scene:218 クロエの修行と追放オーク
業界でも中堅と呼ばれる芸能事務所の社長である栗林は、問題となっている歌手のマネージャーを呼んだ。
「社長、何でしょうか?」
「前田、君に任せているクロエだが、まだ歌えないのか?」
前のマネージャーが目の前で殺されたのを目撃したクロエは、心に深い傷を負った。その影響で人前で歌おうとすると、声が出なくなるという症状が出るようになったのだ。
「クロエを心療内科の医者に診せているんだろ。どうなんだ、治りそうなのか?」
「先生には時間が掛かりそうだと言われました」
栗林社長は渋い顔をする。
「クロエか。稼がせてくれると思ったんだが、切り時か」
「もう少し待ってはどうです。立ち直るかも知れませんよ」
「いや、クロエ程度の才能の持ち主はいくらでもいる。あいつに金を掛けるより、他のアーティストに力を注いだ方が効率的だ」
「しかし、彼女の声には価値が有ります」
「だが、その価値があった声が出なくなったんだ」
「……ですが、貴岬大臣の姪ですよ」
「それがどうした。大臣の姪だと言うだけで客が呼べるのか。それに私が親しくしている森山大臣のライバル派閥の人間なんかに気を使う必要などない」
社長は親しくしている政治家とライバル関係にある大臣の関係者だという事で、クロエを持て余し始めていたらしい。今までは人気が出ていたので面倒を見ていたが、歌を失ったクロエに見切りを付けたようだ。
前田は事務所の応接室にクロエを呼び出し、クロエに事務所を辞めるように言う。
二人は時間を掛けて話し合い、前田はクロエに歌手を諦めさせた。
前田は最後に謝る。
「もう少し様子を見るように、社長にお願いしたんだが駄目だった。私の力が足りないばかりに……済まない」
クロエは悔しいという気持ちを抑えながら、所属していた事務所を去った。
事務所は、マスコミにクロエが芸能界を引退すると発表した。そのニュースを自宅マンションで聞いたクロエは自殺したい気持ちになる。
その時、ふと一人の男性の顔が浮かんだ。
彼女は伊丹に連絡を取り、東京駅で会う約束をした。
午後二時頃、クロエと伊丹は東京駅で合流し、近くの喫茶店へ。
伊丹はクロエの顔に影が差しているのに気付いた。
「何かあったのでござるか?」
クロエから事情を聞いた伊丹は。
「その事務所の社長は、価値の分からぬぼんくらでござるな」
「悔しいですけど、他人の前で歌えないのは本当ですから」
「一人の時に歌えるのなら、身体的な問題ではなく、精神的なものである証拠でござろう」
「身体的でも、精神的でも歌えないのなら一緒です」
伊丹が首を振った。
「いやいや、精神はいくらでも鍛えられるものでござる」
「そうなのでしょうか?」
伊丹が力強く頷く。彼が鍛えた者たちは、弱音を吐かず勇敢に修行を終え師の下から旅立っていった。
但し、鍛えられた本人は二度と伊丹の下で修行したくないと考えている者が多かった。
「私も鍛えたら、元のように歌えるようになれるでしょうか?」
「確約は出来申さぬが、可能性は有ると」
「でも、伊丹さんは普段異世界に居るのですから、私も異世界に行かなきゃならないのでしょ」
伊丹は普通の者が異世界に行くには、多額の金が必要だと知っている。だが、クロエに負担になるような事はしたくなかった。
「クロエ殿は、今現在失業中なのでござるな?」
「まあ、そうです」
「であれば、拙者の助手になりませぬか」
クロエが首を傾げた。案内人助手という職種は人気のあるもので競争倍率が高いと聞いていたからだ。
「簡単になれるものではないと聞いていますが」
伊丹が頷いた。
「本来ならそうでござる。しかし、拙者には案内人としての実績が有り、案内人助手の一人二人なら推薦する事も可能でござる」
東條管理官に頼む事になるが、それくらいのゴリ押しを通せるほどの実績は積んでいると伊丹は自負している。
クロエは真剣に考え、挑戦してみる事にした。
今のクロエは失うものがない。そう思ってしまったのだ。後で少し後悔するのだが、その時には後戻り出来なくなっていた。
クロエの就職は驚くほどの早さで決まる。芸能界を引退したクロエの周りには、偶にマスコミがうろうろする時があり、ニュースネタになるのを嫌ったクロエは、密かに異世界に旅立った。
それから三週間後。
クロエは迷宮都市で案内人助手として修行を続けている。
「クロエお姉ちゃん、そっちに行っちゃよ」
ルキが元気な声を張り上げた。
「ま、任せなさい」
クロエはワイバーンの爪から作った竜爪グレイブを構え、迫って来る鎧豚に武器を振るう。
鎧豚の首に竜爪グレイブの刃が食い込み切り裂く。真っ赤な血が溢れ出し、鎧豚の体が雑草が生い茂る地面に倒れた。
「やっちゃー!」
ルキが嬉しそうに声を上げる。
その様子を見ていたアカネが、クロエに指示を出す。
「さあ、クロエ。今日は鎧豚の解体よ」
クロエは顔を顰める。大分慣れてきたが、まだまだ魔物の死骸には抵抗がある。まして解体や剥ぎ取りとなると躊躇ってしまう。
伊丹に鍛えられたクロエは、『魔力袋の神紋』も取得しポーン級の魔物なら仕留められるようになっていた。
「魔物への恐怖心も抑えられるようになったのね」
「はい、伊丹さんやアカネさんたちの御蔭です」
クロエの精神は確実に鍛えられ、心に受けた傷は段々と癒やされている。迷宮都市へ来て最初の頃は、何もかもが怖かった。
ただ趙悠館の人々が優しかったので頑張れた。特に猫人族のルキたちの存在は大きい。
猫人族がなにげに見せる可愛い仕草に、クロエは何度も癒やされた。
そして、一番のお気に入りはルキだ。元気で可愛いルキは見ているだけで優しい気持ちになれる。
漸く鎧豚を解体し魔晶管と皮、それに美味そうな部位の肉を剥ぎ取る。
リュックに皮と魔晶管を入れ、肉は三人で分けて持つ。
「まだ狩りを続けるんですか?」
クロエがアカネさんに尋ねる。
「疲れたの?」
「いいえ、まだまだ大丈夫です」
「今日はエヴァソン遺跡に行くつもりなの」
「へえ、あそこには犬人族や虎人族が居るんですよね?」
「そう言えば、クロエは犬人族と虎人族には会った事がなかったっけ」
「ええ、その二種族も猫人族みたいに可愛いんですか?」
「そうね、子供は可愛いよ」
クロエは会うのが楽しみだというように笑顔となる。アカネはクロエの笑顔を見て、彼女の精神が癒え始めているのを感じた。
「アカネお姉ちゃん、変にゃ気配がしゅるよ」
ルキが声を上げた。
クロエたちが居るのは、もう少しで森を抜け海岸に出る場所だ。
アカネは慎重になった。伊丹からクロエの事はくれぐれもよろしくと頼まれている。
慎重に歩み始めたアカネたちは、前方で戦っている気配に気付いた。
もう少し近付くと戦いの光景が目に入る。犬人族とオークの戦いだ。
犬人族は六人の戦士、オークは三体である。
戦いは互角だった。体の大きなオークはその怪力とリーチの長さを生かして戦い。犬人族は持ち前の素早さと伊丹とミコトから習った武術の技を使って戦っている。
アカネはオークの身なりから、オーク帝国の者ではなく、追放された犯罪者ではないかと推測した。
オークたちが使っている剣もオークの体格にしては小さいものだ。人間のハンターから奪ったのかもしれない。
アカネはルキとクロエに待機しているように指示してから、戦いに加わった。
その結果、戦いは犬人族側に有利となり、オークの一体が腹を刺された事をきっかけに決着する。犬人族たちの勝利である。
犬人族の一人がアカネに近寄り。
「アカネ様、御助成ありがとうございます」
アカネは微笑んで頷いてから。
「こんな所にオークが現れるなんて珍しい」
犬人族が深刻そうな雰囲気で。
「それなんですが、最近オークをエヴァソン近くで見掛けるようになったんです」
「どういう事?」
「追放オークたちは巨木の森の西、ロロスタル山脈の端辺りを住処にしていたんですが、こちら側へ樹海を移動して来ているようなんです」
「何故かしら? でも、このままじゃ危険ね。ミコトさんと伊丹さんに知らせましょ」
アカネは予定を変更し、迷宮都市に戻る事にした。
その頃、俺は趙悠館でグレイム中佐からの依頼について考えていた。
アメリカの転移門から転移する駐屯地で、魔導飛行船の心臓部である浮揚タンクと魔導推進器、魔力供給装置を作ってくれという依頼である。
魔導推進器と魔力供給装置は似たようなものが有るそうなので、アメリカも時間を掛ければ製造ノウハウを自力で手に入れるだろう。
だが、浮揚タンクに使われている逃翔水は、迷宮で偶然発見した喪失技術を使って作り出したものだ。この技術はJTGにさえ秘密にしている。
アメリカの駐屯地で逃翔水を製造すれば、その技術を秘密にしておく事は難しい。
「逃翔水の製造技術は、他人に知られたくないから、依頼は断るしかないな」
いくらアメリカの依頼だとはいえ、こちらの不利益になる依頼を断るだけの気概は持っている。
思索が一区切りした時、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
声がした方へ行ってみると、呼んでいたのはアカネさんとクロエ、それにルキだ。
「どうしたんだ?」
アカネさんがエヴァソン遺跡の近くでオークと犬人族が戦っていた事を知らせる。
「オークがエヴァソン遺跡の近くに移動しているのか……理由は何だろう」
「分からない。けど、追放オークの集団がエヴァソン遺跡を狙っている可能性も有ると思うの」
魔物が徘徊する樹海において、安全地帯となる場所は貴重である。追放オークが遺跡を狙うというのは、考えられる事だ。
「俺はエヴァソン遺跡へ行く。伊丹さんが戻ったら遺跡に来るよう伝えてくれ」
アカネさんが少し躊躇ってから。
「私も行こうか?」
「いや、アカネさんは趙悠館を頼む。病院からの依頼者やクロエが居るからね」
クロエは歳上なのだが、本人がさん付けはいらないというので省略している。
俺は戦いの準備をしてから、改造型飛行バギーを操縦し迷宮都市を出た。
上空からエヴァソン遺跡が見えてくる。
「異常はないようだ」
改造型飛行バギーを遺跡に着陸させた。
すぐに犬人族と虎人族が集まって来る。犬人族の長ムジェックが傍まで来て。
「ミコト様、オークどもなのですが、総勢五〇体ほど居るようなのです」
ムジェックは犬人族の戦士を偵察に出したようだ。
「五〇体……多いな。オークどもの居場所を教えてくれ。様子を見て来る」
俺は場所を聞いて偵察に出た。
追放オークは遺跡から西へ二〇キロほどの場所に居た。
オークたちは岩山に開いた洞窟を根城にしており、斑熊や鎧豚を仕留め食事をしている。
「ヴォラゲム魔法士長、犬人族が住んでいる遺跡は防御力が高いと聞きましたが、大丈夫なんですか?」
「心配するな。これでも青鱗帝の魔法士長だったのだぞ。遺跡の防壁など魔法の一撃で吹き飛ばしてやる」
ヴォラゲム魔法士長は、オーク帝国の青鱗帝が誇る魔法師団の精鋭だった。だが、魔法師団の指揮官である将軍と意見が対立し、任務遂行中に命令を無視してしまった。
任務は成功させたのだが、命令無視を問題にした将軍と口論となり、最後には将軍を殴ってしまう。
結果、ヴォラゲム魔法士長はオーク帝国から追放となった。
そして、ロロスタタル山脈の端に隠れ住んでいた追放オーク集団と合流し、その長に治まったのだ。
その過程で追放オーク数体を殺しているが、オークたちは問題にしなかった。力こそ正義というのがオークの信条だからだ。
集団の頂点に立ったヴォラゲムは、一時的には満足した。
だが、しばらくすると樹海に住む野生動物や魔物を殺して食料にする生活にも飽きた。美味しい料理や衣服、文化的な暮らしが欲しくなったのだ。
そこで目を付けたのが、迷宮都市である。しかし、さすがに迷宮都市ほどの街を攻撃しても、追放オークだけでは落とせないと判っているので手を出さない。
そこに犬人族が住む遺跡があるという情報を手下のオークが持って来た。
「よし、その遺跡を奪い、犬人族を配下に加えるんだ」
ヴォラゲムは手下たちに、そう宣言する。
すぐに手下のオークたちの中から数人を偵察に出した。
だが、手下の多くは軍務に就いた経験がない単なる犯罪者である。犬人族に発見され警戒されてしまった。
その結果として、俺は木に登っている。木の上から、オークたちが食事をしている洞窟を偵察しているのだ。この時、リーダーらしいオークが気になった。このオークが他のオークとは少し違うと感じたのだ。
そのオークをジッと見ていると、注目していたオークが顔を上げ、こちらを見た。視覚的には木の枝葉で見えないはず。
俺の中で警告音が鳴り響き、木から飛び降りる。それと同時に登っていた木に何かがぶつかり、粉々に砕けた。
「魔法か」
危険だと判断した俺は逃げ出した。




