最初から好きって言えばそれで済んだね(脱力)
拳をにぎり構えた私に、明らかに狼狽する上総。
「いや、何で殴られないといけないの?」
困惑気味にそんな事を言うけれど、ふざけるなと怒鳴らないようにするのに必死で、顔がどんどん凄まじい気迫を帯びているのがわかる。さっきまで押し倒そうとしていた人間とは思えないほどに、上総は私の顔をみて怯えきっていた。一歩、また一歩と距離を取る上総に、ますます私の顔は笑みを刻む。
無理もない。静かに微笑むモードの私は本当に怒っている状態だと知っているからこそ、上総には私が顔の中心を本気で殴ろうとしているのがわかっているのだ。しかも十発。
「むしろ何で殴られないで済むと思うの? 馬鹿なの?」
「だって、それは」
「だっても糞もない。人を騙して弄んで、楽しかったか」
「それは好きだったから」
「何度も言わせるな、脳味噌入ってんのか? ん? お前その中身入ってんのか? 重量あんのか?」
どごん。
凄まじい音がして、壁が一瞬震えた気がした。ああ、そういえば。部屋着のまま外に出ちゃったのか。全く、恥ずかしいったら。上がった自身の足を視界に入れて、無言で小さく首を振る。上総が怯えきった表情を私に見せた。ああ、小さい頃とあんまり変わらないな、こういうところ。
「これなんだっけ、ああ、あれだ、壁ドン?」
「違うと思います……」
女性が足で壁を蹴る。まあ、褒められた事ではないが。それくらい怒り心頭に発している事をどうかご理解いただきたい。
「あのさあ、人を好きになるって、自分よりも相手を思いやる気持ちを指すんじゃないの? あんたはただ気に入ったおもちゃを失くしたくないだけでしょ? 私がどんなに傷付いてもかまいやしないんでしょ? だからこんな馬鹿みたいなヤンデレ演じたんでしょ?」
「違う」
「違わないでしょ。ねえ、本当に私が好きならさ、真正面から好きって言やよかったんじゃないの」
「……言った」
何でちょっとふてくされてんだこいつ。ぶすっとした顔しやがって。幼い顔しやがって。可愛いなおい。正直、急に子どもっぽくなるところもツボなんだよ。だって私は世話焼きだからさ、手がかかる子のが可愛いわけよ、愛しいわけよ。正直、好みなわけよ。上総ってかなり面の皮厚くして学校にファンクラブなんてものまで作って徹底的に私を監視下に置いてるけどさ。それだって、私が本格的に苦しい立場にならないようにって配慮してる面がかなりあるのもわかってるんだよ。なんだかんだ優しいけど、不器用なんだよ。どっかずれてんだよこいつ。まあ、私もそうなんだけど……って今はそんな事を考えてる場合ではない。
「だーかーらあ。それは、時子が好きだってあからさまに誤解させようと態度で示してからでしょ? それで私があたふたしてるのを確認してから告白したじゃん。んで、あんた直後何て言ったよ? 告白した直後。あんた私に何て言った?」
「…………耳元で、かずちゃん好きだよって毎日囁いて欲しいって、言った」
「はい、そう。私、絶望。私、終了。はい死んだ! 私の心死んだよ!」
「ちょ、声でかい」
うるさい、わざとだ。そもそも、曲がりなりにも好きな相手に身代わりとして毎日一緒に居てくれって言われた乙女の悲しみったらもうとんでもない。それでも上総が好きだから、時子と雅哉が大切だからと耐え忍んだ今日までの私まじ健気! 健気と書いて私!
そして目の前の男は上総と書いて――屑である。
「ほら私の心死んだ! いいの? そのままでいいの? あれか、身体だけでいいってやつか! 心死んでても別に穴につっこんでしまえばいいとかそういうアレか!」
「ちょっと、女の子がそんな事言ったら」
「男のくせに女々しいお前が言うんじゃないよ」
すぱん、と言い切ってやると、上総は黙り込んだ。なんだかなあ。もういっそ監禁するくらいの勢いだったはずだろうに、こんな事くらいで意識削がれるなら最初からやるなよと言いたい。
ため息を吐いて、私はそろそろ疲れたし、と足をどける。
次の瞬間、ぐう、と息の詰まった声が上がったが、知るものか。鳩尾に拳を入れられたくらいで情けない。たかが女の腕力。たいした事はあるまい。毎日の家事でけっこう腕に筋力付いてるけどね。
「咳き込んでないで座れ。正座」
「うう……ぐすっ」
「泣くな。鬱陶しい」
「ぼ、僕の事……もう嫌いなんだ……みーちゃんは……もう僕が嫌いになったんだ」
ぐすぐすと泣きながら正座する男の頭を撫でたくて仕方ない衝動に駆られる。しかし、我慢だ。くううう、昔モードとは卑怯な。可愛いなちきしょう。いや、ここは心を鬼にせねば! 間違った恋愛観は正さねばならないだろう。愛の為に何でもしていいというのは詭弁だ。ていうか監禁実行したら普通に犯罪だ。ていうかやっぱり一人称僕じゃん。格好付けたかっただけだろ、こいつ。
「かず、ちゃ、て、昔は、呼んでくれて、たし」
「いやまあね。それでも大分昔に呼ばなくなったし、そもそもだから、私が言ったような意図でそう発言したわけでしょ?」
「うう……そうだけど……」
「屑。下種。下半身蛇口」
私の罵りに思わずと言った体で顔を上げた上総は、冗談でもなんでもなく涙で顔がぐちゃぐちゃだった。あああ、ティッシュ――て違う! ちーんとかしてやろうとか思ったりしてない! してないよ!
「最後は身に覚えない!」
「へえ? 犯そうとしたくせにそんな事言うの」
「だ、そ、う――蛇口になるのはみーちゃん限定だもん」
すぱん。
見つけたティッシュの箱を顔面に投げつける。やばい、顔赤くなってないか。ていうか、これを嬉しいと思ってしまう私もどうかしている。むしろ私のが病んでないか? あれえ、おかしいな?
「それじゃあ、改めて捻じ曲げたものを戻そうか。とりあえず、誤解をとこう。私ね、雅哉に一切、恋愛感情ないからね」
「!? う、嘘だっ」
いやいや、鼻水かみながら言っても間抜けなだけだぞ。あと最後までちゃんと出し切りなさい。中途半端でさらに間抜けだ。私が無言で見つめると意図を理解したのか、やはり間抜けなちーん、という音が部屋に響いた。よしよし。
「今さら嘘言っても仕方ないじゃん。私が雅哉を恋愛方面で好きってのは上総の完全な思い込み。私だってあいつを兄だか弟だかわかんないけどそういう風にしか見てないし。どうしてそんな誤解したの?」
雅哉は昔から所謂できる子だった。だからか、時子と上総の面倒を一緒に見ていて、どこか同志みたいな感覚がある。そういう意味で頼ってしまう時がなくはないけど、本当に参っている時に慰められたいのはいつだって目の前に座っている男だった。こいつは天然でいちばん欲しい言葉をくれるもんだから、もう大変だったよ乙女的な意味で。
「だって、好きだって言ったじゃないか! それに雅哉は男の僕から見たってかっこよくて」
「ええ? 単に腹が黒いだけでしょ。そもそもああいう完璧ぶった気障な男は私の性に合わないんだよ。あんなすまし顔で好きだよ……とか囁かれたらぽーっとなる所かふくわ! 全力で面白いだけだわ!」
まあ、小動物系の子は奴にめろめろだけどな! でも本当、単に性格悪いだけだよ、あいつ。あいつこそ割と真性ヤンデレだよ。邪魔者排除に余念がないし、私が四人のバランス取ってるけど、放置したら私の可愛い上総が何らかの被害に遭う可能性がある。だってあいつの心の狭さやばいもん。さっきもちょっとやばかった。まあ、根底には上総もきちんと大切な人枠に入ってるから今の関係続いてるんだけどさ。演じてる部分が、雅哉の野生の勘に反応してたんだろうなあ。恐らくはひょっとすると時子が好きなのではないかと半信半疑だったのだろう。他人だったらその時点でとっくに排除されている。上総が上総で本当よかった。
「…………じゃあ、あの時、どうしてあんな事言ったの?」
「あの時? そういや、好きだって言ったって、私が雅哉をって事? いつよ?」
身に覚えがない。冗談でもそんな事を言っただろうか……思い返してみるけれど、やはり記憶から引っ張り出せない。私が考え込むより先に、興奮した様子の上総があの時だよ! と叫んだ。
「小学校の卒業式からすぐあと。僕と雅哉の親も留守がちだけど、珍しく全員がしばらく休みをもぎ取れたからって、四家族で旅行に行ったじゃない。 その時、僕が夜中にトイレに出たら、コテージの外でふたりが並んでいるのが見えて」
ああ――なんか別荘地みたいな場所に行ったやつか。会社の保有のなんかだったんだっけ? よく覚えてないけど。どんな場所に泊まったかは覚えてる。避暑地で、川で遊んだりもしたし、ショッピングモールみたいな場所にも行った。夜か……って、まさか!
「あんた、さてはあの時の会話、部分的に盗み聞きしたな!?」
「えっ!?」
すっかりその出来事を思い出した私は、頭が痛いを通り越して頭痛が痛くなった。日本語すらまともに操れなくなるほどに脳内がおかしくなっている。
はあああ、と特大のため息を吐くと、その時を思い出して苛々が再燃する。
そう、あの時。よく憶えている。
『なあ、上総の事さ、好きなんだろ?』
『んん? 何、突然』
『いや、確認。ほら、万が一、由未が俺の事好きだったら泥沼だろ』
『あんたのその性格ほんと無理だわ。友だちとしてはいいけど、男としてまじ無理。ない』
『同感だな――で?』
『…………本人に言う前になんで言わないといけないわけ?』
『安心したいんだよ。もしも上総が時子を好きだとしたら、そこら辺も頑張って欲しいし』
『あんたねえ』
『……言うまで眠らせないよ? それによって俺は君に伝えなければいけない事ができる。言って、由未』
『…………好きだよ。ちゃんと恋愛感情で、好きだよ』
「えっ!? 僕、言うまで眠らせない辺りからしか聞いてない! てっきりそれで、雅哉に失恋したんだろうと……」
「だと思った。どうやったらそんな誤解するのか本当あんたってさあ……」
額に手を当てて大げさに嘆くと、しかし上総が急に立ち上がって――こけた。
「……馬鹿だね、足しびれたんでしょ。急に立つとか自殺行為」
「そん、な、事! どうでもいいよ! そうじゃなくて! 由未って……僕の、こと」
「ああ、そうだね、好きだね、どうしようもない強姦野郎だけどね」
「!!」
あっさりと言ってやる。
「そうだ、こんな空間にふたりきりだったらまたいつ襲われるかわかんないから帰ろう」
「え!? ちょ、由未、ま」
「さようなら」
足がしびれて動けまい。それも計算づくだわ、ばーか。それでもけっこうな速度で部屋を出て、馬鹿みたいに走る。正直、さっきから泣くの堪えてたから辛くて辛くて仕方ない。
馬鹿じゃないの、本当馬鹿。私も含めてだけど、私たちは、馬鹿だ。
告白の時だって、そう匂わせたのはあいつの策略だったけど、もっと信じてあげればよかった。自分の傷ばかり見て、上総が苦しんでる顔に気付けなかった。あんなに痛みに耐えるような顔をしてて、どうして演技だなんて決め付けてたんだろう――いや、それすらも、時子を想ってああいう表情をしているんだと思い込んでいた。上総はいつだって、私を、私だけを見ていてくれたんだ。
周囲なんて、心地良い四人の関係を捨てるのが嫌だからって、気にしないで言ってしまえばよかった。本当に私が好き? と。私は上総が好きだから、あなたに身代わりにされるなんて嫌だ、と。そう言えばよかったのに。馬鹿だ私は。逃げて、結局は自分も、上総も、たくさん傷付けてしまった。
「どうしよう」
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
両想いだった。本当ならハッピーエンドだ。けれど、そんな簡単に誤解でした、じゃあ付き合いましょう、なんて、そんなんでいいの?
上総は罪深い事をした。私は罪深い事をした。私たちは刃物でお互いを切って、切られて、そのくせ被害者ぶって、自分の傷しか見なかった。そんな歪んだ関係を二年近く続けて、私と上総はこれから先、恋人としてやっていけるんだろうか。いや――幼馴染みとしても。
「すきなのに、やだよ」
ぐちゃぐちゃだ。
本能はただ飛び込めばいいじゃないかと訴える。けれどそんなの嫌だと傷付いた私が訴える。上総と真っ当な恋人同士になりたい。でもそうなるのが怖い。また、騙されて、騙すんじゃないかって、怖くて怖くて仕方がない。
家に帰って、泣きながら玄関の扉を開けた私を、時子は驚いた目で見ていた。けれど今はまともに会話をできる状態じゃないからと、私はベッドに潜り込んだ。時子に、晩ごはんはいらないからと伝えて、私は閉じこもった。幸い、部屋には鍵が付いている。コインで簡単に開けられるようなものだけど、何か集中している時とか、誰にも寄って欲しくない時は、鍵をかけるとそれが暗黙の了解として、誰も踏み込まない。そういうルールだ。もし上総が来ても、時子がきっと追い返してくれるだろうと信じて、私は泣きながらみのむしになりきった。
「ちょっと、かずちゃん! 何したの!? 由未に何したの!!」
「…………」
まさか本当に出て行ってしまうとは思わなくて、慌てて追いかけて、ここまで来た。けれども遅すぎたようだ。こんなに怒る時子に面食らいながらも、何をしたかなんて言えるはずがなかった。赤くなった頬がじんじんと痛くて、俯く。
「落ち着いて、時子」
空を切った音。それから何かと何かがぶつかった音。どうやら、雅哉が時子の手を受け止めてくれたようだ。何発叩かれても、文句は言えない事をしてしまったから、甘んじて受けるつもりはあったけれど。しかし雅哉の行動に納得がいかないのか、悔しそうに顔を歪ませて、時子が僕を睨み付けた。
「……っ、あんな風に泣くの、今までなかった。あんな、心がなくなっちゃったみたいな顔で泣く由未、見たくなかった。どうしてあんな顔させたの? いくらかずちゃんでも、絶対に許さない! もう、由未に近付かせないんだから!!」
「いやいや、いくらなんでもそれは」
「雅哉だって見たでしょ」
「……確かに、気にはなるけど。俺たちに知られたら、きっと由未は余計に傷付くんじゃないか?」
雅哉の言葉に思う所があったのだろう。ぐっと詰まり黙り込んだ時子を、僕は真っ直ぐ見つめた。
「屑だし、馬鹿だし、最低な事したけど、ふたりには言えない。どうしても知りたければ、由未に確認を取って。もし由未が良いって言ったら、ぜんぶ話す」
段々と冷たくなる手足でどうにか踏ん張りながら言い切ると、今度は時子の顔から怒りが抜け落ち、ただ悲しそうに僕を見た。
「――どうして」
「え?」
「そんな、そんな風に由未を思いやれるなら、あんな顔させる前にどうにかできたんじゃないの? かずちゃん、どうして屑で馬鹿で最低な事なんかしちゃったのよ! もう! ちゃんと謝って仲直りしないと本当に許さないからね!?」
謝って、仲直り。
そんな事、本当にできるんだろうか。僕は思わず雅哉を見た。なんだかんだ、由未とこいつには甘えてばかりだったから、こんな時は無意識に頼ってしまう。けれど、雅哉は厳しい顔で、僕を見た。
「……ちょっと、ふたりで話したいんだ。いいかな? 時子」
「…………いいよ。納得はいってないけど、ごはん作って待ってる。かずちゃんも、食べて帰るのよ」
むう、と口を尖らせて言う時子に、僕は苦笑して頷いた。相変わらず、時子は末っ子に徹するのが上手だ。本当にそういう性格だというのももちろんあるけれど、きっと僕たちのバランスを取る為にやっている部分も大きいのだろう。
「一発殴ってやりたい心境ではあるけど――もしかして俺のせいなのが少なからずあるんじゃないかと思ってな」
「!」
「図星か」
苦笑した雅哉に、僕はため息を吐く。玄関先で男ふたりが座り込むというのも、妙な構図だ。夕方にさしかかり、そこまで暑くはない。
「小学校卒業のあと、すぐ旅行いったじゃん? あれで一部分を聞いて、誤解しちゃったんだよね、由未が雅哉を好きだって」
「あー……なんとなくそうかなとは思った」
「で、ちょっとこじれちゃった感じ?」
首を傾げて言えば、感じ? じゃないよ、と額をぴしん、と指で弾かれた。すんごく痛い。
「あん時、俺も余裕なかったんだよなあ……今思えば、かなり無神経な事したと思う。精神的に幼かったのもあるけど、まさかそれが原因でふたりが今こんな事になるなんてな」
「…………」
「近すぎると、相手の心はわかんないもんかもしれないけどな――なあ、ひとついい?」
「ん?」
「お前は由未が好きなんだよな?」
「…………は?」
「だから、時子が好きとかじゃなく、ちゃんと由未が好きなんだよな?」
「はあ!? 何それ、再現か何か? 馬鹿じゃないの、由未しか好きじゃないに決まってんじゃん」
ていうかこいつ、懲りてないのか? これでまたどっかの誰かが聞いてて新たな誤解が生まれたらどうすんだろう。僕が雅哉をとか――どうしよう、すっごく気持ち悪い。
「だよなー。潔いなしかし」
あはは、と笑う男の顔はしかし笑っているように見えない。こいつ、さては今の今まで少し疑ってたな? 本当は時子が好きなんじゃないかって。
「もう最近なんてやばかったからねー、ふたりきりだと常にキスしたくて。とにかく無表情を保ってるんだけど耳だけ赤くなるもんだから、それ見るともう可愛くて可愛くて――あ、やばい、思い出したら下半身元気になっちゃう」
「うん、よくわかった、馬鹿だなお前は」
「いや、雅哉も大概でしょ!?」
「俺はきちんと自制できる」
「それは僕もちゃんとしてるよ。じゃなくて脳内大変でしょ?」
「そんなの男なら誰だってそうだろ」
「だから僕も正常だよ」
「いや、お前相当だよ。想像しただけでとか」
「雅哉だって今みたいに思い出したらなるでしょ?」
「――なるね」
「ほら」
なんだ、ふたりとも異常か、となんだかよくわからない結論が出た。いや、別に好きな子相手なら、普通じゃないの……?
あ、あ、あ、あいつ……!
なんて事を、なんて事を……ていうか雅哉まで! 私の時子をそんな汚らわしい目で――ってそれは別にいいわ。まあ、お年頃だし、仕方ないか、妄想くらいは。
「口に出して普通言う……!?」
みのむしになってぼんやりしていた私は、夕方になり閉め切っているのも身体に悪いと窓を開けていた。私の部屋は道路側に面した所に窓があるから、玄関も真下に見える。だから、ふたりの会話はしっかりばっちり聞こえていた。
つうか雅哉。あいつまじ腹立ってきた。そもそもが反省してないんじゃないの? またも確認作業なんてしてるし。あーすんごい腹立ってきた。どうしよう、こもってるのひょっとして馬鹿馬鹿しい? 上総にしても、さっさと再教育しないとまた外でいらん事を言うんじゃないだろうか。
耳だけ赤くなってるとか、自分でも気付いてなかったからだいぶ恥ずかしい。そんな情報を、よりにもよって雅哉に流すとは! なんと愚かな!
むくむくと湧き出した感情に、私はがばりと起き上がる。
鍵を開け、部屋を出て、一直線に階下へと向かう。物凄い音が響いていたからだろう。リビングから驚いた声が聞こえたし、玄関を勢い良く開けたら男ふたりの間抜け面が並んでいた。美形でも間抜けは間抜けだ。
「雅哉、あんたちょっと下がりなさい」
「は?」
「いいから、もうちょっと下がりなさい――いや、いっそ表へ出なさい。考えたらここだと足場が良くない」
私は靴を履きながら、玄関のエントランスで腰かけていた男ふたりが立ち上がった瞬間に声をかける。固いエントランスを下りると、すぐにふかふかの土だから、安定感がない。左にずれれば駐車場だが、助走も考えるとやはり距離が足りない。……うん、表に出てもらうしかないな。
「何? 嫌な予感しかしないんだけど」
「いいから。今言う事をきけば、一回だけで済ませてあげる」
有無を言わさない空気を出して言ってやると、渋々だが雅哉は表に出た。私は頷いて、そこに立っていろと指示を出す。靴はいちばん具合の良いスニーカーだ、問題ない。本当はヒールとかのが痛いんだろうけど、助走で失速したらあまり意味がないし、私のスカっと感が最重要なので、気にしない。
雅哉と同じく私も表へ出る。心配顔の上総と時子は一度顔を見合わせると、慌てて私のあとについてきた。
「一ミリでも動いたら一回じゃ済まないよ」
「…………わかった」
微笑む私に肩を少し揺らした雅哉は頷いた。よし。
数メートルの距離を取った私は、雅哉めがけて一直線に走り出すと、彼とある程度の距離を保ったまま跳び上がる――よし!
「こんの――糞餓鬼がああああああああ!!!」
叫びと共に私の跳び蹴りは雅哉にクリーンヒットした。
「きゃあああ! 雅哉!」
悲鳴を上げた時子が雅哉に駆け寄る。私は反動すらも利用して雅哉にきつい一発をかましてやったので、地面に倒れ伏さずに済んだ。ていうか雅哉を踏み台にして体勢を立て直したのだ。
「一度目でまったくちっとも反省してなかったね、ちょーっとおいたが過ぎたかな? あんたがそうやって面倒くさい事実確認を行動に起こさなきゃこんなにこじれなかったんだよ。まあ、時子が好きで仕方ないのも、取られてしまうのが心配なのもわかる。時子は可愛いし実際にモテるし。でもね、あんたも、上総も、周囲の人間をもっと思いやりなさい。せめてああいう話をするなら、密室でふたりきりの時にすべきでしょ。旅行の時も、今回も、第三者に聞かれる可能性がある場所でああいう会話をするんじゃないよ、馬鹿。脳味噌入ってる? 入ってると思ってたけど入ってなかった? ねえ? 味噌汁にして食べちゃった? あったのに減っちゃった?」
にこにこと笑いながら畳み掛けるように仁王立ちをする私を、時子は混乱したまま見上げる。
「あ、あの、かずちゃんが何かしたんじゃなくて、雅哉も関係あるの?」
「んー、元凶は雅哉だけど、ここまでこじれたのは私たちの自己責任だよ。半分八つ当たりみたいなもんだから、これで終わり。ごめんね、時子」
時子の大切な人をけちょんけちょんに言ってしまった。罪悪感を覚えつつ弱弱しい声を上げると、何言ってるの! と時子が叫んだ。
「元気になるなら、何回でもやっていいよ!」
「時子!?」
「私が隣で手当てするし!」
「いや、そういう問題? だいぶ痛いんだけど……」
「雅哉。やっちゃいけない事したんでしょう? だったらちゃんと反省しなくちゃだめ。ごめんなさいは?」
き、と時子が雅哉を睨むと、さすがにばつがわるいと思ったのか、雅哉が悪かった、と呟いた。
「私こそごめんね。まあ――別に雅哉は悪くないといえばそうなんだけど。元凶なくせしてまたあんな事言ってるからさすがにキレちゃって」
「相変わらず怖いな――由未が本格的に怒ると」
苦笑いする雅哉も、本来ならこんな事をされるような人間じゃない。そもそもが私に従った事こそ異常だ。その辺もどこか気障ったらしい感じするんだよなあ。本当に異性としてはないわ。ないわー。
「何か失礼な事考えてないか?」
勘の良い雅哉は私が失礼極まりない感情に占められていた事を見抜き、少し険のある表情を向けて来たが、すぐに誤魔化すように時子へと視線をやった。
「いや別に。時子、ごめん。晩ごはんできたら呼んでくれる? 上総いないと時間かかるかもしれないけど……」
「もちろんいいよ。ゆっくり作るね」
微笑む時子に頷いて、私はさっきから棒立ちしている男に顎で家に入れと告げる。どこのチンピラだと後ろから雅哉のツッコミが入ったが気にしなかった。
最近は時子と上総が晩ごはんを一緒に作ったりしていたから、余計に時子が好きなんだろうと信じて疑わなかった。何て言うか、変に芸が細かいよなあ、上総って。
玄関を上がり、階段を上がる。無言でついて来る上総は俯いたままだから、表情はわからなかった。部屋の前まで来ると、私が扉を開く。ドアノブを持ったまま上総を見ると、まだ俯いてもじもじしているので、入って、と低い声で短く告げた。肩を揺らして顔を上げた上総の迷子みたいな表情を視界に入れてしまうとどうにも駄目で、私は苦笑した。いいから入りなさい、ともう一度告げると、どこかほっとしたような顔で上総は足を進めた。私も上総に続いて部屋へ足を踏み入れると、扉を閉めようとドアノブを掴んでいるだけだった手に力を込めた。
ぱたん。
どこか恐々と響くような音に少し緊張しながらも、私は自分を宥めるように息を吐く。少し考えて、まずは窓を閉めようと動いた。窓の鍵もきちんと閉めたのを確認して、すぐさま冷房を入れる。さすがに閉め切ってしまうと暑いけれど、外に声が丸聞こえになるのは勘弁願いたかった。そして迷ったけど、扉の内鍵も閉める。やはり完全な密室でなければ、今からの内容は怖くて話す気になれない。雅哉にならばともかく、時子には万が一でも聞かれたくはない。防音というわけではないからある程度近付けば声は聞こえるだろうが、そんなに大きい声ではなく、入り口付近に固まっていなければ扉に耳を押し当ててもはっきりと言葉として聞き取るのは難しくなるだろう。
まあ――ちょっと考えすぎかもしれないけれど。正直このくらい慎重になっていいと思う。大事な話をする時は。思わずでたため息に上総が大げさなくらい反応を示したものだから、私はまたも小さく苦笑した。