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◆◇◆
母ちゃんは、ことあるごとに言っていた。
「父ちゃんと母ちゃんはね、ロミオとジュリエットだったんだよ。父ちゃんの親父が母ちゃんのこと大っ嫌いだったからさ、カケオチしたっつうわけよ。思い出すよ、あの嵐の夜、力強くあたしの手を引いてかけ出す父ちゃんの雄姿を」
父ちゃんの遺影を恋する少女の瞳で見つめて、胸の前で節くれだった指を組む母ちゃん。
あたしはもちろん、
(力任せに引っ張ったのは母ちゃんの方じゃないの)
とつっこんだりはしなかった。例え、母ちゃんのランニングと作業ズボン、安全第一ヘルメットに包まれた長身が〈エイリアン〉シリーズの女主人公そっくりだったとしても。
「だから、要。お前も覚えときな。もし母ちゃんになんかあっても、お前は一人で生きていかなきゃなんないんだ。頼りになる親戚なんてもんはいないと思いな」
そう聞いたのはつい先月だったのに。
人生ってわかんないもんだ。
「要ちゃん! お、落ち着いて、落ち着いて聞けよ! お母さんが――芽衣子さんが、仕事場で倒れたって――」
ベニヤ板のドアを蹴破るように転がり込んできたのは、下の階に住む売れないホストの兄ちゃん。同時に吹き込んできた、桜の花弁の薄紅を、妙によく覚えている。
くしくも、あの日は父ちゃんと母ちゃんの結婚記念日だった。あたしは台所で母ちゃんの好物のお好み焼きと、父ちゃんが好きだったガトーショコラを作っている所だった。
結局、あのお好み焼きとガトーショコラはどうなったんだろう。
お通夜やお葬式の間に、大家さんや兄ちゃんが片づけてくれたのかもしれない。
最後の弔問客が帰った後。
ぽつんと座り込んでいたあたしの前に現れたのは、黒塗りのベンツをあやつる運命の使者。早い話が弁護士だ。線香の煙が色濃く残る四畳半で、使者は淡々と口にした。
「あなたにはおじいさまがいらっしゃいます」
「残念ながら、半月前にお亡くなりになってしまいましたが」
「生前、あなたをずっと探しておられた」
「私はおじいさまのご遺言をお伝えしに参ったのです」
高そうな書類鞄から出された紙束に書いてある内容は、ちんぷんかんぷんだった。
唯一、〈桜冠学園〉という文字だけを目で拾えた。
事態を飲みこめないあたしに、「つまりですね」と弁護士先生は中学生にもわかる言葉で説明してくれた。
じいちゃん――つまり、父ちゃんの父ちゃんは、死ぬ間際、あたしになにやら遺してくれたらしい。けど、相続には条件があった。〈桜冠学園〉という全寮制の学校に転校し、無事卒業すること。なんでも中高一貫式の女子校なのだとか。あたしは今、中学二年生になったばかりだ。ということは、遺産を受け取るためには、丸五年、その学校に通わなくてはならない。
なんでそんな妙な条件を付けたかっていうと、どうやら母ちゃんのせいらしかった。じいちゃんは、母ちゃんのよく言えばざっくばらんでたくましい、悪く言えば粗野でガサツなところが気に入らなかったらしい。自分の血を引く孫――あたしのことだ――が、母ちゃんみたいになるのが許せなかった。だから、いわゆる〈お嬢さま学校〉で、自分の孫にふさわしい品位を持つ人間になれたら遺産を譲ろう、とそう思ったようだ。
「学費や生活費など、学園生活で必要な資金の心配はいりません。すべて遺産とは別に用意してありますので」
「でもねえ――」
母ちゃんに似てリアリストのあたしは口をとがらせた。
「じいちゃんの遺産ったって、どうせ盆栽とか、きったない掛け軸とか、ゲートボールセットとかでしょ? そんなもんもらっても……」
弁護士さんがやれやれ、と言うように微笑した。そして黙ったまま、書類の端を指差した。¥マークの横に澄まして並んでいるゼロの数は、いち、にい、さん、し、ご、ろ――
「うそっ!?」
「他にも、いくつかの貴金属等を遺されています。詳しい目録はそちらに――」
弁護士さんの言葉が耳を素通りしていく。呆然と書類を見つめたまま、あたしは思わずつぶやいた。
「じいちゃん、お金持ちなんだ……」
「ええ。あなたに遺されたのは、資産のほんの一部です。ほとんどはご子息――つまり、あなたの叔父さまがたが相続されました」
ほんの一部。これで。
目を回しそうになりつつも、頭のすみではしっかり計算が始まる。
(たしかに五年は長い。友達と離れ離れになるのもさみしい。でも、このお金があれば、〈アレ〉が買える――)
「どうなさいます? もちろん、放棄もできますが」
弁護士さんが人を化かす狐の顔で嗤った。
――こうしてあたしは、黄金週間が終わる頃、望んで牢獄の扉を開けたのだった。