ある男の話
彼、と言うにはまだ幼すぎた。
年齢にして5歳程度の少年だったが、落ち着いた立ち振る舞いは歳よりもずっと大人びて見える。
少年は裕福な家庭の一人っ子として生を受けた。
何不自由ない生活だと少年は思っていたが、学校に行くより先に、家庭教師に付きっきりで一日6時間勉強を教えてもらう生活をここ数年続けていた。
テレビは見たことがない。
英才教育、と言うのだろうか。
そのため少年はこの歳にして父がなかなか構ってくれない理由を『疲れているからだ』と納得することができたし、また欲しい物があってもそう簡単には買ってもらえない理由も理解できた。
そんなある日だった。
いつもと同じ時間に、いつもと同じ科目を勉強する。
隣に立つ家庭教師の女性は、教科書には書いてない細やかなポイントを教えてくれていた。
ふと、少年の近くで声がする。
囁くような声だったが、家庭教師によく似た声だ。
だが彼女ではないはずだし、父も母も仕事でいない。
不審に思った少年は、少しだけ声に集中してみる。
すると、今度ははっきり聞こえた。
『…こんなトコまで5歳に教えなくてもイイか…』
今女性が指差している一文は『数学の未解決問題』の部分だった。
確かに、小学生以下の子供に教えて分かることではない。
少年はこの声が女性の心の中の声だと理解した。
超能力がどういうものか、そして超能力者がどういうものかは少年にも分かっていた。
黙っているのが一番賢いやり方だというのも。
最初少年は、能力の自由が効かずに酷く苦労した。
寝ても覚めても雑音が頭の中でしっちゃかめっちゃかに響き渡り、体調を崩してしまうこともあった。
両親や家庭教師にバレないように必死で振舞う内に、少年は能力の強弱が調節できるようになった。
しかし少年は、ここで初めて自分の能力に幻滅することになる。
能力がコントロールできるようになったため、より人の心が詳細まで読み取れるようになったからだ。
母親は世間体と自尊心の為だけに自分に教育を施しているらしいし、父親は他に愛人と子供がいる為に自分を構ってくれないのだと知って、少年はうんざりした。
ただ、別段両親を責める気にはなれなかったが。
そんな少年を尻目に、能力は自分勝手に肥大を続ける。
彼が有名な附属学校に上がる頃には、半径数百mにいる生物の心は手に取るように理解できるようになってしまった。
能力を手にしてたった数ヶ月だったが、彼は度重なる実験のおかげで自分の能力をほぼ全て理解していた。
その甲斐あってか、彼の学校生活は概ね良好なものだった。
教師にも、両親にも、クラスメイトにも能力のことを話すことは無かった。
しかしたった一度だけ、子供っぽい好奇心の為に、彼は酷く後ろめたい思いをすることになる。
それは学年が変わり、新しいクラスメイトが彼の隣に座ることになった時の話である。
隣の生徒はベンという名前だった。
ベンはいつでも本を教室で読んでおり、誰とも会話をしようとはしなかった。
その事を不思議に思った少年は、ベンの心を一度だけ覗く。
ベンは前の学年で虐めを受けており、それが原因で軽い人間不信に陥っていたのだった。
ただ、少年の興味を引いたのはそこではなかった。
というのも、ベンには類稀なサッカーの才能があったからだった。
少年の能力は、人の才能を見抜くことができたのだ。
彼はどうしても我慢できず、ベンを半ば無理やりサッカーに誘った。
最初は怯えていたベンも、何度も少年やクラスメイトとサッカーを繰り返す内に表情が柔らかくなっていった。
勿論、ベンの才能はめきめきと頭角を露わしていった。
だが、クラスに馴染み、次第に明るくなっていくベンを見て、少年は内心穏やかではなかった。
本来ならベンは教室の角で本を読んでいるだけの子供だった。
それを続ける内に、何らかの道が彼の中で開けていくはずだったのかもしれない。
少年は、その可能性を自分が潰したのかもしれないと考えていた。
今のベンは幸せでいっぱいだ、しかしそれは自分が誘導したからに他ならない。
ベンという人間は、本人も自分にも預かり知らない部分で、自分の操り人形になってしまったのだろうか。
もしそうなら、ベンは一生人形としてしか生きられないのだろう。
そう考える度に、少年は自分の背中をさっと冷たいものが走った気がした。
ベンは少年に崇拝じみた感謝を秘めていたが、少年はそれすらもおぞましい能力による副産物として考えていた。
他人の人生を、結果はどうあれ狂わせてしまった少年は、軽はずみな行動を酷く後悔するのだった。
やがて少年は中学生になる。
新聞やテレビを見る事を許され、そういったマスメディアから『ヒーロー』『ヴィラン』といった存在を知るに至ったが、もはや誰にも情報を開示しないと決めた彼には興味の薄い事柄だった。
ただ、自己情報のコントロール権を他人に委ねてまで善性を全うするヒーローには、少しばかりの少年らしい気持ちを抱いたけれど。
中学校では以前の過ちを繰り返すまいと、少年は滅多に人の心を読まなくなった。
そのせいで以前ほど対人関係はうまくいかなくなったが、それでも人並には暮らせていた。
しかし彼はまたも失敗をしてしまう。
それは初めてのテストの終了時のことだった。
クラスメイトが口々に同じことを言っているのが聞こえる。
彼は心を読まず、聞き耳をたてるだけに留める。
『頭の中に声が』『問題の答』
皆同じようなことを口々にしていた。
少年の血の気がさっと引くのを、彼は明確に感じ取った。
テレパシーを使用していなかった反動かは定かではないが、彼のテレパシーは、知らず知らずの内に周囲に作用してしまっていたのである。
幸い彼の仕業だと分かる人間はいなかったが、少年はたっぷり一年は疑心暗鬼で過ごすことになる。
それも落ち着き、彼は逃げるように飛び級を成し遂げた。
大学には自分より歳上で、背格好の高い人間が沢山いたけれど、そのことは彼にとって些末なこと、それ以下だった。
今度こそはヘマは踏むまい、という決意と確信だけが、少年の心に満ち満ちていた。
そんなある日だった。
彼は17歳になり、とても久しぶりに両親とネオン街へ出かけていた。
彼の住む街はネオン街、スラム街、住宅街の3つの地区に別れており、そのうちのネオン街は丁度他の二つの地区を繋ぐ位置に存在していた。
と言っても、スラム街はほぼネオン街の一部であり、その規模の大きさから地区の一つとして認識されているに過ぎなかったが。
華やかなネオン街とは対象的なスラム街には、ネオン街との道を隔てる巨大な鉄格子が築かれていた。
彼とその両親は、丁度それが遠目に視認できる距離まで来ていた。
格差を形にしたような建造物を一瞥し、両親は安っぽい言葉を幾つか紡ぐ。
彼は適当に聞き流した。
幼少の時より、両親にはもう信頼を抱くことはなかったからだ。
と、その鉄格子が突然吹き飛んだ。
小規模な爆発を伴って鉄格子はひしゃげ、彼の足下のすぐ近くまで飛んで来た。
少年を含めたネオン街の人々は初め、何が起きたのか良く理解していなかった。
ただ、歪んだ鉄塊と共にネオン街へ現れた人物を見て、ようやく人々は慌てふためいた。
塵の中に鈍く光るガスマスク。
煤けた白衣を身に纏い、その男はやおら立ち上がった。
大物のヴィラン、『ドクター』と呼ばれる犯罪者だった。
ドクターは毒を創り出す能力者であり、その能力を使って数々のヒーローを苦しめてきた、言わばベテランのヴィランだった。
少年が産まれた時には既に活動を始め、この街の犯罪者はほぼドクターの傘下にある程の人物だった。
最近は全盛期程の動きもできず、能力も衰える一方だとメディアでは報道されていたが、ここにいる人間にそんなことは関係なかった。
人々は悲鳴を上げて逃げ惑うが、次に現れた人物に皆揃って足を止める。
目の覚めるような真っ青なライダースーツとヘルメット。
吹きすさぶ風と共に現れた人間は、皆が待ち望んでいた存在に違いなかった。
ヒーロー。
少年はその真っ青なヒーローの名前を知らなかったが、周りの数人が指差して喚いているあたり、少しは名の知れたヒーローなのだろう。
ヒーローはわざとらしく大きな声で喋った。
「無駄な抵抗はやめな、ドクター」
勝ち誇ったような台詞に、ドクターは憎らしげに言い返す。
「若造が。舐めるなよ」
「隠居しなジジイ」
ヒーローが言うや、ドクターがどす黒いタールのようなものを白衣の袖口から噴き出した。
飛沫を上げて噴き出すタールをきっかけに、少年と両親も慌てて駆け出した。
しかし両親はしばらくして立ち止まり、ドクターとヒーローを遠目に眺め始めた。
心を読まなくても分かる、と少年は内心で毒づいた。
ヒーローが軽く腕を振るうと、烈風が吹きすさび、タールは青いライダースーツに触れる前にあらぬ方向へ弾け飛んだ。
ドクターが歯軋りする。
ドクターの力の衰えもあったが、完全に能力の相性がヒーローに有利に働いていた。
同時に叩きつけられる風の塊に、次第にドクターは目に見えるほど弱っていった。
ドクターの無機質な面にも、苦しみの表情が浮かんでいるようだった。
ついにドクターが仰け反って吹き飛ぶ。
痩せた体は正に枯れ木のようで、風の中でくるくる舞うその姿は酷く頼りなく見えた。
とどめだと言わんばかりに、ヒーローが強烈な風をドクターへ叩きつける。
猛烈な風圧は街路樹を薙ぎ倒し、ビルの壁面を削り取り、少年のすぐそばにあった鉄格子を砲弾のように飛ばした。
ズタズタになったドクターが着地したのと、血みどろの両親が崩れかけたビルの壁面に張り付いたのはほぼ同時だった。
場所が悪かったのだろう、いや、この場合少年の立ち位置が良かったのか。
どちらにせよ、吹き飛んだ鉄格子は両親の体のみをしっかり引き裂き、軌道を変えて何処かへ飛んで行った。
少年は自分がどんな感情を抱いているか分からなかった。
何者をも看破するその能力ですら、自らの心を窺い知る事はできなかった。
ドクターはぴくりとも動かず、血みどろの両親を気にもせず民衆は歓声を上げた。
ヒーローへ称賛と感謝が降り注ぐ。
茫然としたまま、少年はちらとヒーローを見た。
歓声に応えて手を振るヒーローは少年とその両親に気づいていないようだったが、少年にははっきりと聞こえていた。
『しまった。マズい事になったな』
『でもまぁ事故だな。どうせ企業が揉み消すだろうし、ワザとやったわけじゃないし』
ヒーローの声だった。
ヴィランを退け、市民を守った正義の味方の声だった。
ライダースーツの内側には善性を全うするヒーローなどおらず、目立ちたがりの若者が踏ん反り返っていたのだった。
憎しみでもない。
悲しみでもない。
怒りでもない。
ただただ深い奈落の底へ沈むような失望感だけが、少年が辛うじて理解できる感情だった。
と、そこで少年は小さな声を聞き取った。
あらゆる思考の暴風雨のようなこの場所で聞こえるとは思えない声だったが、少年にははっきりと聞こえていた。
『…馬鹿みてぇに騒ぎやがって、くそ、体が…声もまともに出やしねぇ。誰か、誰かこっちへ来やがれ…』
身動ぎ一つとらないが、その苦しげな声はドクターのそれに違いなかった。
今この状況に対して興味を失いかけていた少年は、ぼんやりした気持ちでドクターのそれに呻きに耳を傾ける。
『誰でもいい、ガキどもに伝えてくれ…罠だ。あの臆病な市長が、俺たちを裏切りやがった…』
【ガキども?】
少年はほぼ無意識に、ドクターの脳内へ問いかけた。
ドクターが僅かに体を動かす。
『どこだ、おい?どこのどいつが俺様の頭を覗いている?』
ドクターの問いではっとした少年は、急いで黙り込んだ。
『誰だ、いや、誰でもいい!スラム街の13番通りでひたすら叫べ、ドクターは死んだ、エドワード・ローグは死んだと!』