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◆◇◆
塔子の台詞どおり、あたしは相当、食い意地が張っていると自分でも思う。
おいしい食事こそが人を幸せにすると信じている。これは、忙しい母ちゃんの力になりたくて、幼稚園の頃から炊事を引き受けていたせいかもしれない。うまいうまいと笑顔で食べる母ちゃんを見るのが大好きだった。手に職を持てば食いっぱぐれる心配もないだろうし、将来は調理師さんになりたいとさえ思っている。
ご飯っていうのは、感謝とともに頂く物だ。料理してくれた人に、農家の人に、漁師さんに、牛や豚や鶏に敬意をはらうべきだ。
だから、普段のあたしなら何があってもこんな台詞を吐かない。
「――なにこれ。残飯?」
呟きは、広い食堂に思いのほか大きく響き渡った。食堂の長いテーブルに並んだ寮生たちが一斉にこちらを見る。
隣に座った塔子が、テーブルの下で思いっきり足を踏みつけてくれた。
「イッ――っ!」
「あらあら。月島さん、どうかなさった?」
「な……なんでもありません、冴木サン」
こちらを見つめる切れ長の目が、「黙って食え」と語っている。
あたしの正面に置かれたお皿の上に盛られているのは、白くてぶよぶよしたカタマリと、それが緑色になっただけの別のカタマリ。干からびたこげ茶色のピカタが申し訳程度に添えられている。
このカタマリは――たぶんだけど、マッシュポテトだろう。緑色なのは、ほうれん草を練り込んであるからだ。なんだか嫌な色の汁がしみだしていて、ピカタをべちゃべちゃ濡らしているが、おそらく、きっと、八割がた、マッシュポテトに違いない。
ま、まあ、アレだ。食べもせず見た目だけで文句を言うのは公平じゃないよね。
スプーンを手に取り、一口食べてみる。
「うっ」
周りを見渡してみる。誰もが、なんてことのない顔で食事をしている。吐き出してる奴なんて一人もいない。
あれ?
ひょっとしてあたしのお皿のだけ変なのか? ああ、それじゃコックさんに知らせないとね。あたしのお皿のマッシュポテト、腐ってますよって――。
「ちなみに」
立ち上がりかけた所で、塔子が釘を刺した。
「本校は清貧、博愛、貞潔をむねとします。清貧の中には粗食も含まれているのは当然ご存知ですよね、月島さん」
「……ハイ、冴木サン」
初めて出来た友達に恐ろしい目でにらまれては、黙るしかないじゃないか。
うう、それにしてもなんつー味だ。一口ごとに、舌の上に絶望が広がる。マッシュポテト本来のクリーミーさや優しい食感は皆無。牛乳を拭いたぞうきんを食ったらこんな味がするに違いない。ジャガイモと牛と農家の人に謝ってほしい。
ふと目を上げると、長テーブルを挟んで向かいに座った子がスプーンも持たずにじっと自分の皿を見下ろしていた。まだ幼さの残る丸い頬。きっと、この春入学したばかりの一年生だろう。ラファエロの天使みたいな巻き毛をショートカットにした、なかなかかわいい子だ。大きな目には悲しみと困惑が広がっている。
顔を上げたその子と目があった。
きみの気持ちは痛いくらいわかるよ。みなまで言うな。
ほんの一か月前までご家庭でおいしい料理を楽しんでた身に、この暴挙はキッツイよな。
――と、いう思いを込めてうなずいておいた。
「あああああっ! もう我慢できん!」
堪忍袋の緒が切れたのは、十時を少し回った時だ。
「何度目よ。その台詞。言っとくけどあの食事はこれから卒業するまで続くんですからね。慣れないとだめよ」
勉強机に向かっている塔子はこちらを見もせず言った。
「慣れるか、あんなまずいもん!」
「その割には完食してたみたいだったけど」
「そりゃするよ。ご飯は粗末にできないからね。だけど、あれっぽっちで腹が膨れるわけないじゃん」
「栄養もカロリーもちゃんと計算されてるわ。死にゃしないわよ、食いしん坊」
塔子の嫌味も、今のあたしの耳には入らない。
「そもそも、満腹度イコール満足度じゃないんだからね! おいしくないご飯なんてただのエサ! あたしは〈ご飯〉が食べたいんだよ。餌じゃなくて! ……と、いうわけで行ってきます」
「え? 行くってどこに――」
塔子がノートから顔を引っぺがす頃には、あたしは既にビニール袋片手に玄関の鍵を開けようとしていた。
「ふっふっふ。こんなこともあろうかと準備はしておいたのだよ。食堂の電気ポットの位置は確認済みだ、明智くん」
ビニール袋をがさがさ振って見せる。中には〈特盛ゲキ旨ラーメン とんこつ味〉。
「やめなさいよ。九時以降、自分の部屋から出るのは規則違反よ。誰かに見つかったら――」
「幸運を祈っててくれたまえ!」
ドアを閉める瞬間、「初日から、やらかさないでよね……」という呆れかえった声が聞こえた。
真っ暗な食堂は静まり返っている。電気ポットのオレンジの光を確認し、あたしはほくそ笑んだ。これでやっとまともな食事にありつける。
即席ラーメンがまともかって?
あったり前だ。あの残飯に比べれば!
音をたてないように注意しながらかやくと粉末スープの袋を破り、麺の上にぶちまける。お湯を注ぐとあたりに幸せなとんこつの匂いが漂った。笑み崩れながら割り箸で蓋をする。あとは来た道を戻るだけ。
ところが、このちょっとした冒険は無事には終わらなかった。
二階から三階へ階段を上がろうとした時だ。
どこからか、かすか猫の鳴き声が聞こえた。階段のすぐわきの、洗濯室からだ。しばらく耳を澄ましてから気づいた。
違う。これ、猫の声じゃない。
人の――女の子の泣き声だ。
おいおいおいおいおいおいおい!
女のすすり泣きなんて、怪談としちゃベタすぎる!
なんて思ったのは一瞬だけ。ひょっとしたら、誰か急に体調を崩して苦しんでいるのかもしれない、という常識的な可能性に思い至ったからだ。
あたしは手に持ったラーメンと洗濯室のドアを交互に見てから、意を決して歩を進めた。
しょうがない。病人がいるかもしれないのだ。確認すらしないのは人として許されないだろう。万が一規則やぶりを見つかっても、まさかラーメンごときで退学にはならない――と、思う。
恐る恐るドアを開けた。洗濯機の前にしゃがみこんで、薄暗い蛍光灯の灯りに照らされていたのは――
「あれ、ラファエロちゃんじゃん」
夕食の時涙目になっていた、天使の巻き毛の女の子だ。真っ赤になった大きな目で、びっくりしたようにこちらを見上げている。
「なに、どしたの? 具合でも悪い?」
「も、申しわけありません!」
ラファエロちゃんはじかれるように立ち上がった。
あたしに規則違反をとがめられると思ったのだろう。怒られるのを待つように、ぎゅっと目を閉じた。目尻から新しい涙が一つ、ころりと落ちた。
「え? 何が? あたし、転校したてだからナニモワカリマセンヨー」
空っとぼけておいた。夜に一人ぼっちで泣いている女の子をいじめる趣味はない。
「それより、なんで泣いてんの? 具合が悪いなら寮母さんに言った方がいいよ」
「あの、いいえ、だ、大丈夫です。ありがとうございます」
「いやいや。大丈夫じゃないでしょ。大丈夫だったらフツー泣かないよ。同室の子とケンカでもした?」
「違うんです。その――本当に、なんでもありません」
ううん、と首をひねっていると、ラファエロちゃんが握りしめている物が目に入った。ソファに腰かけた上品そうなご婦人が映った写真。足元にはゴールデンレトリバー。ご婦人の膝には、目の前の少女が甘えるように抱きついていた。
「それ、お母さん?」
たずねると、ラファエロちゃんは慌てて写真を体の後ろに隠してしまった。
ふうん、なるほど。わかりやすいホームシックだ。
そりゃそうだよなあ。ついこないだまで小学生だったんだもんなあ。家族と引き離されて、こんな牢屋みたいな場所に閉じ込められたんじゃ、ストレスもたまるわなあ。ご飯もまずいし。
あたしがご飯のことを考えたから――というわけでもないだろうけど、ぐううううぅ、と腹が鳴った。
あたしのじゃない。
音の源は、ラファエロちゃんだ。
彼女の顔がリトマス試験紙みたいに、ぎゅうううん、と真っ赤になる。
そういえば、この子、夕食の餌――もとい、粗食にほとんど手をつけてなかったっけ。
これはいけない。
まずいご飯が万引きだとするなら、空腹は殺人に匹敵する。それくらい罪深い。
お腹がへってると、ろくなことにならない。嫌なことばかり考えてしまって、気分は落ち込む一方だ。逆に幸せな食事で腹一杯だと、少々の悩みなら「ま、いっか」で済ませられる。
「OK、わかった」
あたしは強くうなずいた。
「とんこつ味好き? ラファエロちゃん」
ラファエロちゃんのお名前は、鷲峰郁というそうだ。
驚くべきことに、郁ちゃんは即席ラーメンをご存じなかった。ためしに、
「あのさー、百円ショップって知ってる?」
と聞くと首を横に振られてしまった。
深窓の令嬢って半端じゃない。なんつーか、世界が違うね。
一膳の割り箸を二膳にする技――ようするに真ん中からぶち折るだけなんだけど――にも、えらく感心された。
それでもはふはふ食べてたから、98円の即席ラーメンはご令嬢のお口にも合ったのだろう。一つのラーメンを代わる代わる食べ、汁まで仲良く半分こした後、郁ちゃんはあたしに深々と頭を下げた。
「本当にお世話になりました。こんなにおいしい物を頂いたのは生まれて初めてです。このご親切は一生忘れません」
一生とはずいぶん大げさだ。それに、生まれて初めて、はやめてやれ。あんたんちの専属コックが泣くから。多分。
「まぁまぁ、気にしないで。あ、でもお礼代わりって言ったらアレだけど、一つだけいいかな?」
郁ちゃんは真剣そのものの表情でうなずいた。
「なんでもおっしゃってください」
「それじゃあさー。ご飯を残さないって約束してくれない?」
えっ、と郁ちゃんは気の抜けたような顔をした。構わず続ける。
「確かにここの食事はひどい。信じらんないくらいまずい。でも、あたしのルームメイトの話じゃ栄養なんかはちゃんとしてるんだって。だから、絶対食べた方がいいよ。小っちゃい子が腹ペコでぶっ倒れるなんて、見てらんないからね」
郁ちゃんとの思いがけない食事会のせいで、部屋に帰るのがずいぶん遅くなってしまった。塔子はとうに眠ったようで、二段ベッドの上段のふくらみは、規則正しく上下している。
あたしも自分の寝床にもぐり目を閉じた。
今日はなかなかいいことをした。可哀そうな女の子の胃袋を救ったのだ。
満足感に浸りつつ、眠りに入った。そのまま朝までぐっすり――
と、なるはずだったんだけど。
いきなり、叩き起こされた。寝ぼけまなこを開けると、鬼のような形相の塔子があたしを見下ろしていた。
「うるさああいっ!」
「え? ご、ごめん。あたし、いびきでもかいてた?」
「違うわよっ! は・ら・の・お・と! ぐうぐうぐうぐう、やかましいのよ! 寝らんないじゃない!」
くそう。やっぱりラーメン半分じゃ足りなかった。