案内人の仕事2
雑草の隙間から、緑色の皮膚がチラリと見えた。チェッ……ゴブリンか。藪から二匹のゴブリンが飛び出す。身長百二十センチ、腰巻きを巻いただけの緑の身体に醜悪な顔を乗せ、手には棍棒を持っいている。
その醜悪な顔と緑の皮膚は、人間に嫌悪感を感じさせる。依頼人たちは、本物の魔物の出現に顔を青褪めさせていた。
「教授、後退して」
峰教授が後ろへ下がろうとした時、背後からも一匹ゴブリンが現れた。後ろの一匹は、タフガイ菊池に任す他無かった。俺は背負い袋を投げ出し、竜爪鉈を構える。
『ギギッグゲッ…』
素早くゴブリンとの位置関係を把握すると、俺は右から襲って来たゴブリンの棍棒を払い、前蹴りを醜い腹に叩き込んだ。腹を蹴られたゴブリンは、仰向けにひっくり返る。もう一匹が、俺の頭目掛けて棍棒を振り下ろす。鉈の柄で受け流しゴブリンに蹈鞴を踏ませる。
俺は一回転して鉈の刃をゴブリンの首に叩き付ける。ゴブリンの首から血が吹き出し、奇妙な呻き声出して倒れた。最初のゴブリンが、腹を押さえながら起き上がろうとしている。すかさず、その頭へ鉈を振り下ろす。鉈の先端はゴブリンの頭蓋骨を断ち割り、その生命を奪った。
死んだゴブリンの身体から、魔粒子が解放され大気中へと拡散していく。その何分の一かは、俺の身体に吸収され細胞が活性化するのを感じた。
「凄い、下から数えた方が早いランクだと聞いたが、三段目というのは、なかなかのものなんだな」
獣医村上が俺の強さに感心していた。ふん、俺はやる時にはやる男なのさ。心地よい視線を浴びていた俺は、もう一匹ゴブリンがいたのを思い出した。
慌てて、タフガイ菊池の方へ視線を向ける。まだ、戦っていた。
「セーフ……死んどったらどうしょうか思ったぜ」
後方から襲って来たゴブリンは、錆びたショートソードを持っていた。ゴブリンは興奮しており、やたらに剣を振り回しタフガイ菊池を攻撃している。
短槍で武装したタフガイ菊池は、初めての実戦で苦戦している。子供のような身長のゴブリンだが、平均的成人男性より力が強く、何よりも敵を殺そうという殺気は本物で、初心者はビビる。タフガイ菊池は襲い来る剣を槍の柄で弾き、全力で飛び退く。ゴブリンは恐るべき体力の持主で、菊池に攻撃のチャンスを与えなかった。
『ギャワッ!』「オッ!」
『グゲガッ!』「デヤッ!」
『ギェギョ!』「クソッ!」
俺は、加勢せずに戦いを見守っている。この異世界という現実を分かって貰いたかった。……というのは嘘で、タフガイ菊池がちょっと気に入らなかったからだ。言っとくけど、彼の命が危なくなったら助けようという態勢だけは整えていたよ……本当に。
タフガイ菊池は真っ赤な顔をして懸命に戦っている。ゴブリンが剣を突き出す。それを避けようとした菊池はよろけた。ゴブリンがチャンスとばかりに大振りの上段斬りを放ったが、それが逆に隙となった。タフガイ菊池が短槍の石突をゴブリンの腹に決めた。一旦距離をとった菊池は槍をゴブリンの胸に突き入れる。
『グギャーッ!』
漸く勝負がついた菊池は、肩で息をしながら、その場にペタリと座り込んだ。それを見届けた俺は、ゴブリンの解体を始める。所謂【剥ぎ取り】と呼ばれる行為だ。ゴブリンの身体には金になる部位が二箇所ある。額に在るピーナッツほどの大きさの角と肝臓の隣にある魔晶管と呼ばれる魔物特有の臓器だった。ゴム製の試験管のような魔晶管切り取り、その口を紐で縛る。魔晶管は、角と一緒に背負い袋入れてあった革製の採取袋に入れる。
魔晶管の中には魔粒子を多く含んだ体液が入っており、その体液は魔法薬の原料となる。但し、ゴブリンなどの小物のものは、魔粒子の含有量が少なく、銅貨三枚ほどの価値しかない。また、ゴブリンの角をハンターギルドへ持って行くと討伐報償として銅貨二枚が支払われるから、ゴブリン一匹を倒すと銅貨五枚(五百円相当)になる。
しょぼいと思うかもしれんけど、銅貨五枚有れば一日分の食料が買えるんだぜ。
俺が手慣れた様子で解体した後の死骸を、教授が熱心に調べていた。獣医村上に命じて腹を大きく切り開き内蔵を調べている。人間の臓器に似ているが、胃が大きく腸が短い所が異なっている。
「血の匂いで他の魔物が集まるから、急いで離れましょう」
俺の声で、三人の依頼人が不安そうに周りを見る。近くの藪がガサッと鳴るとビクリと驚き、顔色を変える。タフガイ菊池も例外ではなかった。峰教授はもう少しゴブリンを調べたそうにしていたが、他の二人に促されて目的地の沼に向けて歩き始めた。
俺は鉈に付いた血糊を拭き取りながら、タフガイ菊池の様子を見る。初めての実戦は相当堪えたようで、まだ血糊の付いた槍を見ながら考え込んでいる。
「おい、こいつで汚れを落とせ。武器は小まめに手入れをするもんだ」
俺は椰子に似た木の樹皮を渡した。この世界では紙や布は貴重品なのだ。時代劇みたいに紙で血糊を拭いて捨てるなんて事をしていたら破産してしまう。
因みにトイレットペーパーは、当然の如くないので『ソド』と呼ばれる草の葉で代用している。ゴワゴワした葉だが、使用には問題ない。但し、この世界には痔の患者は多いだろうと推測している。
目的の沼に到着するまで、三回ゴブリンの襲撃が有った。幸いにも少数のゴブリン集団だけだったので、俺とタフガイ菊池だけで撃退できた。これが五匹以上の団体だったら、魔法なしで依頼人を守れたか自信がない。だから、ここには来たくなかったんだ。
JTGの研究所で、魔法が使えるようになった帰還者をモルモット同然にして研究していると言う噂がある。もちろん嘘だと思うのだが、危険を犯したくない。……日本政府がそこまでやるとは思えないが、アメリカや中国は実行していそうだ。
陽が傾きかけた頃、沼に到着した。薄暗く周囲の様子は、よく見えなかった。ポチャッ、ポチャッという水音とカエルの鳴き声のような音が響いていた。ウワーッ……何か出そうな雰囲気だな。
「その魔物は、ここに居るのか?」
タフガイ菊池が疲れた顔で訊ねた。俺は首を縦に振り肯定する。峰教授と獣医村上は今にも倒れそうな顔色をしている。限界が近いらしい。
「急いで野営の準備をします。先ほど通った空き地に戻りましょう」
峰教授が理解できないという顔をした。
「野営なら、此処ですればいいだろ」
「夜間の水場には、魔物が集まり易いので危険です。戻りましょう」
ブツブツ言いながら、依頼人たちが歩き始める。俺は薪にする為の枯れ木を拾いながら進む。五分ほどで到着し野営の準備に入る。まずは、火を起こし虫除け草を放り込む。この虫除け草から出る臭いは、通常の虫はもちろん虫型の魔物も嫌うので、ハンターや樵には必須アイテムだ。
依頼人たちは焚き火の周りに座り込みグッタリしている。俺は食事の用意を始めた。唯一つの調理道具である小型の鍋に長粒米に似た穀物とキノコを刻んだものを入れ、塩と香辛料で味付けした。たっぷりと水を入れ火に掛ける。ハンターの定番料理である。この雑炊のようなものと干し肉が夕食だ。
「この世界にも米があるのか……しかし、この肉は何の肉だ?」
干し肉を噛りながら獣医村上が話し掛けてきた。雑炊は好評だったが、干し肉は変わった味だというのが依頼人たちの感想だった。
「えっと……その肉は槍トカゲの肉ですよ。せっかく異世界に来たんだから、ここでしか味わえないものをと考えて選びました」
……建前は大事です。本当は安いからです。市場で二番めに安いのが槍トカゲなんです。因みに一番安い肉は、長爪狼の肉ですが、独特の臭がするので、俺は嫌いです。
食事が終わると、依頼人たちは眠ってしまった。かなり疲れていたようだ。俺は火を絶やさないようにしながら見張りをしていた。日本では、この異世界をバルメイトと呼んでいる。元々は、転移門の在る大陸の名前だったのだが、現地人にとって、バルメイト大陸イコール世界というという感覚なので、そう呼ぶようになった。
俺は一人、久しぶりの異世界を身体で感じながら、夜が更けるまで焚き火を見詰めていた。
街の外で野営する場合、見張り番を交代で務めるのが普通だ。しかし、疲れきった依頼人たちには頼めそうにないので、魔道具を使う。警報陣の魔道具は周囲二〇メートル四方に魔物が侵入すれば、使用者に知らせてくれる優れものだ。俺は警報陣に魔力を注入し起動させると眠りに着いた。
翌朝、簡単な朝食を済ませてから、沼に向かう。朝日の中の沼は、どんよりしていた。何というか、沼の中から二本の足がニョッキリと突き出ているような雰囲気だった。ミステリーマニアでもある俺は、昭和初期の時代背景の中で繰り広げられる連続殺人ものというミステリー映画が好きなのだ。
もちろん、沼から突き出る足は無い。だが、魔物の気配はする。沼の奥で、ドボンという音がした。大蛙の魔物が沼に飛び込んだ音だ。全長五〇センチほどの蛙、毒を持つ種類も居るので注意が必要だ。
沼には水草が生い茂り、ゲンゴロウのような虫やイモリのような両生類が泳いでいた。水草の中には魔法薬の原料となる薬草も有ったが、採取する余裕は無いだろう。
「その魔獣は、どんな外形をしているんです?」
獣医村上は、俺が捕獲対象として提案した魔獣の詳細を聞きたがった。
「お話したように『ドロ羊』と呼ばれています。名前からも分かるように羊の一種ですが、全身が泥で覆われています」
「何故、泥まみれなのです?」
「ドロ羊は、毛穴から出る赤い分泌液と泥を混ぜて毛をコーティングします。これが乾くと鎧のように頑丈になり通常の剣などでは倒せなくなる。厄介な魔物の一種なんです」
峰教授が目を輝かせた。
「興味深いわね。その分泌液というのも研究する価値が有りそうだわ……そう思うでしょ村上君」
「もちろんです、教授。発表したらゴブリン以上の騒ぎになりますよ」
……んん、どうだろう。三ヶ月前にゴブリン捕獲が発表された時は、日本中、いや世界中が大騒ぎした。だが、あれはファンタジーの代表的は魔物であるゴブリンだから巻き起こった騒ぎだったはずだ。魔法を使うとはいえ、マイナーな羊の魔物のでは、盛り上がりに欠けるのでは。
「それで、どうやって捕まえるんだ?」
タフガイ菊池が、当然の疑問を発した。俺も当然、方法を考えている。所詮ポーン級の魔物である。討伐なら力押しで倒せばいいのだが、捕獲となると罠を仕掛けるほかない。幸いにも森の中には丈夫な蔦が大量に見つかったので、それを利用する事にする。
「ドロ羊は複数の餌場を転々と移動しながら、水草を食べる習慣があります。その移動ルートで待ち伏せし、石でも投げて怒らせて、罠に誘い込みます」
獣医村上が首を傾げた。何か腑に落ちない点があるようだ。
「直接、その移動ルートに罠を仕掛ける訳にはいかないのかい?」
「魔物は皆さんが考えているより頭が良いんですよ。罠を見破る可能性が高いので、興奮させた状態で罠まで誘う作戦なんです」
興味を引いたのか、峰教授が近寄って来た。それから質問タイムだった。俺が知っている限りの情報を搾り取っていった。まあ、ドロ羊に関する情報は、それほど多くはないんだが……。教授が興味を持っているドロ羊の魔法は、精神攻撃系のもので幻影を創り出す能力のようだ。
ハンターギルドの資料室から得た知識なのだが、攻撃時に『分身の術』みたいに複数の分身を見せ、敵が驚いた隙に頭突きを当てる。非常に厄介な魔物だ。また、ドロ羊は群れで生活し、餌場の移動も群れで行う。その群れにはリーダーがいて、リーダーが攻撃されると総出で反撃する事が知られている。
「よって、群れのリーダーだけには手を出してはいけない」
俺はそう言ってドロ羊の説明を締め括った。
俺一人は草叢に隠れて獣道を見張っていた。道には泥が落ちており、ドロ羊が頻繁に通っている形跡が有った。三〇分ほど経過した。……来た! 八匹ほどの群れが『べぇべぇ』鳴きながら近づいて来る。声が低い、下腹に響くような声で鳴くドロ羊は、アモン角と呼ばれる渦巻状の黒い角を持ち、見慣れた羊より一回り大きいように見える。もちろん特徴である毛には泥がコーティングされている。
俺から少し離れた場所をドロ羊の群れが通る。先頭にリーダーらしい雄羊が居た。他のドロ羊より一回り大きく二本の角が奇妙な角度で曲がり額の前で交差していた。
……ウヒャー あんなので突かれたら即死だな。
俺が狙っているのは、リーダーから一番離れている群れの最後尾にいる小柄なドロ羊だった。狙うドロ羊が、眼前を通り過ぎた瞬間、持っていた石を投げた。狙い過たず、石はドロ羊の尻に減り込んだ。ただ、この石に殺傷力は無い。ドロ羊は立ち止まり、石を投げた俺を見る。ただの羊なら逃げただろう。だが魔物は違う。怒気を孕んだ視線を俺に向け、方向転換して突撃して来る。
『ブベェー』
凄まじい勢いで向かって来るのを確認した俺は、罠の方に逃げる。罠までの距離は五〇メートルほど、全力疾走すれば数秒で到着する距離だ。腰まである草を掻き分けながら走る俺。後ろには同じように草を掻き分け追って来るドロ羊の気配を感じる。
俺の視線の先に交差した二本の枝が地面に突き立っていた。罠の目印だ。俺は罠を飛び越え振り向いた。すぐそこにドロ羊の姿が有った。ドロ羊は極度の興奮状態で俺目掛けて突っ込んで来る。
「馬鹿め、人間様を舐めるな!」
ドロ羊が罠に踏み込んだ。その体重で罠のストッパーがハズレ、近くに生えていた木の枝の反発力を利用した罠が作動する。頑丈な蔦で作っいた輪っかがドロ羊の前足二本を捉え、空中へと釣り上げた。
『メヘェーメヘェー』
ドロ羊の泣き声のような声が響き渡る。俺はガッツポーズを取り作戦の成功を喜ぶ。近くに隠れて見守っていた教授たちが出て来て声を掛ける。
「よくやったわ!」「やったな。大したもんだ」
峰教授や獣医村上の褒め言葉に、俺は調子に乗ってしまい周囲の警戒が疎かになっていた。
『ヴべェーーーー』
罠に掛かったドロ羊の声ではなかった。その怒りに満ちた鳴き声は、俺をゾクリとさせるほどの力を含んでいた。急いで周囲を見回すと十五メートルほど先に群れのリーダーが角をブンブン振り回しながら怒っていた。
「やべぇ!」
「自分に任せろ!」
タフガイ菊池が力強く叫ぶ。俺は止めようとしたが間に合わなかった。
ゴブリンとの戦闘で少し自信が着いたのだろうか、タフガイ菊池がゴブリンから奪ったナイフを投擲した。ナイフはドロ羊リーダーの額に飛び『カーン』と角に弾かれた。
『ヴべェーーヴべェーヴべェーーー』
やっちまった。リーダーへの攻撃はダメだと言っておいたのに。俺は嫌な鳴き声を上げるドロ羊リーダーの背後を見た。ドロ羊の群れがこちらへ近づいて来る。
「峰教授と村上さんは、木に登って!」
俺は罠に利用した木を指差した。樹齢五〇年ほどの大きな樫モドキの木だった。教授たちは俺の指示に従った。
「ちょっと大丈夫なの?……羊の数が増えてるわよ」
教授たちが登った木を囲むように、ドロ羊が集まっていた。その数二〇匹以上。全部で八匹しか居なかったはずだ。この中の半分以上はドロ羊の魔法で作られた分身だろう。
「教授、ドロ羊の魔法ですよ」
「馬鹿な……はっきり見えてるじゃない」
教授はドロ羊の幻影を蜃気楼のように見えると思っていたようだ。ドロ羊たちが攻撃を開始した。
『ヴべェー』『ヴべェー』『ヴべェー』
俺とタフガイ菊池に向かって突撃して来る。一匹目、二匹目を避け三匹目を躱しざま、その首筋に鉈を振り下ろした。普通の剣ならコーティングされた毛で弾かれていただろうが、ワイバーンの爪は首に食い込み頸動脈を断ち切った。同時に一匹目、二匹目のドロ羊が煙のように消えた。
タフガイ菊池の方は、最初に突撃して来たドロ羊に槍を突き立てようとして空振った。
「ワッ! 幻影か」
バランスを崩した菊池は、次のドロ羊に撥ね飛ばされた。二メートルほど飛びゴロゴロと転がる。気絶したようだ。
(何がタフガイだ。簡単にやられちまって……これじゃあ、俺にドロ羊の攻撃が集中しちまうだろうが!)
その怒りの声は、俺の心の中だけで響き渡った。
予想通り、ドロ羊は俺一人を攻撃対象に定めた。それでも、まだ俺には余裕があった。一撃で敵を倒せる武器が俺の手の中にあるからだ。あらゆる方向から突撃して来るドロ羊をステップで躱し、飛び越え、いなしながら、俺の竜爪鉈が煌めいた。
『メヒッ!』
ドロ羊の首から血が吹き出す度に魔法で作り出された幻影が消え、囲むドロ羊の姿が激減した。俺は本物のドロ羊を見分ける手掛かりを得ていたのだ。一〇分後、ドロ羊リーダーだけが残った。
ドロ羊リーダーは怒り狂っていた。俺の周りを駆け巡りながら、幻影を突進させ混乱させようとする。立て続けに体当りしてくるドロ羊を体捌きだけで躱すのには無理があった。幻影だけであったら無視できるのだが、中には実体のドロ羊もあり油断できない。リーダーの幻影は四体で他のドロ羊幻影とは存在感が違った。他の奴の幻影は影が無かったり、走ってくるのに足音が無かったりするのだが、リーダーの幻影は影付き足音付きだった。
「クソッ! 見分けがつかない」
ついに躱し損ねてドロ羊の角で右太腿を抉られる。鎧で守られていない部分を狙われたのだ。完全に俺の油断だ。太腿から血が溢れる。
「グハッ!」
『ヴべェーーー』
俺の血を見たドロ羊リーダーが雄叫びを上げる。左手で太腿を押さえると指の間から血が滴り落ちた。それほど深い傷ではなかったが、めちゃくちゃ痛い。切り札の魔法を使うかどうしょうかと迷ったが、俺が魔法を使えるのは知られたくなかった。知られると研究所の奴らが血眼になって検査しようとするからだ。……もう、血を抜かれたりカメラで体の中を撮影されるのは御免だ。
俺は必死で目を凝らしドロ羊を観察する。
「オッ!」
ラッキーだぜ。俺の返り血がドロ羊の毛に付いていた。これで見分けが付く。五匹のドロ羊が俺を囲み止めを刺そうとしていた。同時攻撃を仕掛けるつもりらしい。竜爪鉈を握り締め最後の時を待つ。
次の瞬間、一斉にドロ羊が突撃する。俺は本物を睨み付け、ギリギリまで引き付けてから片足で飛び上がって凶悪な角を躱し、空中で一回転しながらドロ羊リーダーの首に竜爪鉈を叩き込んだ。ズシッという手応えがあり血が吹き出しドロ羊がよろめいて倒れた。幻影が消え勝利したのを確信した。
「痛ぇー、治療しなきゃ」
木に登っていた教授たちが降りて来て治療を手伝ってくれた。水筒の水で傷口を洗い、背負い袋から取り出した傷薬を塗る。麻痺効果もある傷薬なので痛みが引いてゆく。次に下級魔法薬を取り出し、少し躊躇ってから飲んだ。【治癒系魔法薬】……通常ポーションと呼ばれるものだが、下級のものでも一壜で銀貨一枚はする。自然治癒力を高める魔法薬の効果は素晴らしく出血が止まり傷口が塞がり始めた。
その効き目に、峰教授が驚いた。
「こ、これが魔法薬の効果なの、凄いわ」
獣医村上はタフガイ菊池の様子を見ていたが、気絶しているだけで大した怪我ではないらしい。
「オッ、何かうなされているぞ」
『嫌だ……羊がイジメるよ。……お母ちゃん』
「ブッ……」俺は大笑いして傷口が開いしてしまった。教授たちも苦笑いしていた。
俺は完全に傷口が塞がるまで三〇分ほど横になっていた。それから起き上がり、ドロ羊の剥ぎ取りを開始した。ドロ羊の金になる部位は、角と毛皮と魔晶管だ。肉は食材として売れるが、町まで運べないだろう。角は薬の材料にもなるので一匹分で銅貨二〇枚ほど、毛皮は銅貨一〇枚、魔晶管は銅貨五枚、ドロ羊一匹を倒せば銅貨三五枚になる。
一番最後にドロ羊リーダーの魔晶管を剥ぎ取っている時、妙な手応えを感じた。
「こいつはもしかすると……」
俺は嬉しい予感を覚え、魔晶管から揉み出すようにして黒い結晶を取り出した。直径八ミリほどの黒水晶のような球体だった。
「んふふふ……小さいけど魔晶玉だ」
魔晶玉は長生きした魔物から採れる宝玉だ。魔道具の素材となる魔晶玉は、これくらいの小さなものでも金貨一枚以上で確実に換金できる。金貨一枚というと平均的職人の一ヶ月分の収入に等しいから今回の仕事は黒字決定だ。
魔法薬のお陰で太腿の傷は治った。少し引きつるような感覚があるが大丈夫。
タフガイ菊池が歩けるようになってから、転移門へ向け出発した。捕獲したドロ羊は睡眠薬で眠らせ、俺と菊池で担いで運ぶ。戦利品の剥ぎ取り部位は獣医村上に頼んだ。峰教授には、ドロ羊リーダーの肉の一部を担いでもらった。今夜の夕食用だ。
途中、ゴブリンの襲撃が二回あったが難なく切り抜けた。転移門に到着したのは、三日目の夕方だった。真っ赤な夕陽が樹海の海に沈み、夜行性の魔物や獣が活動を始める。
ここの転移門が起動するタイミングは、月の運行が関係している事が分かっていた。バルメイトには二つの月戦女神スリカメリが司る大月『スカル』と幻影神マセルトウリが司る小月『マリ』が存在する。この二つの月が天中で重なる時、転移門が起動し地球との時空を繋ぐ。
異世界バルメイトにも天文学があり、特に月の運行に関する研究は古くから始められ、大月『スカル』と小月『マリ』が重なる日時の計算方法は、学者の間では常識となっていた。一応俺も計算できる。必死で勉強したんだ。電卓もパソコンも無い世界で難しい計算をするのは大変なんだ。
俺の計算が正しいなら今夜の十一時二十四分から転移門が起動する。これを逃すと九日後になるので間に合ってホッとしている。
異世界最後の晩餐は、ドロ羊肉の串焼きだった。肉を細切りにし塩と香辛料を塗して焼いただけの簡単な料理だったが、非常に美味かった。教授たちも満足してくれたようだ。
捕獲したドロ羊は、まだ眠っていた。そのまま日本に移送した方がいいと教授たちと相談した結果だった。洞窟に入った俺たちは、静かに時を待っている。
「鬼島君、今回は有難う。君のお陰で研究対象を捕獲でき、研究を進められる」
峰教授が初めて俺の名前を呼んでくれた。今まで案内人さんとだけしか呼ばなかったのに。
「仕事ですから当然です」
ちょっと謙遜してみました。折角いい感じで終わりそうだと思ったのに、菊池がぶち壊すような事を言い出した。
「峰教授、こんな小僧に礼なんて言う必要はないですよ。あんな羊一匹捕まえるのに、大怪我するような奴なんですよ。もう少し優秀な案内人がいたら、こんな苦労せずに済んだんだ」
タフガイ菊池には嫌われたようだ。ドロ羊の体当たりで気絶した事が不機嫌の原因だろう。日本では荒事の専門家として高いプライドを持ち、それなりの実績を積んで来たのだ。それなのに、無様な姿を見られ、それを笑われたのが決定的だったらしい。
時間が来た。二つの月が重なり、転移門が光を放ち始める。服や装備は回収し洞窟の奥に隠した。来た時と同じ下着姿で俺たちは転移門の周囲に立っている。一つだけ違うのは俺と菊池の間にいるドロ羊。
大気が震え耳鳴りを覚えた瞬間、俺たちは転移門に吸い込まれた。
帰国直後に検査とか報告とかを済ませ、翌日の夕方解放された。そして、三日後、峰教授がドロ羊の捕獲を発表した。一応トップニュースとしてテレビや新聞で報道されたが、予想通り、ゴブリンほどの騒ぎにはならなかった。峰教授は、それが不満だったらしいが、ドロ羊の赤い分泌液は未発見の高分子だったらしく、多くの企業から共同研究の依頼が来て、今では大喜びしている。
今回の依頼は、ちょっと危なかった。ハゲボスに魔法が使える事を打ち明けるべきだろうか。……でも、研究者という奴らの視線に危ないものを感じていた俺は、なおも躊躇う。
俺は普通の日本人としての生活に戻った。次に転移門が起動するのは、五日後だ。どんな依頼人が待っているのかは分からないが、しっかり稼ぐつもりだ。
2016/11/19 誤字修正