訂正
フューシャが現在塒にしている見張り塔は、五百年以上も昔に建てられたもので頑丈さだけが取り柄の石造りの建物だ。
かつて戦時中に兵士の詰所として使われていたそれは、部屋数はそれなりにあるものの住宅としては武骨極まりなく、快適に暮らす上でそれなりの工夫が必要だった。
物見の為に設けられた窓は採光の面で劣る上、剥き出しの石壁が冬場になると凍りつくような冷たさを放ち、なかなかに厳しい住環境と言わざるを得なかったからだ。
ともあれ、今の『見張り塔』は家主となったフューシャの手によってあちこち改修を施され、住宅としての性能は段違いに向上している。
で、時間を遡ること少々。
夜明け前の一際深い闇を裂くようにして突如飛来した巨大な影は、七つの丘にある見張り塔の屋上に音もなく―――――とはゆかぬまでも、限りなく密やかに降り立った。
深紅の翼を折り畳み、その手に大事に抱えていた宝物を落とさぬようそっと抱え直すと、呪言ひとつ唱えるでもなく至極あっさりとヒトの姿に転じる。
「やれ、朝日が昇る前に何とか間に合うたわ。明るうなって姿を見られては五月蝿てかなわんからのー」
目撃者こそいなかったが、暗がりの中に突如として出現した大迫力の大柄な美女は、自ら光を放っているかのような圧倒的な存在感の持ち主だった。
背中を覆う燃え立つ炎のような深紅の流れは、先程までの姿を象徴する色彩。
大人の女性そのものの完璧な肢体には傾城もかくやという美貌が無造作に乗っかっている。
「よしよし、疲れたであろ。いま少し眠っておれ」
腕の中で僅かに身動いだ幼子をあやすようにポンポンと撫でる手付きは母親のものだ。
その腕に抱かれた子供の髪も親譲りの紅。
うにゃうにゃと眠たげに目を擦る幼子を抱いた深紅の美女は、勝手知ったる足取りで階下へと続く階段に向かった。
明け方と称するにはまだ早い時刻。
馴染みのある賑やかな気配が目覚まし代わりになって塔の主は目が覚めた。
けして不快なものではないが聴力に優れたハヤミミの中でも特に気配にさといフューシャにとっては、耳元で鈴を鳴らされるくらいの効果があった。
巨大な翼が風を切り、人間の耳には聞き取ることの出来ない音域の波が空中に生まれる。加えて人間で言うところの鼻歌のようなものが混じって聴こえるため、馴染み客の機嫌まで分かってしまう。
軽い足取りとともに居室の扉が開け放された時には、既にお茶の用意が出来上がっていたりする。
「今日こそは寝姿を拝んでやろうと思うておったのに、つまらん」
熱い香草茶の湯気を吹きながら、居間の長椅子にどっかり腰を落ち着けた客人はそうのたもうた。
「いらんやる気を出さんでくれ、ディア」
「そうは言うてもじゃ!たまには驚かせてみたかろう?お主はいつ来ても涼しい顔で待ち構えておるし、面白うないわ」
「毎度毎度ヒトの安眠を妨害しといてどんな言い種だ」
見かけは大人と子供ほども違いがある二人だが、実に呼吸の合ったやり取りが続いている。
精神年齢が釣り合っているといったところだろうか。
「そもそもお主が………」
くきゅるるる。
会話の途中なにやらひどく気が抜ける音が響いてフューシャはガクリと肩を落とした。
「―――――実を言えば、少しばかり空腹なのじゃが」
「……さすがに朝食の準備までは間に合わなかったな。簡単なものしか用意出来ないがいいか?」
「あの『ぱん』とかいうやつが良いな!ふかふかしてほんのり甘くて美味い 」
「メネのパンなら昨日リトが配達に来たばかりだ。あとはサラダに卵か」
「卵は落とし卵にしてくれトロトロのやつ」
「はいはい」
長年塔に通ううちにすっかり人間の食べ物にうるさくなった客人にフューシャは苦笑した。
竜種は本来食物を摂取するのとは別に《生命の糧》とも云うべき成分を大気から採り入れることができる。
他の生き物のように飢えて死ぬことはない。
この赤い竜に限って言うなら食事は完全な趣味、というか楽しみのひとつになっているようだ。
慣れない夜間飛行に疲れたのか、小さな娘は母親とフューシャのやり取りにも目を覚ます気配はなく、居間の片隅に置かれた寝台の上で夜が明けるまでぐっすりと眠り続けた。