「『happy-telephone』?」
普通の電話ではないのか?
よく見ると、電話機の色がラベンダー色だ。
おまけに。
「屋根、もうこんなに雪が積もってる?」
屋根には8〜〜10センチの雪が積もっていた。
——さっき降り出したばっかり、だけど?
私はもう一度、辺りを見た。
雪空に煤けたビルの景色に、大振りの牡丹雪がまだら模様のペイントをしている。
しかし、舗道には積雪はほとんどない。
電話ボックスだけが、切り取られたようなしっかりとした雪景色なのだ。
「なんか、変……」
違和感と、少しの怖さを感じ、私はその場から離れようとした。
突然、ボックスの中の電話が鳴った。
リリリリリ、という、軽い音。
けたたましいというより、何処か懐かしいような。
——取らなきゃ
さっきまでの違和感がすっと消えた。私は、急いで扉を開けた。
ラベンダー色の受話器を取り、耳に当てる。
「……もしもし」
『恵美?』
一瞬、聞き間違いだと思った。
だがその声は。
「お……、お母さん?」
戸惑う私に、母は『うん』と、返して来た。
聞き慣れた、返事だ。
『ごめんね。あんたには特に苦労掛けたね』
母は、微かに啜り上げているようだった。
『私が動けなくなってから、お姉ちゃん、家の事全部やってくれてたでしょ。大変だったね』
生前は私が家で炊事や洗濯を一人でこなしているのも、認知症のせいで全く理解していなかった母。
他のことに手間取って世話が遅れると、決まって癇癪を起こしていた。
大声で喚き、自分のことを大事に思っていない、と、手近にあるものを投げつけて来たこともあった。
ティッシュボックスや枕、ややもすればスマホも飛んで来た。
妹は、母が投げたテレビのリモコンで額を切った。
そんなだった母に。
大変だったね、と言われて、ああ、やっぱり解ってくれていたんだ、と、単純に涙が出て来た。
「当たり前じゃない、娘なんだから」
『それだけじゃない。お姉ちゃんはほんとに我慢してくれたよね。私が我儘が止められないのも、全部、受け止めてくれた』
『本当に、堪忍ね』と、母はもう一度言った。
涙が、止まらなくなった。
私はしゃくりあげながら、「いいよ、もう」と返した。
『これからは、お姉ちゃんとなっちゃんと二人きりだけど、大丈夫?』
父は6年前に他界している。
私は「うん」と頷いた。
「私、社会人だし。なっちゃんももうすぐ大学卒業だから。……安心して」
『なんにも出来ない母親で、申し訳なかったね』
「そんなことない。居てくれただけでよかったんだよ? 私もなっちゃんも、お母さんのお世話、大変だったけど嬉しかったんだよ」
『ありがとう、恵美』
「お母さん、あのね……」
言い掛けた私の耳元で、通話の切れた音がした。
「お母さん、お母さんっ!!」
私は、不通音になった受話器に向かって叫んだ。
まだ全然、喋ってない。もっと伝えたいことがあるのに。
もっと、話したいのに。
声が聞きたいのにっ。
「お母さぁんっ!!」
泣きながら、ボックスの外へ絶対に漏れるだろう大声で母を呼んだ。
——えっ?
手の甲で涙を拭い目を開けると。
眼前にあったラベンダー色の電話は姿を消していた。
当然、持っていた受話器も無い。
私は、泣きながら折り畳み傘を差し、通りにぽつん、と立っていた。
「あ……」
背後から忙しない靴音がいくつも響き、私を追い抜いていく。
長身の男性がちらりと泣き顔の私を横目で見たのに気が付いた。
恥ずかしくなり足元に目を落とすと、私は傘を低めに持ち直し、歩き出した。
******
定時まで仕事をこなし、パソコンをシャットダウンするまで、ずっと今朝の出来事を頭の隅で反芻していた。
——あの声は、本当にお母さんだったのだろうか?
道端に突然現れた電話ボックス。
喋っていた時は、まるで生前の母そのものだと思った。
けれど、冷静になってみたら、受話器から死んだ人の声が流れてくるなんて、まともに考えたらあり得ない。 きっと私、疲れてぼうっとなっていたんだ……。
葬儀社の手配やら、役所や公共機関への書類の提出やら、やたらと煩雑だったし。
その上、家の名義変更や相続の手続きなんかもややこしかった——
重い気分でロッカールームに入り、コートを着て退社した。
家に帰ると、先に帰宅していた妹の奈津美が、珍しく夕食を作っていてくれた。
「今日、面接に行ったんだ」
そう言えば、今日は一番志望の会社の面接だと、朝の出掛けに言っていた。
サラダやロールキャベツが綺麗に並んだテーブル越しに。
奈津美は何だか嬉しそう、面接会社のパンフレットを差出した。
「この会社、女性が多いんだけど、面接の人も女性だったの。質問は他の会社とあんまり変わらなかったんだけど。……最後にね、生田さんていう面接官が「あなたがうちへ来たら、楽しくなるわね」って笑ってくれたの」
「へえ……」
私は〇〇と書かれた会社名と、説明文の書類に目を落としながら頷いた。
「ねえっ、そういう反応って、もしかしたら合格ってことかなあ?」
目をあげた私に、妹はにこっと笑った。
その笑みは——母に、似ていた。
『happy telephone』から聞こえた母の声が、また蘇った。
やっぱり、あの『声』は本物だとしか思えない。
母は、私達を亡くなってもずっと心配してくれている。
私は泣きそうになってしまった。
妙な顔をしたのだろう、奈津美が訝しそうな表情で「どうしたの? お姉ちゃん?」と訊いた。
「何でも、ないよ」
もう一度目を落とした会社のパンフレットに、私はあることに気付いた。
ラベンダー色。
オフィスの入ったビルと、従業員の女性達の背景の色が、母の好きだったラベンダー色だった。
あ、と思った。
「電話器の色も……」ラベンダーだった。
「何? 電話って?」
漏れてしまった言葉を聞き取った奈津美が、質問して来た。
私は、慌てて「何でもない」と、パンフレットを妹に返した。
「大丈夫。きっと受かるよ」
母が妹を応援している。そう思えた。
結局、奈津美には『happy-telephone』のことは話さなかった。
二週間後。
奈津美は第一志望だった会社の内定をもらった。
春からは、念願の社会福祉士として働き出す。
少しだけ、ノンフィクションだったりします。
もしこんな電話ボックスがあったら、誰の声を聞いてみたいかな、と思いながら書きました。