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手を伸ばす
あなたに触れる
目をつぶる
夢ではないと願う
泡のように消えてしまう
世界は違う
想いは同じ
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大きなカートを押し、綺麗な空港内をロビーへと歩いていた。
周りを見渡しても、読み取れる言葉は少ない。
行き交う人々から聞こえる声も聞き慣れた母国の言葉とは違う。
少し心細くなるが、足取りは軽く、迎えに来てくれている友人が待っている到着ロビーへと急いだ。
今日から新しい時間が進み始める。
そう思うと気持ちが高鳴り、重い荷物も軽く感じられた。
"Welcome to Riko!!"
大きく文字が描かれたダンボールを降っている女性の姿が見える。
そのウェルカムボードを目指して、歩く速度を速めた。
『リコ!!』
ボードを掲げてくれていた友人が、わたしの名前を呼び、いきなり抱きしめた。
久しぶりの再会と、熱い抱擁に驚いたが、すぐに抱きしめ返し、
『안녕하세요. 만나고 싶었습니다.』
彼女の国の言葉で挨拶をした。
『リコ、本当に韓国語が上手になったわね。…発音がまだ少し下手だけど。』
彼女は笑いながらそう言うと、またわたしを強く抱きしめた。
わたしは今日から韓国で新しい生活を始めるのだ。
産まれてから日本を飛び出したことなど一度も無かった。
旅行ですら、国内から出たことはない。
『チェヨンさん、わたしの我儘に巻き込んでしまってごめんなさい。
けど、チェヨンさんが居てくれるから韓国に来れました。本当に感謝しています。』
空港へ迎えに来てくれた友人のチェヨンに、わたしは深々と頭を下げた。
彼女は、去年まで日本で働いていた。そして、わたしの家の近所に住んで居たのだ。
5年前、たまたま近所の飲み屋で知り合い、意気投合した。彼女に日本語を教える代わりに、わたしは韓国語を教わった。
チェヨンはわたしの韓国語の先生であり、飲み仲間だった。
産まれた国は違うが、彼女とは本当に仲良くなった。大人になってから出来た親友だ。
チェヨンの方が、5歳上のお姉さんだが、年齢差を感じさせず、妹のようにわたしを可愛がってくれた。
下げていた頭をあげたら、チェヨンが大きな声で笑った。
『チェヨン"さん"!?そんな風に呼んだことなかったよね。リコ…かなり緊張してるでしょ。』
大きな声で笑いながら、両手でわたしの頬を挟んだ。
『リコなら大丈夫だから。安心して新しい生活をスタートさせてよ。』
笑いながら、わたしの頬を両手で更につぶした。
『…ぞんなごどない。』
頬をつぶされたまま、チェヨンに言った。ふわっと、頬が解放された。
つぶしていた両手を頬から離し、わたしを見ているチェヨンに更に言った。
『緊張じゃなくて、これから韓国で働くなら砕けた言葉じゃ無く、丁寧な言葉づかいをしなきゃいけないでしょう。"さん"はその練習だよ。
それに、これからお世話になる人への最初の挨拶は丁寧にしておかないと。』
そう言って、チェヨンに笑いかけた。
チェヨンは、律儀なとこが日本人だね。と笑って、またわたしを抱きしめた。
実際はチェヨンの言う通りだった。わたしは凄く緊張していたのだと思う。
新しい生活のスタートには、期待と不安は切り離せない。
『リコちゃん』
チェヨンの後ろに立っていた、メガネをかけた優しい笑顔の男性がわたしの名前を呼んだ。
わたしとチェヨンの再会を見守っていてくれたのだろう、わたし達の再会が落ち着いた頃に声をかけてくれた。
『ヨンホさん』
チェヨンが抱きしめていた腕を緩めた。
自由になったわたしは、彼にも頭を深々と下げた。
チェヨンとヨンホは夫婦だ。去年、結婚をした。
日本と韓国で遠距離恋愛をしていた2人は、めでたく結婚をして、チェヨンは韓国へと帰ったのだ。
恋人時代に、チェヨンに逢うため日本に遊びに来ていた彼とお酒を一緒に飲んだり、食事をしたりと2人に混ぜてもらって遊んでいた。
ヨンホはチェヨンの1歳上で本当に優しくて、親戚のお兄さんのような存在だ。
『僕もリコちゃんに逢いたかったんだ。本当によく来たね。』
優しく微笑むとわたしの頭を撫でた。
『これからお世話になります。迷惑をかけないように頑張ります。』
わたしは2人に改めて頭を下げた。
何度も頭を下げるわたしに2人は少し困った顔をして、優しく笑った。
『そんなに気を張らなくても良いのよ。今日からわたし達は家族になるんだから。
ひとつ屋根の下で暮らすのに、そんなに肩に力が入ってる人がいたら休まるものも休まらなくなるわ。』
さっきとは違い、今度はそっとわたしの頬に触れてチェヨンが言った。
『僕らも本当に楽しみにしていたんだよ。リコちゃんとまた一緒に過ごせるんだって。
チェヨンなんて、昨日の夜から眠れなかったんだから。』
口を開けば、早くリコに逢いたいってうるさいから、これで静かになる。と、ヨンホは笑った。
今日からわたしは2人の家に居候させてもらう。
半年前に電話で、チェヨンに韓国で暮らしてみたい。と、伝えた時から一緒に暮らそうと言ってくれた。
最初は、新婚夫婦の家に住まわせてもらうなんて申し訳ないと何度も断った。
日本と同じ様に、近所に住んで、遊びに行かせてもらえれば十分だと。
しかし、チェヨンとヨンホは一緒に住もうと言い続けてくれた。
ずっと、一緒に暮らすと言わないわたしに、
『知らない国で1人暮らす寂しさは良く分かる。リコには寂しいなんて感じて欲しくない。』
電話でチェヨンがそう言った。
日本で1人暮らしをしていたチェヨンの言葉が胸に響いた。
わたしは、2人の家に居候させてもらう事に決めた。
チェヨンもヨンホも喜んでくれて、ホームステイみたいなもんだよ。固く考えなくても良いんだから。と、2人は言った。
グゥゥゥ〜…。わたしのお腹から凄い音が鳴った。
目の前に立つ2人が顔を見合わせたと思ったら、大きな声で笑った。
『2人の顔をみたら安心して、お腹減っちゃったみたい。』
わたしは真っ赤な顔をして、言い訳をした。2人の方を見れないくらいに恥ずかしく、顔を両手で覆った。
『再会のお祝いに美味しい韓国料理を食べに行こうか。』
と、笑いながらヨンホが言った。
『リコの韓国上陸祝いもしなきゃね。』
チェヨンが笑い過ぎて涙目になりながら、続けた。
『さぁ、行こう!!車は駐車場に停めてあるから。』
ヨンホが、わたしの荷物が乗ったカートを押してくれた。チェヨンはわたしの腕に自分の腕を絡ませ、彼の後を歩き出した。
引っ張られる様にわたしも2人に続いて歩き始めた。
空港の自動ドアが開き、外に出た。
日本とは違う空気を感じた。
本当に来てしまったんだと、背筋が伸びた。