ふたりぼっちの夜
ふと思いついた話です。一晩クオリティです。なので、文章は荒れていますが悪しからず‥‥。ボーイズラブタグは念のためです。そのような描写はありませんしそれを意識して書いたわけでもありません!のですが、苦手な方は読まない方がよいかと‥。
真っ黒な世界に独りだけになった。
俺は白をつかみ損ねたんだ。
伸ばした手は虚しく虚空を掠める。何も掴むには至らない。
独りぼっちの手を握り締めた。
かつてその手を掴んだ者は、そういえばいつも笑っていた。
君と過ごした最期の夜も。
*****
「これっ!透!そろそろ起きないと遅刻しますよっ!」
「う‥‥ん?」
激しく体を揺さぶられて目を開いた。
「あれ‥‥‥夢、か?」
なんだかとても‥よく解らないが、とても大切な夢だった気がする。俺の中で大事にされている記憶のような、なんというか‥‥いや、思い出せない。まぁ所詮、夢は夢か。予知夢とか、そんな類のものだったのかもしれない。
「‥‥‥こらっ、透!なにぼーっとしてんのさ!さっさと支度しんさいな!」
「あー、はいはいわかったよ」
ばぁちゃんに尻をたたかれながら起き上がる。
深瀬透。高校生。
両親は俺が小さいときに訳あって死んだ。
今は俺を引き取ってずっと育ててくれてるばぁちゃんとじぃちゃんだけが家族。
今の生活に不満はない。
「‥不満なんて、持っちゃいけない。」
─今のは聞かなかったことにしといてほしい。
俺だってもう高校生だ。考えることはいろいろあるのだ。うん。
「んじゃ、行ってきます」
「おんやぁ!?もういくのかぇ!?」
「おーおー元気にな、怪我はせんようにな!」
ばぁちゃんとじぃちゃんに見送られ、家を飛び出す。
流石に今日は寝過ぎた。バスはもう行ってしまったみたいだ。
よって、自転車だ。
勢いまかせに跨がり、勢いまかせにペダルをこぐ。
危ない運転だが、普段からこの道に車が通ることは滅多にない。
─はずだった。
曲がり角で一瞬見えたのは、引っ越しのトラック。
次の瞬間には、経験したことのない衝撃と、「ぐぇっ」とエンストをおこす自分の声。
‥‥そういえば、お隣さん引っ越すんだっけなぁ‥‥
遠のいていく意識の中で、ぼんやりとそんな事を思った。
突飛なことだ。
あまりにも唐突なこの事件が、俺の“はじまり”だったのだ。
*****
「んっ‥‥‥‥ん?」
目を覚ましたら、病室にいた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
一瞬頭が混乱して記憶がごちゃごちゃになったので、取り敢えずもう一度目を閉じて冷静になる。
「‥‥よし」
思い出した。轢かれたんだ、俺。トラックに。
「痛っ‥‥」
思い出した途端、体の至る所が熱を持ち出した。本当に轢かれたんだな、俺。
轢かれた、となると真っ先に考えるのは、ばぁちゃんとじぃちゃんのことだ。
きっと今頃心配してる。入院となると迷惑もかかる。
申し訳なくて泣きたくなった。
もう俺、誰にも迷惑なんてかけたくないのに。
「弱いな‥‥俺‥‥」
溜め息を漏らす。
俺がこんなんだから母さんと父さんは─
「ッ!?」
突然手が何かに包み込まれた。
目を開くと、人がいた。
「‥‥ぅおえっ!?え、ちょ、えぇっ!?」
男だ。若い。しかも手を握られていた。
唐突すぎる訳の分からない状況に、異様に動揺する。いや当たり前だよな?
落ち着けよ、俺。
青年は俺と同じくらいの年だろうか。不審者とかではない‥よな?
‥やけに綺麗な男だ。整った顔をしてる。ぱっと見男なのか女なのか判断し辛い。
そんな青年が俺の手を握り締め、じっと見つめてくる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
何を考えているのか読み取れない、常闇の瞳だ。
「‥‥‥‥あのー‥‥」
「寂しいんだね」
「‥‥え」
小さいけども、やけに耳に残る声だった。
「また、来るからね。」
青年はそれだけ言うと、足音も立てずに病室から出て行った。
ばぁちゃんとじぃちゃんが病室に入ってきたのはその直後だった。
「透‥!あんた大丈夫なんかいね!?痛いところはないかい!?」
「え‥‥あ、あぁ‥‥大丈夫‥」
さっきの変な奴のせいで、全然大丈夫じゃないような返事をしてしまった。反省。
「いや、俺馬鹿だよなぁ!高校生にもなって事故るとかさ!はは、でもほんと大丈夫だから!心配いらないから、」
身振り手振りで笑顔をみせ、元気アピール。
実際は手とか動かす度に激痛。
これ、大丈夫なのかよと不安。
すぐに笑顔を絶やしてしまった。
「透‥?本当に痛いとことかないかい?」
結局、余計に心配かけた。
「ほんと、大丈夫、大丈夫!‥一晩ゆっくり寝たら治るって!ね、心配いらないから!」
ばぁちゃんとじぃちゃんが帰ってから、独りで泣いてしまった。
迷惑をかけることしかできないんだな、俺。
今までも沢山迷惑かけてるのに。もうこれ以上かけたくないのに。
─体が痛い。
轢かれる寸前の映像がフラッシュバックする。怖い。
思考が恐怖に飲み込まれる。
外はもう夜になっていた。
暗いのは怖い。怖いしかない、今俺は何を考えても恐怖に繋がってしまう。
震える手を握り締める。
「‥誰だったんだよ、あれ」
青年の、やけに冷たく、だけど安心して落ち着く手を思いだした。
そういえば、外の闇はあの青年の瞳の色に似ているな。
そう思うと少し恐怖が薄れたのが不思議だ。
「幽霊、だったのかな」
また、来るからって。俺がもうすぐ死ぬから迎えにくる、とかかな。
事故にはあったけど、今は意識がはっきりしてるのに、これから死ぬとかあるのか?
何にせよ死ぬならもう誰にも迷惑かけずにすむかな。
─コンコン
ノックの音。先生かな。
「‥‥はい、どうぞ?」
「お邪魔します」
入ってきたのは例の青年だった。
「なっ‥‥お前、勝手に入ってくるな!」
「ごめんね、でも君が入っていいって言ったんじゃないか」
「そう、だけど‥‥‥」
青年は俺の足元に腰掛けた。
キシリ、とベッドが軋む。
「‥‥あれ、お前もここの患者なのか?」
青年は俺と同じ、病院服を着ていた。気がつかなかったけど、よく見ると肌も白いし、服から覗く腕や体も細い。
「そうだよ。同じ年代の患者があまり居なくてさ。つい嬉しくなってしまって。」
言いながら、少し悲しそうに微笑んだ。
「なんだ、そうだったのか。いや、びっくりしたんだぞ。突然現れてさ。」
「僕も驚いたよ。君が独りで泣いてたんだから。」
‥‥え?
「泣いてたのか、俺?」
「うん。とても辛そうにね。」
うわ‥最悪だ。格好悪いとこ見られてたんだな。しかも、辛そうとか。
「‥‥てか、俺がなにしてようがお前に関係なくね?なんで他人が泣いてたってだけで部屋にまで入ってくるんだよ」
泣いていたことへの負い目から、自然と口調がとげとげしくなってしまう。
「だって、解ったから‥独りぼっちの辛さは、理解してるつもりだからさ。」
青年はどこか申し訳なさそうに視線を落とした。
その瞬間、青年がゆらりと揺らいで、そのまま消えてしまうような、底知れない不安におそわれた。
何でなんだろう。
この青年といると、調子が狂う。
「‥‥お前、独りぼっちなのか?」
沈黙が怖くて、話を続けさせる。
青年は目を伏せたまま微笑んだ。
「僕のことはどうだっていいだろう。」
長い睫毛は微かに震えている。
─闇だ。
この青年は、何か闇を抱えている。心に引っ掛かった過去があるんだ。直感だが、確信を持った。
「う‥‥どっこいしょ」
軋む体を何とか起きあがらせる。これだけ動けるんだ。軽症だろうから起きあがるくらい平気だろ。
「あっ、駄目だまだ動いたらっ、」
俺の体を支えようと伸ばされた青年の手を掴んだ。
予想外の細さと手の震えに、思わず青年の肩を抱き寄せる。
「‥‥寂しいのは、お前だろ。」
だから俺のところに来たんだろう。同じく独りぼっちの俺のところに。
通じ合った何かがあったんだ。
「似たもの同士なのかな、俺たち。」
「‥‥‥‥‥」
青年は何も言わずに俺の肩に額を預けた。手の震えは、心なしか治まっているように思える。
「そういえば、お前、名前なんていうんだ?俺は深瀬透。透って呼んでよ。」
「‥‥樹。名字は嫌いだから言わない‥‥じゃ、駄目かな。」
そう言う声は少しだけ震えていて、その存在があまりにも儚いものに思えた。
樹、か。
樹は、なにを抱えてる?どうしてそんなに揺れてるんだ。
蝋燭の炎よりも、マッチの煙よりも弱い火だ。その火が消えてしまわないように、俺は出来るのか?
俺達の出会いは、この日。
樹はこの日から毎晩一時頃に俺の部屋に来るようになった。
昼間のうちに二人とも寝ておいて、夜中に先生にバレないように会うのだ。
毎日夜通し話した。
樹。樹。樹。
名前を呼んでやると、あいつはぱぁっと笑顔になるんだ。人懐こい笑顔で、とおるって、俺の名前を呼び返すんだ。
俺は樹のことを、大人びた奴だと思っていたけど、そうでもないんだな。
笑顔はまだあどけないし、遊ぼうってトランプを持ってくることもある。
そう、樹は笑ってくれるんだ。俺といて、ほんとに心から楽しそうにしてくれる。
気がつけば、樹の笑顔に俺は救われていたんだ。
だけど。そんな風に笑える樹が何を抱えているのか、俺は知れないでいた。
とある日の夜中。いつも通り一時に樹は俺の部屋に来た。いつもと違ったのは、樹が枕を抱えてきたことだ。
「‥‥‥とおる、あのさ、今日はここで寝てもいいかな。」
おずおずと尋ねてくる。
断る理由なんてなかった。
「いいよ。‥けど、突然どうした?」
聞かない方がよかったかな。そんなことが頭をよぎったけど、俺は樹のことを何も知らないんだ。少しくらい知りたいと思ってもいいだろう。‥でも、
「言いたくなかったら言わなくていいんだけど‥‥」
「いや、特に理由はない、よ。」
「あ、そうなんだ。」
「‥‥とおる、いつ退院できそう?」
本題はそれか。
「退院かー。骨折してた骨とかくっついてきてるみたいだから、近々できるって先生に言われたけど。」
「近々‥‥そっか。よかったね。よかった。」
ぎゅうっ。
樹の手が布団を握り締めた。
樹を見てて解ったこと。
嘘をつくときに、手を握り締める癖があるんだ。
俺ともう会えなくなる、なんて無駄な心配でもしてるんだろう。
意外と、基本的に子供っぽいんだよな、樹って。
「布団、入れよ。寒いだろ。」
「あ‥ありがとう。」
もぞもぞと俺の隣に潜り込んでくる。樹は細いから、すっぽりと収まった。
「樹はまだ退院出来そうにないのか?」
「‥‥‥‥‥うん。」
「そっか‥‥。でもま、会いに来るからさ、」
「死ぬんだ。」
「‥‥‥‥‥え?」
「治らない病気みたいでね、近々死ぬんだ、僕。」
─死ぬ?
「‥ごめんね、君にそんなこと言っても仕方ないのに。‥‥でも、どうしてもとおるには覚えていて欲しかったんだ。」
─僕が生きていた事実を。
「‥‥‥樹。」
樹。俺‥‥おまえが居なくなるなんて嫌だよ。
おまえといたから俺は、独りぼっちにならなかった。
嫌だよ。
「とおる、あのね‥‥僕ね、5歳のときからずっと病気なんだ。だから友達なんていないし‥‥家族とも全然会ってない。お父さんはお酒ばっかり飲んでて、お母さんは一人で働き詰めで。」
話をする樹はとても苦しそうで。
樹は本当の独りぼっちだったのかもしれない。肯定は、したらいけない気がした。したら、樹が消えて居なくなってしまう気がした。
「‥僕が家族を壊してしまったんだ。僕の所為でお金は沢山かかるし。正直、皆から生きていることを疎ましく思われてるんだと思う。」
少しでも楽になってほしい一心で、布団のなかで、樹の体を抱き締めた。
「そんな僕を受け入れてくれたのは、君だけだったから。」
樹は泣いていた。
「とおる、名前を呼んで‥」
「‥‥‥樹。樹。」
俺は必死に名前を呼んだ。
笑ってくれ、樹。いつもみたいに。あどけない笑顔で、死ぬなんて嘘だよって‥‥。
─情けないな。
樹はこんなにも俺を信じて、縋ってくれているじゃないか。
「大丈夫だよ、樹。忘れないよ、絶対忘れない。お前のこと。だって俺、樹のこと大好きだからさ。」
樹の大きな瞳から流れる涙をすくってやる。
「とおる‥‥‥嬉しいよ、そんなこと言われたの、本当にはじめてでっ‥‥‥」
俺の胸に額を押し付けて咽び泣く。その髪を撫でてやる。
樹は確かに俺に縋っていた。俺のことを迷惑だと思うでもなく。
「とおる。」
「ん、どうした?」
「とおる、大好き。」
樹は、涙を流しながら微笑んだ。 それは、今まで見たどんな表情よりも美しかった。
その晩は二人で眠った。
一つのベッドに二人。
兄弟にでもなったみたいで、温かくて、哀しかった。
そんなことがあった翌日。
樹は集中治療室に運び込まれた。 俺はそのことを樹の担当医から直接聞いた。
「樹の友達になってくれてありがとう。お陰で彼は幸せだったと想うんだ。」
川嶋と名乗った医師は、樹が五歳の頃から彼を診ているのだという。
「樹はね、病気のせいで学校にもあまり行けていなかったんだ。だから友達もあまり居なかった。」
「‥‥それは、樹も言ってました。あいつ、独りぼっちなのかな。」
「君が居てくれたじゃないか。それがどれだけ大きなことだったか。」
─過去形だった。
医師は、もはや過去の話をしているのだ。
樹は、もうすぐ死んでしまうのかもしれない。
本当に、もうすぐ、俺が樹の死を受け入れる準備が出来る前に。
医師もそれを悟っているのだろう。
樹が昨夜、俺と寝ようとしたのも、そのことを解っていたからなのかな。
樹は全部見えてるんだ。自分の未来が。運命が。
それは、あの細い背中に背負わせるにはあまりにも重いものではないか。
「彼の最期まで、傍に居てやってほしいんだ。」
無論だ。
俺もまた、そうなる未来を見ていたのかもしれない。
きっと始めから、そうなる運命だったのだ。
俺の“光”だった樹は、消えてしまうのだ。
─蝋燭の炎よりも、マッチの煙よりも弱い火だ。
俺に出来るのは、その火が消えてしまうのを、傍らで見届けることだけだった。
「樹に、会いに行ってもいいですか。」
「あぁ、かまわないよ。本来なら面会は遠慮してもらっているんだが‥‥もう、時間が無いようだからね。それに、これからは夜には会えないだろうから。」
「‥‥‥知ってたんですか。」
「当たり前だろう?監視カメラをなめてもらっちゃ困るね。」
「うー、監視カメラか。失念してた。」
まぁ恐らく監視カメラに写ってるのは樹だけだろうけど。
「君と出会ってから樹は楽しそうでね。嫌がってたご飯も食べるようになってるんだ。礼を言うよ。」
「俺は何もしてないけど‥‥でも、それならよかったですよ。」
「君には本当に、感謝しているんだ。樹を見つけてくれて、ありがとう。」
「‥‥‥いや、」
見つけてもらったのは俺の方だ。
あの日、樹に手を握られていたあの日。
樹と居るときの俺は、間違いなく俺でいられた。自我だ。自分を大切に出来たんだ。
「‥‥‥さぁ、そろそろ樹の所に行ってやりなさい。君のことを待っているはずだよ。」
「そうですね。‥では、失礼します。」
俺が部屋を出ようとすると、医師が小さく呟いた。
─ごめんな。
樹を救えなくてごめんな。
川嶋もまた、樹の最期を見届けることしか出来ないのだった。
それから毎日、俺は樹の部屋に行った。今までの立場が逆転したみたいだった。
樹は呼吸器をつけ、点滴を打たれ、機械の音が静寂に混ざって聞こえる、無機質な部屋に独りだった。
きっとその部屋にいるだけで不安になるのだろう。
「とおる‥‥手を握っててくれないか。」
「うん。」
「とおる‥‥そこにいる?」
「うん、いるよ。」
「とおる‥‥」
「‥‥‥うん。」
「とおる、いる?」
「ずっと傍にいる。」
樹は今まで以上に線が細くなった。体も痩せているが、精神的な面でも細くなった。
当たり前だよな。
樹は沈黙を怖がるようだから、なるべく俺が話をするようにした。
どんなことでもいいんだ。
俺の話を樹は喜んで聞いてくれた。
「俺の父さんと母さんはな、俺が五歳くらいのときに事故で死んだんだ。工事現場の近くを歩いていたら、沢山の鉄柱が降ってきて。父さんと母さんは俺を庇って死んだんだ。」
一度だけ、こんな話を樹にしてしまったことがある。
これは失敗だったなと自分で思った。
もうすぐ死んでしまう者に、死を臭わせるような話をしてはいけないのに。
しかも、俺の泣き言だ。
俺のせいで死んでしまった父さんと母さんに許されたい。
そんな俺の甘えだった。
だけど、樹は、
「やっぱり、とおるは寂しいんだね。」
ベッドから手を伸ばして、俺の髪を撫でて微笑んだ。
「人は二度死ぬんだ。一度目は、その心臓が止まったとき。二度目は、その存在を人から忘れられたとき。」
俺に言っているのか、自分に言い聞かせているのか判断できないような言い方だった。
「とおるはまだお父さんとお母さんのことをちゃんと覚えてるんだ。‥死ぬのは一度だけでいい。覚えておいて。きっとご両親も喜んでる。」
そんな風に言われたのは初めてだったんだ。
今までも何度か他人にあの話をしたことはあったけど、返ってくるのは
「ご両親のぶんまで生きなさい。」
そんな、ごくありきたりな励ましだった。
でも樹は違った。
樹は人の気持ちをその人以上に理解してくれる。
「‥‥ほんと、優しいなぁ、樹は。」
語尾が震えた。
泣き顔を見られるのは嫌だったから、樹の胸に額を押しつけた。
「お、いいね、これ。とおるが近い。」
樹が嬉しそうな声を上げる。
「とおる、もう少し、こうしててもいいかな?」
すぐ耳元で、樹の声がする。
樹の存在が近い。
そのことが嬉しいのに、涙は止まらなかった。
樹は俺が泣きやむまで、ずっと頭を撫でてくれていた。
数日後、俺は退院した。
退院してからは、学校が終わると真っ直ぐ樹のところへ行った。
「とおる。今日も来てくれたんだ。」
「当たり前だろ。」
「僕のこと、まだ覚えてくれてたんだ。」
「‥忘れるわけないだろ。」
「うん。」
毎日こんな会話を交わした。
樹は日に日に元気を無くしつつあった。
最期が、近づいていた。
ある日は、俺のPSPで一緒に遊んだ。樹はゲーム機を持っていないらしいので、とても楽しんでくれたようだ。
ある日は、樹の好きだという作家の新刊を買って、二人で読んだ。俺のお金で買った本を、樹は「とおるが買ってくれたんだ。」と、この先ずっと手放すことはなかった。
ある日は、テレビでサッカー鑑賞をした。樹はサッカー鑑賞が好きみたいだ。自分は動けないけど、試合に出ている選手達は嘘みたいに動き回っていて、それを見るのが嬉しいんだそうだ。
ある日は、二人で写真を撮った。たった一枚のツーショット。写真のなかの樹は、とても幸せそうだった。
ある日は、樹を車椅子にのせて散歩へ行った。樹はなにもいわずに景色を眺めていた。その表情は、長い前髪が邪魔をして、よく見えなかった。
ある日は、樹の要望で夜中まで樹の傍にいた。
俺がいつもの時間に帰ろうとすると、「今日はもう少し傍にいてよ。」って、俺の服の裾を掴んだ。
断る理由なんてなかった。
ベッドの傍らにあるパイプ椅子に座っていると、樹が起き上がって、俺にもたれ込んできた。
「お、おい、起き上がったりして大丈夫なのか?」
樹は俺の背中に腕を回すと、微笑みながら呟いた。
「うん。‥‥もう、大丈夫なんだ。」
俺は何も言えなかった。
樹の震える肩を抱きしめるだけだった。
明日、樹は死ぬんだろう。
「樹。今日はずっとここに居てもいいか?」
「‥‥うん。」
樹は嬉しそうに笑った。
それにつられて俺も笑った。
それから数時間後のことだ。
樹の様態が急激に悪化した。
樹が苦しそうにするのを、俺はすぐ傍で見ていた。
川嶋がやってきて樹を治療室に連れて行くまで、樹は俺の手をずっと握り締めていた。
そして、川嶋が治療室からでてきて俺を招き入れるまで、そんなに時間はかからなかった。
「とおる‥‥そこにいるか。」
樹は弱々しい声で何度も何度も俺の名前を呼んだ。
「居るよ。」
少しでも樹を安心させてやろうと、俺は樹の手を握り締めていた。
後ろでは、川嶋と、樹の両親と思しき大人がその最期を見守っていた。
「とおる、そこにいる?」
「うん。」
「僕のこと、覚えてる?」
「うん。」
樹は、今や昔からは想像がつかないほどに弱っていた。
だから、ご両親も、何も言わずにただ見ていたんだろう。
「樹。何かしてほしいこととか、ないか?」
「とおるに傍にいてほしい。」
即答だった。
「ねぇ、とおる‥この前みたいに、近くにきてよ。」
この前‥あぁ。俺が泣き顔隠そうとした時か。
樹の手が伸びてくる。その腕に体を預けた。
樹の細い胸に顔を埋めると、確かな心臓の鼓動が聞こえた。
「とおる‥僕、ね、とおるに会うために生きてたんだと、想うんだ。」
樹は涙を流していた。
「僕と居てくれて、ありがとう、とおる。とおる、そこにいる?とおるっ‥‥」
樹の頬に手を添える。
樹の体はいつも冷たいんだな。
「樹。俺、ここにいるよ。聞いて、樹。俺の中で生きて。俺、おまえのことずっと覚えてるから。」
「とおる‥‥」
くたっと、樹の体から力が抜けた。
「とおる、ありがとう‥大好き。」
樹を見ると、笑っていた。
出会ったばかりの頃のような、屈託のない笑顔だった。
その一瞬、樹はもとの元気な樹に戻っていたのだ。
「樹。俺も、大好き。」
樹の額にキスをした。樹は幸せそうに、俺の頬に触れた。
「とおる‥‥僕、少し行かないと。すぐに、帰ってくるから、待っててくれる‥‥?」
「‥‥うん。分かった。」
「ありがとう。」
─大丈夫、ずっと一緒だよ。
樹は、俺の中で永遠になった。
俺は、独りになった。
これからどうして生きていこう。
樹を失った痛みは、俺の心を壊していった。
あんな短期間で、樹は俺の全てになっていた。
独りで震えていた俺を見つけてくれた。
─寂しいんだね。
あぁ、そうだよ。だけど、お前もそうだろ、樹。
でもな、俺は今、痛いけど寂しくはないよ。
‥お前も、そうなのかな。
そうだよな。だって俺たちはもう独りぼっちなんかじゃない。
独りぼっちが二人、だ。
痛みは、克服できるよ。
寂しさは、どこかへ消えた。
─とおる、大好き。
大丈夫、覚えてる。
いつかその姿を、声を、忘れてしまうのだとしても。
俺の中に樹という光は、輝き続けるのだ。
蝋燭の炎よりも美しく、マッチの煙よりも繊細で儚い。
立派に揺れる灯火を、消さないようにするのが俺にできること。
樹の手を握った。
その手は、今日もまた冷たかった。
こんなものをここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。




