5. いつものこと
それからというもの、私の思考と両足は、止まることなく走り続けた。
家に着いた途端に運動の疲労が襲って来て、額から汗が滲み出て来る。
白を基調とした二階建て。別に狭くはないけれど、特段これと言った特徴もない、至って普通の一軒家。
息切れの中に一つのため息を紛れさせながら、私は鍵を開けて中に入る。
「ただいまー」
帰宅を知らせは玄関に響くだけで、「おかえり」という返事は返って来ない。
生温さが籠ったリビング。椅子の上に鞄を置いてから、台所へ足を運ぶ。
冷蔵庫を開け、青のタッパーを視認してから閉める。
今夜は気になるドラマもバラエティーもないし、早めに食べてゲームでもするか。
「そうなればさっさと勉強勉強ー」
適当なリズムを添えた独り言は、誰もいない部屋に虚しく響いてから、溶けて行く。
——いつものことだ。
まだ私が小学生になる前、父は病気でこの世を去った。
元々共働きだったので、母が仕事探しに奔走することはなかったが、明らかに母の忙しさは増し始め、最初は週一回ほどだった残業が、次第に隔日になり、今では毎日となっている。
きっと父の分まで精一杯働いているのだろうし、多分バリキャリ。おかげで生活に苦労することはない。
しかしそれは、一人っ子である私が家族と過ごす時間の少なさを、暗に示している。
別に親のことを恨んだりはしていない。こうやって食事の作り置きだってしてくれることだって、十分ありがたいことだ。
——そう、思っているのに。
時折、この世界に存在するすべての人間の中で、私だけが作り物なのではないのか、と疑ってしまうことがある。人間と同じ容姿をした造形物が自我を持ってしまっている。
それが私なのだ、と。
荷物の重さに顔をしかめる買い物帰りの主婦、疲弊に耐えながら営業に回るサラリーマン、サッカーボールを持って無邪気に走る子供。
街を歩けば目にする人たちの表情は、時に華々しく時に泥臭い。けれど、すべてを含めて美しい。
その人がこれまでに辿って来た、人生が映し出されているからだ。
しかし、私はどうだろう——?
親の愛、という目には見えない輝きを、他者と比べて受け足りていない私に、果たして美しさはあるのだろうか……それすら分からない。
母に求めたいものを訊ねられたところで、何一つとして思い浮かばない。
ただ、積み重ねの日々に僅かな不満が蓄積している。それだけの話。
果たして、心の奥底に漂う靄を衒えるような日はいつ来るのか——。
「……瑞樹なら」
漏れ出たその名に、自分でも少し驚いてしまった。
この歳になれば当然かもしれないが、詩織たちとの会話内に、互いの親が顔を覗かせたことはないし、何より昼の憩いにわざわざ重い話題を提供するつもりもない。
しかし、瑞樹は私の家庭がシングルマザーであることを知っている(向こうが覚えていればの話だが)。
少しの愚痴くらいなら聞いてくれるかもしれない。
「……連絡してみよっかな」
身勝手な希望に心を躍らせながら、スマートフォンを鞄から取り出していると、私は一つの事実を思い出す。
私は、瑞樹の連絡先を知らない。
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作者の冨知夜章汰です!
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