1.神の辞書
あ、あれ?ない、ないっ、ないっっ!
僕の辞書に、「勇気」がない!
ページをめくっても、探しても、どこにもない。
……どうして?
幼い頃、祖父が語る英雄譚を何度も何度も聞かせてもらった。
剣を掲げ、仲間を守り、恐怖に立ち向かう英雄たち。
僕は彼らの「勇気」に強く憧れた。
そして、あの日——
村でいじめられていた子をかばったとき、僕の辞書に「勇気」の文字が刻まれた。
痛みとともに、胸の奥に温かい何かが灯るのを感じたのを、今でも覚えている。
なのに。
大好きだったはずのその言葉が、今はどこにも見当たらない。
それどころか——
確かに覚えていたはずの言葉が、いくつも消えている。
なぜ……?
心臓がざわつく。喉が渇く。
僕はお気に入りの丘に腰を下ろし、辞書を抱きしめながらしばらく空を眺めていた。
夕暮れに染まる村を見下ろし、深く息を吐く。
落ち着こう。何かの間違いかもしれない。
そう思いながら、ゆっくりと家路につく。
——だが。
村の様子が、おかしい。
いつもなら明るく話しかけてくれる洗濯屋のおばちゃんが、呆然と立ち尽くしていた。
釣り好きのおじいさんも、村一番のいじめっ子も、誰もが魂を抜かれたように、ただぼんやりと突っ立っている。
目の焦点が定まらず、口元はかすかに動いているが、言葉にならない。
まるで、言葉そのものを失ったかのように——。
「みんなどうしたんだろ……?」
不安を押し殺しながら、僕は近くの洗濯屋のおばさんに駆け寄った。
「おばさん! おばさん!!」
大きな声で呼び、肩を揺すり、つついてみても——
「ああ、うん。」
それだけ。
目に光がない。
どこか遠くを見つめたまま、何も考えていないような——そんな顔。
僕の辞書の異変といい、何かがおかしい。
——「どごおおおん!」
突然、村の奥から大きな衝撃音が響いた。
あっちって、村の食糧庫……!?
嫌な予感がする。鼓動が速くなる。
——走った。
冬を越すためにみんなで蓄えた、大切な食糧。
もし何かあれば、村の人々は——
そして、僕は見た。
巨大な豚のような化け物が、貯蔵庫の食べ物を貪る姿を。
だが、それは豚ではなかった。
体長は馬を超えるほど大きく、皮膚は黒く濁り、背中には鋭い棘が並んでいる。
眼光は鈍く紫に光り、その口は次々と食料を喰らい続けていた。
なのに。
村人たちは誰も何も言わず、ただ立ち尽くしている。
おかしい。おかしい。おかしい。
僕が知っている村のみんなは、危機に立ち向かう強さを持っていたはずなのに——。
「なんだお前、なにか文句でもあるのか?」
——豚が、喋った。
一瞬、息が詰まる。背筋が凍る。
「……お前、その食料……」
「ん? なんだって?」
舌なめずりをしながら、豚はニヤリと笑った。
僕は、拳を握りしめる。
「それは、この村のみんなで、今年の冬を超えるために必死に貯めた大事な食糧なんだ! 今すぐその汚い体をどけろ!! このデブ!!」
沈黙が落ちた。
豚の目が、一瞬見開かれる。
「で、でぶ……? 俺様が一番気にしてることを言いやがって……!!」
次の瞬間、地響きがするほどの速さで——豚が突進してきた。
速い。逃げられない。
これは死ぬ。
そう悟った瞬間。
——光が弾けた。
僕の辞書が宙に浮かび、まばゆい光の壁を作り出す。
豚の突進が、光に弾かれた。
「ぶひいいいっ!!」
豚が吹き飛び、地面に転がる。
そして。
宙に浮かんだ辞書が、僕の手の中に納まった。
そして、ひとりでにページをめくり始め、文字がつづられ始める。
文字が光を帯び、やがて——僕の頭の中に、直接響く声がした。
「——私はこの世界の神、エリヴィス。」
頭の奥に直接流れ込むような声だった。
柔らかく、それでいて威厳に満ちた響き。まるで、世界そのものが語りかけているような感覚だった。
「レクシス・ルミナよ。」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「お前は、この世界に生まれし者の中で、ただひとり——言葉を奪われてもなお、記憶にとどめている存在。」
言葉を、奪われても?
思わず自分の辞書に視線を落とす。そこには、消えてしまったはずの「勇気」という言葉が、微かに輝いていた。
「お前は、膨大な言素を生まれ持つ者。」
「ゆえに、魔物たちが奪い去った言葉の痕跡を感じ取り、取り戻すことができる——。」
魔物が、言葉を奪った?
それが——みんなが放心状態になった原因なのか?
「このままでは、人々は全てを忘れ、世界は闇に沈むだろう。」
「だが、まだ間に合う。」
辞書の光が強くなり、まるで炎のように揺らめいた。
浮かび上がる文字は、まるで僕に訴えかけてくるようだった。
「レクシス・ルミナ——。」
「この世界を、人々を救えるのは、お前しかいない。」
僕しか……いない?
戸惑いと共に、心の奥がざわつく。
「私は、神の辞書をお前に託す。」
その言葉と共に、光が弾けた。
僕の手の中にある辞書が、まるで新しい命を宿したかのように震え、熱を帯びていく。
僕の辞書はまさに神を彷彿とさせるような神々しい姿に変貌していた。
「この辞書に刻まれし言葉——それらは、まだ世界から消えていない言霊。」
「この言葉の力を使い、世界を救うのだ。」
「——すべては、お前にかかっている。」
言葉が消え、静寂が訪れた。
けれど、僕の手の中には——確かに、温もりを持った辞書が残されていた。
私の初めての作品です。
つたない文章ではあると思いますが、
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