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偽物のリベラルないしは偽物の自由主義と本物のリベラルないしは本物の自由主義について

 近年、リベラルという言葉が多様な意味で使われ、混乱を招いている。古典的自由主義の立場からは、現代のリベラルは本来の理念から逸脱していると批判されることもある。この文章では、リベラルの多様な潮流を整理し、それぞれの特徴と問題点を考察することで、本物のリベラルのあり方を検討する。

 この世界には偽物の自由主義および偽物のリベラルと、本物の自由主義および本物のリベラルがいる。

 この文章では、自由主義の諸潮流を二つの軸で分類する。第一の軸は、個人の自己所有権、特にその中核にある精神の自由(思想・良心・信教・言論・表現・学問の自由)を最優先するか否かである。第二の軸は、国家権力を法(憲法を含む)で拘束することに同意するか否かである。

 この二つの軸により、自由主義は五つの類型に分類される。重要なのは、この分類は政策の具体的内容(例えば経済政策や福祉政策)ではなく、権力と自由の関係についての根本的立場に基づくという点である。したがって、ロールズのように格差原理という分配政策を提唱する思想家も、精神の自由を最優先し、法による権力制約を支持する限り、ロック型に分類される。

 自由主義及びリベラルという言葉を最初に使っていたのはジョンロックに代表される古典的自由主義者だった。彼らは個人の自由と権利を最優先にして、国家の役割を限定しようとした。この立場は私が主張している、国家は個人の自由と権利を機械的に守るべきであるという考えと親和性のあるものだ。

 ところがロールズが現れ、この自由主義及びリベラルの言葉は別の意味で使われるようになった。ロールズは、『正義論』において、格差是正のために国家の介入を容認する立場を示した。これは、個人の自由と財産権を絶対視する古典的自由主義とは異なる側面を持つ。ロールズの思想は、現代の自由主義に大きな影響を与え、社会的公正を重視する潮流を生み出した。

 しかし重要なのは、ロールズは決して個人の精神の自由を社会的公正のために犠牲にすることを認めなかったという点である。ロールズの第一原理(平等な自由の原理)は、思想・良心・言論などの基本的自由を絶対的に保護し、いかなる社会的利益のためにもこれを制約できないとする。格差原理(第二原理)は、あくまでこの基本的自由の保護を前提とした上で、経済的不平等の許容範囲を定めるものである。

 さらに、ロールズは法の支配を擁護し、立憲民主制を正義の実現に不可欠な制度として位置づけた。無知のヴェールや原初状態といった概念も、恣意的な権力行使を防ぎ、個人の自律性を最大限尊重するための手続き的装置として設計されている。

 したがって、ロールズはこの文章の分類ではロック型に属する。ロールズが格差是正のための再分配政策を提唱したことで、一部の論者から「財産権を軽視する」という批判を受けたが、これは政策レベルの相違であり、精神の自由の絶対的優先性と法による権力制約という根本原理においては、ロールズは一貫してロック型の立場を保っていた。

 問題は、ロールズの思想が受容される過程で誤解されたことである。後述するルソー型の思想家たちは、ロールズの格差原理を援用しながら、ロールズが決して侵害を認めなかった精神の自由にまで介入しようとした。ヘイトスピーチ規制や思想統制を社会的公正の名の下に正当化する試みは、ロールズの思想の歪曲である。ロールズ自身は、差別的言論に対しても、その規制ではなく、より多くの言論による対抗を主張していた。

 こうして、ロールズの思想は、その後の議論の方向性を決定づけたが、同時に誤解と歪曲の対象ともなった。現代において「リベラル」を自称する多くの論者は、ロールズの名を引きながら、実際にはロールズが拒否したはずの精神の自由への介入を擁護している。これが、自由主義およびリベラルという言葉が歪められた過程である。

 このロールズの思想もまた歪められ、同時に自由主義およびリベラルの言葉も歪められた。自由主義が多文化主義やアイデンティティ・ポリティクス、批判的人種理論、ラディカル・フェミニズムやポスト構造主義フェミニズムと結びつくことで、社会的公正や弱者救済を個人の自由と権利、特に個人の自己所有権及びその中にある精神の自由よりも重視する立場が現れた。

 例えばドゥウォーキンは、差別的感情や思考を持つこと自体を道徳的に非難し、そうした内心の領域にまで社会的統制を及ぼそうとする立場をとる。これは、ロールズが第一原理で絶対的に保護した思想・良心の自由への直接的侵害である。ロールズは、いかなる社会的利益のためにも基本的自由を制約できないとしたが、ドゥウォーキンに代表される立場は、社会的公正という名目でこの原則を覆そうとする。

 この文章の分類では、ドゥウォーキンのような立場はルソー型に属する。ルソー型は、共通善や一般意思、社会的公正といった集合的価値を、個人の精神の自由よりも上位に置く。この点で、ルソー型はロック型と根本的に異なる。

 にもかかわらず、こうしたルソー型の論者が、ロールズの思想を体現していると誤解され、そういった人こそ自由主義でありリベラルであるとみなされるようになった。これは二重の誤解である。第一に、ロールズ自身はルソー型ではなくロック型である。第二に、ルソー型の立場は、この文章の定義では「偽の自由主義」である。

 こうして、個人の自由と権利を最優先にして、国家の役割を限定しようとした当初の自由主義者やリベラルは、完全に異端とされたのだ。

 私は個人の自己所有権及びそこに含まれる精神の自由を最重要視し、国家はそこに関与してはならないとする思想のうち、国家の役割を人の自由と権利を守ることとし、かつ国家を法で(憲法を含む)縛ることに同意し、かつ世界精神や歴史的必然性およびその同類を重視しない人たちのことを今後はロック型の自由主義者、略してロック型と呼ぶことにする。

 ロック型の核心的特徴は二つある。第一に、精神の自由(思想・良心・信教・言論・表現・学問の自由)を、いかなる集合的価値(共通善、一般意思、社会的公正、伝統、宗教など)によっても侵害できない絶対的権利として位置づける。第二に、国家権力を法(憲法を含む)で拘束し、権力の恣意的行使を防ぐ制度的仕組みを支持する。

 ロック型には、ジョン・ロック、ノージック、ヴォルテール、ロールズが含まれる。これらの思想家は、経済政策や福祉政策については多様な立場をとる。例えば、ノージックは最小国家を擁護し、ロールズは格差是正のための再分配を認める。しかし、両者とも、精神の自由の絶対的優先性と法による権力制約という根本原理においては一致している。

 ロールズについては特に注意が必要である。ロールズは格差是正のための国家介入を認めたため、一部から「財産権を軽視する」と批判された。しかし前述のとおり、ロールズの第一原理は精神の自由を絶対的に保護する。格差原理は、この基本的自由の保護を前提とした経済的資源の配分規定である。したがって、ロールズは明確にロック型に属する。

 問題は、ロールズの思想の受容過程である。後述するルソー型の論者たちは、ロールズの格差原理や社会的公正の強調を援用しながら、ロールズが決して侵害を認めなかった精神の自由にまで介入しようとした。これは、ロールズ思想の根本的な歪曲である。ロールズ自身は、ヘイトスピーチのような差別的言論に対しても、その法的規制ではなく、より多くの言論による対抗を主張していた。にもかかわらず、現代では、ロールズの名の下にヘイトスピーチ規制が正当化されることがある。これは、ロールズをルソー型と誤解した結果である。

 この思想は名誉革命を引き起こす原動力となった。

 また今後は個人の自己所有権及びそこに含まれる精神の自由を最重要視し、国家はそこに関与してはならないとする思想を持つ人のうち、既存の道徳や価値観を批判的に捉えていて、国家を法で(憲法含む)縛ることに同意しないあるいは興味のない人たちのことをニーチェ型の自由主義者略してニーチェ型と呼ぶことにする。ニーチェ型は、国家権力や伝統的な道徳、宗教といった権威に懐疑的な姿勢を示す。ニーチェ型は、既存の価値観を批判的に捉え、個人の自由を最大限に尊重することを主張する。しかし、その一方で、ニーチェ型は、国家の役割を軽視し、法による統治を否定する傾向があるため、ニーチェ型の考えでは社会の秩序を維持することが難しいという問題点も抱えている。ニーチェ型にはニーチェやマックスシュティルナーが含まれる。ニーチェ型は、精神の自由を重視する点では自由主義と共通するが、法による権力制約を拒否する点で、この文章が前提とする自由主義の枠組みの外にある。ニーチェ型は、既存の権威への批判という点で価値を持つが、ニーチェ型自身が権力を握った場合、その権力を制約する仕組みを持たないため、独裁の危険がある。したがって、ニーチェ型は自由主義の一変種というよりは、自由主義とアナーキズムの境界にある思想と見るべきである。

 また国家を法で(憲法を含む)縛ることに同意する人たちのうち、自己所有権の中に含まれる精神の自由よりも、共通善や一般意思、社会的公正、宗教ないしは文化を重視する人たちのことを今後はルソー型の自由主義者、略してルソー型と呼ぶことにする。

 ルソー型の核心的特徴は、個人の精神の自由と集合的価値が衝突した場合、後者を優先する点にある。ルソー型にとって、個人の思想や良心は、共同体の価値観や社会的公正に従属する。したがって、ルソー型は、共同体の価値観に反する思想や言論を、法的に規制することを正当化する。

 ルソー型には、ルソー、ドゥウォーキン、ヘイトスピーチ規制を支持する現代の一部のリベラルが含まれる。ルソー型も法による権力制約を支持するが、その「法」の内容が、ロック型とは根本的に異なる。ロック型の法は、個人の精神の自由を権力から保護するためのものである。対照的に、ルソー型の法は、共同体の価値観を保護するために、個人の精神の自由を制約するものとなりうる。

 この思想はフランス革命を引き起こす原動力となった。フランス革命が、恐怖政治へと転化したことは、ルソー型の危険性を示している。

 では国家を法で(憲法含む)縛ることに同意する人たちのうち自己所有権の中に含まれる精神の自由より共通善や一般意思、あるいは社会的公正を重視する人たちの正体は何なのだろうか。私はその正体は進歩主義だと思っている。つまり、彼らは共通善や一般意思、あるいは社会的公正に基づく社会の進歩を求めていて、そのためならば個人の精神の自由を侵すことも厭わない人だと私は考えているので、私は彼らを進歩主義者と呼ぶ方がより実情に合っていると考えるのだ。故に彼らのことを私は進歩主義者と呼ぶ。進歩主義者は、ヘイトスピーチ規制や表現規制を支持することがある。それは、彼らが社会的公正を重視するあまり、個人の表現の自由を制限することを容認するためである。進歩主義は、社会的公正や弱者救済を個人の自己所有権及びその中に含まれる精神の自由より重視する点でルソー型と共通するのだ。

 進歩主義者と宗教的保守主義者は似ている。両者とも主観的なものだが社会に共有されている道徳を重視し、宗教や文化や共通善や一般意思や社会的公正といった社会の道徳を個人の自由よりも上位に置く。故に進歩主義と宗教的保守主義は似た者同士なのだ。私から言わせてみれば、宗教的保守主義者は死んだ神の屍を崇め他人にその神を崇めるよう強制し、進歩主義者は死んだ神から新たな神を創造して崇め他人にその神を崇めるよう強制しているのだ。両者の似ているところはそこなのだ。だから私は両者をルソー型とひとまとめにしたのだ。ロック型やニーチェ型は神を崇めることを他人に強制したりはしない。

 私はロック型やニーチェ型と進歩主義者の違いは人を差別する自由を認めるか否か、あるいはヘイトスピーチ規制法を認めるか否かだと考えている。すなわちロック型とニーチェ型は人を差別する自由を認めヘイトスピーチ規制法を認めず、進歩主義者は人を差別する自由を認めずヘイトスピーチ規制法を認めるということだ。

 あと自由主義にはもう二つ種類がある。

 そのうちの一つは歴史の進歩を信じ、歴史的必然性や世界精神を重視する立場から自由主義を擁護する立場だ。つまり彼らは歴史の進歩を信じ、歴史的必然性や世界精神を重視するという理由で国家を法で(憲法含む)縛ることに同意しかつ個人の自己所有権及びそこに含まれる精神の自由を重視するのだ。こういった立場をとる人間のことを私はヘーゲル型の自由主義者略してヘーゲル型と呼ぶことにする。ヘーゲル型にはヘーゲルやフランシスフクヤマが含まれる。なお彼らは自由主義者ではないが、マルクス主義者やキリスト教の黙示録を信じている人も広義の意味でのヘーゲル型であると考えることが可能である。どちらの思想も、現在の混乱や対立を、より良い社会や世界が到来するための過渡期と見なし、最終的な結末は避けられないものだと信じている点に共通点があるからだ。

 最後の一つは全体の幸福を最大化するために自由主義を擁護する立場だ。つまり彼らは全体の幸福の最大化を重視するという理由で国家を法で(憲法含む)縛ることに同意しかつ個人の自己所有権及びそこに含まれる精神の自由を重視するのだ。こういった立場をとる人間のことを私はベンサム型の自由主義者略してベンサム型と呼ぶことにする。ベンサム型にはミルなどが含まれる。

 私はヘーゲル型やルソー型やニーチェ型およびベンサム型はいずれも偽の自由主義であり、ロック型こそが真の自由主義だと考えている。

 ここで「真の自由主義」とは、道徳的真理の主張ではなく、以下の二つの意味である。第一に、歴史的に「自由主義(liberalism)」という言葉が最初に指していた思想、すなわちジョン・ロックに代表される古典的自由主義を指す。第二に、個人の自由を最大限に尊重し、独裁を防止するという目的に照らして、最も有効な思想類型を指す。

 この文章の分類軸は、精神の自由の絶対的優先性、法による権力制約、という二点である。この二点を満たすのはロック型のみである。ルソー型は精神の自由の絶対的優先性を満たさず、ニーチェ型は法による権力制約を満たさず、ヘーゲル型とベンサム型は独裁につながるリスクを孕む。

 重要なのは、この評価は政策の具体的内容ではなく、権力と自由の関係についての根本原理に基づくという点である。ロック型の内部には、経済政策や福祉政策について多様な立場がある。ノージックのような最小国家論者もロック型であり、ロールズのような福祉国家論者もロック型である。両者の違いは、政策レベルの相違であり、精神の自由の絶対的優先性と法による権力制約という根本原理においては一致している。

 あなたが自由主義者であれば問いたいことがある。あなたはロック型、ルソー型、ニーチェ型、ヘーゲル型、ベンサム型のいずれに属すのだろうか?私はロック型の自由主義者だ。ぜひ、ご自身の考えを深めてみてほしい。あなたが自由主義者であれば問いたいことがある。あなたはロック型、ルソー型、ニーチェ型、ヘーゲル型、ベンサム型のいずれに属すのだろうか?私はロック型の自由主義者だ。ぜひ、ご自身の考えを深めてみてほしい。

 ここでは自由主義を五つに分け、その五つの自由主義のうち真の自由主義といえるのはロック型だけであり他は偽の自由主義であることを示した。あと私は進歩主義者にはリベラルや自由主義者ではなく進歩主義者を名乗ってもらいたいと考えている。

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甘い。偽物のリベラルないしは偽物の自由主義を進歩主義と呼ぶには御幣がある。それは見せかけの理由であり真の目的は「権力者は本気で信望するつもりもないリベラルや自由主義を権威とでっちあげ大衆に強制し、それ…
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