幸薄王女の解放宣言~仮面皇帝に嫁ぐ前に、新天地で嫌われ度ゼロ生活を楽しみます~
「アニエス様、謁見の間へお急ぎくださいませ。国王陛下が今すぐお呼びとのことです」
朝の身支度を済ませたばかりのアニエスは、小間使いの慌ただしい声に眉をひそめた。呼び出しの理由など聞かなくてもわかる。どうせ政略結婚に関する話に決まっている――そう確信しながら、アニエスは重い気持ちを抱え、静かに玉座の間へと足を運んだ。
王都で「幸薄王女」と呼ばれるアニエス。父王は彼女を厄介者としか見ていない。周囲からは「陰気なオーラを纏う不運な姫君」と陰で囁かれ、誰もが彼女を避けるかのように接していた。そもそも母親が早世したこともあり、幼い頃から十分な愛情を受けた覚えがない。それでも王女の役目として教養や礼儀作法を叩きこまれ、縁談が来れば国の役に立つため犠牲になる――その運命を受け入れるかのように耐え続けてきた。
だが、彼女には“前世の記憶”がある。生まれ育った世界は全く違う場所だったが、ふとしたきっかけで記憶が蘇り、自分がこの国で迎えるであろう未来を断片的に知ってしまった。実は、これから嫁ぐ相手、仮面皇帝としてその名を轟かせるマルセルは、表向きは礼儀正しく寛容な皇帝だが、裏ではその仮面のせいか感情が読みづらく、周囲を遠ざける謎多き人物。その彼に正妃として迎えられても、アニエス自身は大して大切にされず、形ばかりの夫婦生活を強いられるだけ――そんな未来を見てしまったのだ。
「もしあの未来が真実なら、また私は“幸の薄い姫”のまま……」
それならばいっそ、自分の足で人生を切り開こう。王家も仮面皇帝も、周囲の目もすべて捨てて、新たな地で自由に生きたい。そう決意したアニエスは、周囲が寝静まる深夜を狙ってこっそりと城から抜け出す算段を立て始めていた。
「アニエス、おまえには仮面皇帝マルセル陛下に嫁いでもらう。これで王国と帝国の同盟は更に盤石になる。王女としての務めを果たせ」
玉座に腰を掛けた父王が、唐突にそう言い放った。アニエスに意見を求める声など、最初から存在しない。
「かしこまりました、父上」
うつむき、低い声で返事をすると、父王は勝手に話を進める。
「婚礼の準備は既に執り行われている。予定の日程に合わせ、おまえは当日まで大人しくしていろ。わかったな」
「……はい」
父王の言葉に逆らおうものなら、容赦なく幽閉されるかもしれない。少なくとも、アニエスにはそういった可能性を疑うだけの理由があった。だからこそ、表面上は従順な態度を保つ。けれど心は既に決まっている――いずれ出奔し、自分だけの自由を掴み取るのだ、と。
そして遂にその夜。城の裏門には、古くから仕えている女官のフリオナがひっそりと待ち構えていた。
「アニエス様、本当に行かれるのですね。私がついていけば心強いでしょうが、あいにく私は城を離れられません。どうかお気をつけて」
「ありがとう。フリオナには感謝してもしきれないわ。行き先は私だけが知っている場所だから、きっと追っ手も簡単には来ないはず。あなたも元気でね」
力強くフリオナの手を握りしめ、夜の闇にまぎれて馬車に飛び乗った。これで王家のしがらみから解放される。いつもは縮こまっていた胸が、不思議なくらいに弾むのを感じる。
辿り着いた先は、王都からかなり離れた辺境の小都市サフェイル。ここは近年急成長を遂げ、冒険者や商人が多く集まるようになったが、土地柄ゆえか「実力ある者は平等に扱う」という風潮が根付いているらしい。身分にとらわれない風土に惹かれ、アニエスはこの地を選んだのだ。
「さあて、今日からはただの『アニエス』として生きるのよね」
王宮ではほとんど感じられなかった高揚感が湧き上がる。人手不足の商店なら雇ってもらえるかもしれないと考え、一軒の小さなカフェを訪ねた。町の中心通りから少し外れたところにあるが、窓辺からは鮮やかな花が見え、落ち着いた雰囲気が漂っている。
「すみません、アルバイトを探していませんか?」
そう尋ねると、中から出てきたのは穏やかそうな店主の男性だった。彼はアニエスの服装こそ質のいい仕立てだと気づいたようだが、「経歴とかは関係ないよ。やる気があるなら、明日から早速来てくれ」と二つ返事で雇ってくれたのだ。
翌日から、アニエスはカフェの接客係として働くことになった。開店前の仕込みでは新鮮な野菜を切ったり、パン生地をこねたりと初めての作業ばかり。慣れない手つきながらも、一生懸命に学ぼうとするアニエスに、店主や周囲の人々は親切に教えてくれる。
「こんなに親切にしてもらえるなんて……」
アニエスは驚きと嬉しさで胸がいっぱいだった。王宮では歪んだ遠慮しか向けられなかった。だがここでは、彼女の人柄や努力をそのまま受け止め、必要とする声がある。初めての自由であり、初めての居場所。アニエスにとっては、まるで夢のような日々だった。
そんなある日のこと。カフェの常連客から、アニエスはある情報を耳にする。
「なあ聞いたか? 仮面皇帝陛下がこの辺境まで視察に来るらしいぞ」
「あの仮面皇帝か……何でも先月、突然に縁談を蹴られたとかいう噂を聞いたが?」
「詳しくは知らないが、王都側の王女が行方をくらましたらしい。それを探すためとも言われてる」
アニエスは心臓がはね上がるのを必死に抑えた。まさか本当にここまで追ってくるのか。自分がここで働いているとバレたら、王宮へ強制送還される可能性もある。だが同時に、このカフェでの生活を諦めたくない気持ちも強い。考えあぐねた末、彼女は店主に打ち明けた。
「実は私……王都から逃げ出してきた者なのです。もし仮面皇帝陛下が私を捜していたら、ここにいると分かった時点で、皆さんにも迷惑をかけるかもしれません」
「そうか……でも、君が何者であろうと構わないよ。ここでは『頑張って働いている人間』が歓迎される。誰かの命を危険にさらすわけじゃないなら、気にしなくてもいい」
店主の言葉に、アニエスはほろりと涙をこぼした。追われる身だという恐れがありながらも、周囲の人々が受け入れてくれる。その温かさに救われたのだ。
ところが数日後、本当に仮面皇帝マルセルが一行を連れてサフェイルを訪れた。町の広場で催される式典で挨拶し、その後は町を視察するという。もともと小都市ゆえに有力な貴族もほとんどおらず、大通りには庶民たちが大勢集まって歓迎している。その様子を横目に、アニエスは今日もカフェで忙しく働いていた。
「おい、仮面皇帝陛下の随行がここの通りに来るみたいだ。大丈夫か?」
他の店員が心配そうに声をかける。すると、ドアが開いて、まさに仮面をつけた男が数名の護衛を従えて入ってきた。
「ここで昼食をいただきたい。よろしいだろうか?」
マルセルは、低く通る声でそう尋ねる。仮面越しに表情は読み取れないが、堂々とした佇まいは皇帝の威厳そのものだった。アニエスは手元のトレイを落としかけたが、何とか気丈に振る舞ってメニューを差し出す。すぐには彼女だと気づかないだろう、そう思って。
ところが、マルセルは席に案内された途端、視線をアニエスに向けた。そして口元に手をやりながら、ゆっくりと立ち上がる。
「……ずいぶんと活き活きしているじゃないか」
初めて聞くその声――いや、王女としての公式行事で一度だけ言葉を交わしたことがあったが、目の前で仮面を外す姿を見るのは初めてだった。仮面の下には、意外にも穏やかな眼差しがあった。
「アニエス、いや、王女殿下。王都からいなくなってずいぶん経つが、まさかここにいたとは」
「どうしてわかったの……?」
「私はあなたが思うほど無関心ではない。消えた婚約者を捜すのは当然のことだろう?」
その瞬間、周囲の客がざわつく。カフェの人々がアニエスを見る目つきが変わるかもしれない。そう思ったが、店主は落ち着いた声で客たちに言った。
「大丈夫だ。皆さん、どうぞいつも通り食事を楽しんでください。この店はどなたでも歓迎しますよ。皇帝陛下にも、美味しい料理をゆっくり味わっていただきましょう」
客たちも何となく店主の態度に引きずられ、少しずつ平静を取り戻していく。アニエスも、戸惑いながらも皇帝のために料理を運び始めた。
視察の一行が落ち着いて食事をとるあいだ、マルセルはずっとアニエスを見つめていた。彼の仮面はテーブルの端に置かれたまま。その素顔は無表情に近いが、どこか複雑な思いが宿っているようにも見える。
食事が終わると、マルセルは周囲の護衛たちを下がらせて、アニエスに声をかける。
「話がある。少し歩こう」
連れて行かれた先は、カフェの裏通りにある静かな路地だった。誰もいない場所で、マルセルはアニエスをじっと見つめる。
「王都での扱いを知っている。あなたがどれだけ苦しい思いをしていたか、私なりに聞き及んでいた」
「……そうですか」
「正直に言おう。私は同盟維持のためだけに結婚を押しつけられている身だと聞いたとき、あなたに興味を持っていた。どんな方なのかとね。それでもあまりにも近寄りがたい雰囲気があったというか……」
マルセルが視線を落とす。一方、アニエスはまっすぐ彼を見つめ返した。
「私だって、ただ従うしかなかったんです。自分の気持ちはどこにもなく、ただの道具扱い……だから逃げたんです。この街で、初めて一人の人間として受け入れてもらえた。私には、もうこの場所を失いたくない理由があります」
マルセルは重々しく息を吐いた。
「やはり戻るつもりはないのか。あなたを連れ帰れと、王都からも強く要請が来ている。だが、その場しのぎの結婚で、王女を拘束して何になる? あなたがこの店で働き、輝いている姿を見れば……」
彼は途中まで言いかけて言葉を切った。そして、そっと仮面を手に取ると、再びそれを顔に装着する。
「私は皇帝という立場上、『国のため』を理由に多くのことを断行してきた。けれど、今になってわかったよ。あなたをここから力ずくで連れて行くのは、誰も幸せにしない」
アニエスは目を見開いた。彼は冷酷だと思われているが、こうして目の前で心の一端を晒している。思わず、聞かずにはいられなかった。
「あなたは……仮面の下で、本当は何を思っているの?」
「仮面をつけ始めたきっかけは、幼少期の事故でできた傷を周囲に知られたくないという小さな理由だった。だがいつしか、“仮面の皇帝”という威光を利用するための道具になっていた。そして今も、帝国を支えるためには必要だと考えている」
マルセルは仮面に手をやったまま、かすかに笑みを浮かべる。
「だがあなたと私は、似ていると思う。どこかで『与えられた立場』に閉じ込められ、その役割を演じるしかなかった。でもあなたは自分で道を切り拓いた。私にはできないことだった」
その言葉が、アニエスの胸に小さな灯をともす。
「もし、私が望むなら、自由のままでいていいと……?」
マルセルは無言で頷いた。まるで何かを諦めたようにも見えるが、その瞳にはどこかすっきりした光が宿っている。
「私は一度、あなたを失った。いや、実際には手に入れられてなどいなかったのかもしれない。だからこそ、再びあなたを縛るようなことはしない。あなたが自分で決めればいい」
――かつて王宮で、誰も自分の意思を尊重してくれなかった。それなのに今、仮面の皇帝が「あなたが決めろ」と言っている。戸惑いと同時に、不思議な安堵感があった。
「私は……暫くはここで働きたい。私自身の力で生きていけるかを確かめたいんです」
その答えに、マルセルは静かに頷く。
「そうか。ならばそれを尊重しよう。後日、正式に“婚約解消”の申し入れを行う。王都に何と言われようとも、私が責任を持つ」
「責任、ですか?」
「そうだ。あなたがこのまま姿を消しても、どうせ王国はあなたを責めるだろう。しかし帝国との同盟を重んじる限り、私の判断を無視はできない。むしろ、私から見れば、彼らがあなたにしてきた仕打ちこそ問題がある。自分たちの行いに気づくのが遅かったようだが……いずれにせよ、これは大きな転機だろう」
言い知れぬ安堵がアニエスの胸に広がった。何年も抱えてきた重圧が、すっとほどけていくようだった。
そして数週間後、本当に王都から「アニエスを連れ戻せ」との書状がマルセルのもとへ届いたという話を、遠巻きに噂で聞いた。だが帝国の使者は頑としてそれを拒否し、「婚約そのものを白紙に戻す」と通達を下した。結局、王都側は強く反論することができず、うやむやのうちに“アニエスはもう帰らない”という事実を受け入れざるを得なくなったらしい。
初めて手にした自由を満喫するアニエスのもとに、ふいにマルセルから一通の手紙が届く。「そちらのカフェの評判が上々だと聞いた。また近くで大きな市場が開かれる際には、ぜひ訪れたい」という丁寧な挨拶状。彼はまだ帝国の統治に忙しくしているようで、そうたびたび来られるわけではないらしい。
――あの時、仮面の下の真剣な瞳を見て、もう少し話をしたいと思った自分がいたのも確かだ。
カフェでの日常を楽しみつつ、アニエスはこっそり手紙の返事を書く。話したいことが山ほどある。それをひとつひとつ積み重ねながら、いつか新しい関係を築いていけるかもしれない。もう「幸薄」などと言われる日は来ない。彼女は自分の意志で、笑顔で、これからを生きていく。
「ここは嫌われ度ゼロ。私らしくいられる最高の場所。それを教えてくれたあなたにも、心からお礼を言いたいわ。次に会ったときは、きっと――」
手紙を書き終えると、アニエスは満ち足りた表情でペンを置いた。仮面皇帝との婚約という鎖は解かれ、新天地での暮らしはすこぶる快活。誰からも干渉されず、評価は実力しだい。ようやく掴んだ「自分らしく生きられる人生」に、大きな希望を抱きながら、今日も彼女は辺境の小都市サフェイルで笑顔を振りまいているのだった。
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