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制服の死角

作者: ゆなの
掲載日:2026/09/22



土曜日の「フレッシュマート緑ヶ丘店」は、朝十時の開店直後からすでに戦場だった。

週末恒例の全品十パーセント引きセールに加えて、今日は年に一度の「秋の感謝祭」。青果コーナーには山のように梨と柿が積まれ、精肉コーナーでは和牛の切り落としが飛ぶように売れていく。レジには開店三十分で長い列ができていた。


高本佳子は、その一番奥、五番レジに立っていた。六十八歳。この店でレジ打ちのパートを始めてから、もう十七年になる。かつては専業主婦だったが、夫を早くに亡くしてからは、この店の仕事が生活の支えであり、同時に生きがいでもあった。


「はい、お待たせしました。ポイントカードはお持ちですか」


佳子の手は驚くほど速い。バーコードを読み取る「ピッ」という電子音が、まるで拍子を刻む太鼓のように規則正しく響く。新人の若いパートたちは、佳子の手さばきを見て「魔法みたい」と言う。だが佳子に言わせれば、魔法でも何でもない。ただ、十七年間、毎日同じ動きを繰り返してきただけのことだ。


そしてその十七年は、佳子にもうひとつの能力を与えていた。

――「人を見る目」である。


佳子はレジに立つあいだ、一日に何百人もの客の顔を見る。同じ顔を見るのは一瞬だが、それでも佳子は覚えている。いつも同じ棚の同じ商品を買う客。カゴの持ち方でその日の機嫌がわかる常連。そして、店の従業員たちのことも。


この店には現在、パートとアルバイトを合わせて四十二人が働いている。若い学生、主婦、そして佳子のような高齢者。全員の名前と顔を、佳子はほぼ正確に言い当てることができた。それは特別な記憶力というより、毎朝の朝礼で、佳子が古株として新人たちに名札を配る係をずっと任されてきたからだった。


そう、名札を配るのは、佳子の仕事のひとつだったのだ。


このことが、後に事件の真相を暴く決定的な鍵になろうとは、この時の佳子はまだ知る由もなかった。



異変が起きたのは、正午をわずかに過ぎたころだった。


「佳子さん、佳子さん、ちょっと来て!」


同僚のパート、宮下美佐子が青い顔をしてレジに駆け込んできた。美佐子は精肉コーナー担当だが、今日は品出しの応援でバックヤードに何度も出入りしていた。


「どうしたの、美佐子さん」


「栗原店長が……栗原店長が、倉庫で、倒れて……」


佳子はレジを他のスタッフに任せ、美佐子とともにバックヤードへ向かった。搬入口に近い、業務用の大型冷凍庫の手前の通路――そこに、栗原哲男店長がうつ伏せに倒れていた。


近づくまでもなく、それが「倒れている」というような生易しい状態でないことは、誰の目にも明らかだった。首の周りに、鈍い色の痣が浮かんでいる。床には、陳列用のPOPを吊るすための細い金属製のワイヤーが落ちていた。


騒ぎを聞きつけた店員たちが次々と集まり、悲鳴とざわめきが通路を満たした。副店長の遠山が震える声で「た、誰か、救急車と、警察を」と叫んだ。


栗原哲男、四十五歳。三ヶ月前にこの店に着任したばかりの、新任店長だった。



警察の到着は迅速だった。所轄の刑事たちが店を封鎖し、客を丁重に、しかし有無を言わさぬ調子で外へ誘導していく。感謝祭のにぎわいは一瞬にして、緊張と困惑に取って代わられた。


捜査の指揮を執ったのは、四十代半ばの刑事、坂本という男だった。坂本は店内を一通り見て回ったあと、露骨に苛立たしげな表情を浮かべた。


「防犯カメラは、店内に何台ある?」


副店長の遠山が答える。「え、ええと、売り場に八台、レジ周りに五台、事務所前とバックヤードの入り口に二台、それから――搬入口周辺に三台です」


「全部で十八台か。今日は感謝祭とやらで、客も多かったんだろう」


「はい、開店から千人以上は……」


「その状況で、店長は殺された。しかも防犯カメラだらけの店内で、だ」


坂本の言葉には、明らかな苛立ちがにじんでいた。事件はその日の午後には、すでに厄介な様相を呈し始めていたのである。


映像記録を確認したところ、犯行時刻と推定される午前十一時四十分から正午ごろにかけて、遺体発見現場である冷凍庫前の通路を映すカメラの映像に、深刻な問題があることが判明した。


そのカメラは、冷凍庫の扉が開閉するたびに噴き出す冷気――俗に言う「湯気」のような白い蒸気によって、レンズが頻繁に曇る位置に設置されていた。感謝祭で搬入と品出しの往復が激しかったその日、カメラは何度も曇っては晴れを繰り返しており、決定的な瞬間、十一時四十五分から十一時四十七分ごろの映像は、真っ白な靄がかかったようにしか映っていなかった。


「間の悪いことに……」坂本は舌打ちした。「犯人は、これを知っていたのか、それとも偶然か」


さらに厄介なことに、通路の前後、事務所前と搬入口のカメラには、この時間帯、驚くほど多くの人間が出入りしていた。感謝祭の応援で、この日は普段の倍近い人数のスタッフが働いていたのだ。正社員、パート、アルバイト、さらには派遣会社から送り込まれた「一日だけの助っ人」たちまでいる。


エプロンをつけ、名札を下げた「店員らしき人物」は、映像の中に何十人と映っていた。だが、その誰もが「店員」に見え、誰も「不審者」には見えなかった。


夕方までに、坂本たち捜査陣は基本的な事実関係を洗い出していた。


栗原哲男は三ヶ月前、本部からの異動でこの店に店長として着任した。前任の店長が体調不良で急遽退任したための、いわば緊急人事だった。栗原は本部でも評判の「やり手」として知られていたが、その一方で、部下に対する厳しさ――というより、時に理不尽とも取れる叱責で、着任早々何人かのパートやアルバイトを萎縮させていたことも、事情聴取の中で次々と語られた。


「正直、怖い人でした」精肉コーナーの若いアルバイト、田中が声を潜めて言った。「ちょっとしたミスでも、みんなの前で怒鳴られて……。三ヶ月前まで働いてた瀬川くんなんて、栗原店長が来てすぐに辞めさせられちゃって」


「瀬川?」坂本が手帳を構える。


「瀬川涼太くんです。真面目でいい子だったのに、レジの売上金が合わないとかで、栗原店長にすごく責められて……。本人は『やってない』って言ってたけど、結局、クビっていうか、自分から辞める形になって」


「その件、詳しく聞かせてくれるか」


田中の証言によれば、三ヶ月前――つまり栗原が着任してまもなく――レジの売上金に数万円の不足が発覚し、その日の担当だった瀬川涼太という当時二十三歳の青年アルバイトが疑われたのだという。瀬川は強く否定したが、栗原は本部への報告をちらつかせて瀬川を追い詰め、結局、瀬川は「自己都合」という形で店を去った。


「その後、瀬川って子はどうしてる?」


「さあ……。風の噂じゃ、いまだに仕事が見つからないとか。あの一件のせいで、次のバイトの面接でも『前の職場でお金のトラブルがあった』って正直に話さなきゃいけなくて、うまくいかないって聞いたことがあります」


坂本の目つきが鋭くなった。動機としては、十分すぎるほどだった。


だが、問題はそこからだった。


瀬川涼太は、この店を辞めて以来、一度も店に姿を現していない。防犯カメラの映像を隅々まで確認しても、瀬川らしき人物――少なくとも、かつて店員だったときの姿と同じ格好をした人物――は、どこにも見当たらなかった。


「アリバイは?」


坂本の部下が調べたところ、瀬川涼太は当日の午前中、自宅アパートで一人暮らしをしていると証言。近所付き合いもなく、目撃者も防犯カメラも存在しない。証明する術がないと同時に、崩す術もない、いわゆる「アリバイなし」の状態だった。


だが、動機のある人物が犯行時刻に現場付近にいたという証拠は、どこにも見つからなかったのである。


その夜、店は臨時休業となった。佳子は、警察の聴取を終えて帰宅する道すがら、ずっと胸のざわつきを抑えられずにいた。


栗原店長のことは、正直に言えば苦手だった。着任してすぐ、レジの誤差を厳しく問い詰められたことが佳子にもあった。あのときの、まるで犯罪者を尋問するかのような冷たい目つきを、佳子は忘れていない。


けれど、それとこれとは話が別だ。人が一人、命を奪われたのだ。しかも、あれほど大勢の人間がいた店内で、誰にも姿を見られることなく。


――本当に、誰にも見られていないのだろうか。


佳子の脳裏に、レジに立つ人間ならではの、ある違和感が浮かび上がっていた。それは、まだ形になっていない、ぼんやりとした感覚に過ぎなかった。だが、長年の勘が、佳子に「何かがおかしい」と告げていた。


翌日、店は営業を再開した。感謝祭は当然中止となったが、生活必需品を扱う店を長く閉めるわけにもいかない。佳子はいつも通りレジに立った。


その日の昼休み、佳子は休憩室で、若いパートの宮下美佐子と向かい合っていた。


「美佐子さん、ちょっと聞きたいんだけど」


「なんですか、佳子さん」


「土曜日の感謝祭のとき、応援で来てた一日だけのアルバイトさんって、何人くらいいたか覚えてる?」


美佐子は少し考えて、「たしか、派遣会社から八人来てたと思います。あと、本部から二人応援に」と答えた。


「その人たちの名札、誰が用意したか知ってる?」


「え? それは……いつも通り、佳子さんが配ってましたよね。朝礼のときに」


佳子は頷いた。そう、それは間違いない事実だった。感謝祭のような特売日には、応援に来る「一日だけのスタッフ」にも、簡易の名札を用意する。名前を手書きした紙を、透明なプラスチックケースに入れただけの、簡単なものだ。それを配布するのは、長年この店にいる佳子の役目だった。


朝礼のとき、佳子は名簿を片手に、一人ひとりの名前を確認しながら名札を手渡していく。土曜日の朝も、いつも通りにそれを行った。応援の八人と本部からの二人、合わせて十人分の名札を、佳子は確かに配った。


――だとすれば。


佳子の中で、何かがかちりと音を立てて繋がった。



その日の夕方、佳子は坂本刑事に面会を求めた。所轄の捜査本部に、たかがパートの高齢女性が押しかけてきたことに、若い刑事は当惑した顔を見せたが、坂本自身はなぜか興味深そうに佳子を迎え入れた。


「高本さん、でしたね。何か、お話が?」


「刑事さん、土曜日の防犯カメラの映像、まだ見られますか」


「ええ、もちろん、すべて保存してあります。何か気になることでも?」


佳子は椅子に腰掛け、居住まいを正した。


「あの日、店には応援のアルバイトさんが十人来ていました。派遣会社から八人、本部から二人。私はその十人全員に、朝礼で名札を配りました。手書きの、簡単な紙の名札です」


「それが、何か」


「刑事さん、事件のあった時間帯――十一時四十分から五十分ごろの、バックヤード付近の映像を、もう一度見せていただけませんか。私は、あの日エプロンをつけて店内にいたスタッフの顔と、名札を渡した相手を、全員はっきり覚えています」


坂本は少し驚いた顔をしたが、すぐに部下に指示を出し、映像を再生させた。


問題の時間帯、冷凍庫前の通路のカメラは大部分が曇っていたが、その前後、搬入口付近のカメラには、複数のエプロン姿の人物が映り込んでいた。佳子は画面に顔を近づけ、食い入るように一人ひとりを確認していく。


「この人は……青果の山田さん。この人は、精肉の田中くん。これは……ああ、これは本部から来た応援の方ですね、たしか佐々木さんとおっしゃったかしら」


坂本の部下が名簿と照合していく。佳子の記憶は、驚くほど正確だった。


そして、十一時四十三分ごろの映像。搬入口からバックヤードの通路へ入っていく、一人のエプロン姿の男性が映っていた。中肉中背、マスクと野球帽で顔の下半分と髪を隠している。エプロンの上から、確かに名札らしきものを下げている。


佳子の指が、画面の上でぴたりと止まった。


「――この人は、知りません」


「知らない? しかし、エプロンを着けていますよね」


「ええ、うちの制服のエプロンです。でも、私はこの人に名札を渡していません。土曜日、私が配ったのは十人分きっかり。名簿と照らし合わせても、この人が誰なのか、私にはわかりません」


坂本の目が鋭くなった。「映像を拡大できるか。名札の部分を」


技術班が画像を処理し、拡大する。ぼやけてはいるが、名札の形状がはっきりと浮かび上がった。


それを見た瞬間、佳子は小さく息を呑んだ。


「刑事さん……これは、うちの名札じゃありません」



「どういうことですか」坂本が身を乗り出す。


佳子は説明した。


「うちの店は、三ヶ月前に――ちょうど栗原店長が着任されたのと同じ時期に、ロゴマークが新しくなったんです。本部の方針で、エプロンも名札も、全部新しいデザインに切り替わりました。今のエプロンには、胸のところに新しいロゴが刺繍されていて、名札もプラスチック製の、会社支給のちゃんとしたものに変わっています。以前は、手書きの紙を入れただけの簡易な名札だったんですけれど」


「つまり……」


「この映像の人が下げている名札は、古いタイプです。三ヶ月以上前に廃止された、旧デザインのものです。うちの従業員は、パートもアルバイトも、全員新しい名札に交換しています。私が土曜日に配った応援スタッフ用の名札も、もちろん新しいデザインの紙を使いました。あんな古いものを持っている人間は、今のうちの店には、誰もいないはずです」


坂本は言葉を失った。


「それに」と佳子は続けた。「エプロンもよく見てください。この人が着ているエプロン、胸のロゴの位置が、今のものと少し違います。刺繍の色も、心なしか色褪せているように見えます。もしかしたらこれは、三ヶ月以上前――つまり、旧デザインだった当時に、うちの店で働いていた人が、当時支給されていた自分のエプロンを、そのまま持っていたものなんじゃないでしょうか」


沈黙が流れた。坂本の部下の一人が、はっと顔を上げた。


「瀬川涼太……三ヶ月前まで、この店で働いていた……」


坂本が唸った。「なるほど。奴は、辞めるときに自分の旧エプロンを返却しなかった、あるいは同じものをどこかで手に入れた。それを着て、感謝祭の混雑に紛れ込んだというわけか」


佳子は静かに頷いた。


「感謝祭の日は、応援の人が普段よりずっと多くて、お店の中は本当にごった返していました。エプロンを着て名札らしきものを下げていれば、誰も『この人は誰だろう』なんて思いません。お客様はもちろん、私たち従業員だって、四十人以上いるスタッフの、しかもその日だけ来た応援の人まで含めて、全員の顔をいちいち確認したりはしませんから。『店員さんなんだな』と思ったら、それ以上は気にも留めない。それが……」


佳子は言葉を選びながら、静かに続けた。


「それが、あの人の狙いだったんだと思います。防犯カメラは確かに全部映していました。でも、映っているのに、誰にも『見られていなかった』。制服という、いちばんわかりやすい目印が、逆にいちばんの死角になっていたんです」


坂本は即座に部下に指示を出し、瀬川涼太の身柄確保に向けて動いた。だが、佳子にはまだ、腑に落ちない点が残っていた。


「刑事さん、ひとつよろしいですか」


「何でしょう」


「もし瀬川さんが本当に、栗原店長への恨みだけで犯行に及んだのだとしたら……彼は、どうやって栗原店長をあの通路に呼び出したんでしょうか。栗原店長は、いくら混雑していても、店長という立場上、店内を見回っていたはずです。倉庫の奥の、あの冷凍庫の前まで、わざわざ一人で行く理由が必要だったと思うんです」


坂本は一瞬考え込んだが、「それは、瀬川の身柄を確保してから、本人に聞くしかないでしょう」と答えた。


その二日後、瀬川涼太は自宅アパートで確保された。取り調べに対し、瀬川は当初黙秘を続けていたが、佳子が指摘した「旧デザインのエプロンと名札」という物的証拠、そして防犯カメラに残っていた歩き方や体格の特徴が本人のものと一致するという鑑識の結果を突きつけられ、やがて自供を始めた。


瀬川の証言は、こうだった。


三ヶ月前、レジの売上金不足の一件で、瀬川は身に覚えのない疑いをかけられ、栗原から執拗に追及された。実際には、この不足金は栗原自身が個人的な借金の返済に流用していたものであり、瀬川はいわば「スケープゴート」にされたのだった。この事実を、瀬川は辞めたあとになって、当時の同僚からの又聞きで知った。


激しい怒りと、生活の立て直しがうまくいかない焦りの中で、瀬川は栗原への復讐を計画するようになった。そして、感謝祭という「大勢の応援スタッフが出入りする、絶好の隠れ蓑」となる日を選んだ。


栗原をおびき出す手段として、瀬川は事前に匿名の電話をかけていた。「倉庫の在庫管理システムに不審なアクセス記録がある、冷凍庫の裏の端末を確認してほしい」という趣旨の、業務を装った内容だった。新任で、まだ店の隅々まで把握しきれていなかった栗原は、この不審な連絡を無視できず、自ら現場を確認しに向かった――それが、命取りとなった。


「動機は、たしかに私怨です」瀬川は取調室で、うなだれながら言った。「でも……」


「でも、何だ」坂本が促す。


「あの人が着任してから、辞めさせられたのは、俺だけじゃないんです。何人も、理由もつけられずに追い詰められて、辞めていった。俺は……俺だけの問題じゃないと思っていました」


その言葉に、坂本は何も返さなかった。動機の是非を裁くのは、彼の仕事ではない。


事件から一週間後、フレッシュマート緑ヶ丘店は、通常営業を取り戻していた。もちろん、店内の空気は以前とはどこか違う。従業員の間には、まだぬぐいきれない緊張と、悲しみに似た沈黙があった。


坂本刑事は、事件の正式な報告を終えたあと、わざわざ店を訪れ、佳子に礼を言いに来た。


「高本さん、あなたのおかげで、事件は解決しました。正直、あのままだったら、迷宮入りしていたかもしれません」


「いいえ、私は……ただ、いつも通りのことをしただけです」


「いつも通り、ですか」


「ええ」佳子は微笑んだ。「毎朝、名札を配る。毎日、同じ顔を見る。それだけのことなんです。でも、十七年もやっていると、誰が誰だか、誰にどの名札を渡したか、そういうことが、自然と頭に入ってしまうんですよ」


坂本は感心したように頷いた。


「防犯カメラは、十八台もあった。でも、それが犯人の顔を捉えていても、『誰だかわからない』のでは意味がない。あなたの記憶が、その足りない部分を補ってくれた」


「制服というのは、不思議なものですね」佳子は、ふと窓の外に目をやりながら言った。「同じ格好をしていれば、それだけで人は安心して、疑わなくなる。でも、その制服の、ほんの少しの違い――ロゴの色や、名札の形――に気づける人間が、一人でもいれば」


「それが、死角をなくすということですか」


「ええ。カメラの死角は、機械の性能の問題です。でも、人の心の死角は……見慣れたものを、それ以上見ようとしないところから生まれるんだと思います。私はただのレジ打ちですけど、四十年近く、毎日いろんな人の顔を見てきました。だから、少しだけ、その死角が人より狭かったのかもしれません」


坂本は、深く頭を下げた。


「ありがとうございました、高本さん」


「いいえ」佳子は、レジに向き直りながら答えた。「次のお客様、お待たせしております」


いつも通りの、静かな声だった。



事件のあと、瀬川涼太は殺人罪で起訴された。裁判の行方はまだ先のことだが、彼が語った栗原の不正――部下への責任転嫁と、横領の疑い――については、本部による内部調査が別途始まることになった。皮肉なことに、瀬川の犯した罪が、彼自身を追い詰めた不正の存在を、結果として明るみに出すことになったのである。


もちろん、それは瀬川の罪を軽くする理由にはならない。人の命を奪うことに、正当な理由などありはしない。佳子はそのことを、誰よりもよくわかっていた。


それでも、レジに立ちながら、佳子はときどき、あの日の瀬川の――映像の中の、マスクと帽子に隠れた表情の見えない横顔を思い出すことがあった。


「はい、お待たせしました」


今日もまた、佳子はいつものように、バーコードを読み取る。ピッ、ピッ、と規則正しい電子音が響く。レジの列には、今日も変わらず、大勢の客が並んでいる。


その一人ひとりの顔を、佳子はやはり、ちゃんと見ている。


見慣れた制服の奥に、見慣れないものが紛れ込んでいないか。

毎日同じことの繰り返しに見えるレジ打ちの仕事の中にも、佳子にしか気づけない「違和感」が、確かに存在する。


それは、十七年という歳月が、この小さな店の片隅で、静かに育て上げてきた、佳子だけの目だった。


窓の外では、今日も変わらず秋晴れの空が広がっている。フレッシュマート緑ヶ丘店は、何事もなかったかのように、いつもの日常を取り戻しつつあった。


けれど、佳子は知っている。

どんなに賑やかで、どんなに見慣れた景色の中にも、目を凝らさなければ見えないものが、確かに存在するということを。


そしてそれに気づけるかどうかは、カメラの性能でも、捜査の技術でもなく――

ただ、日々、人をきちんと見つめ続けてきたかどうかに、かかっているのだということを。


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