act.7
「し、失礼いたします」
俺の声は無様にも震えていた。この家の当主で雇い主である旦那様直々に呼び出されたのだ。緊張しない方がおかしいと思う。
「入ってくれ」
朗々とした旦那様の声が響いて、俺はゆっくりと書斎のドアを開いた。
次の瞬間には回れ右をしたくなる。部屋の中央の立派なデスクに座った旦那様が、険しい表情でこちらを見据えていた。そのすぐ側には旦那様の執事の黒沢さんまで控えている。逃げ出しそうになる身体を叱咤して、俺は一礼してから部屋へと足を踏み入れた。
こうして呼び出された時から、俺にはもしかして……と思うことがあった。そして今部屋の中に漂う緊迫した雰囲気に、疑惑が確信へと変わっていく。
おそらく旦那様は、俺と総一郎さまが親密な関係になり始めていることに気付いている。だから俺のことをわざわざ呼び出したのだ。
デスクの前まで歩み寄ると、旦那様は組んでいた腕を外して、引き出しから分厚い封筒を取り出した。それを見た瞬間、心臓が跳ねた。
もしかしてあれはドラマでよく見る手切れ金ってやつじゃ……。
総一郎さまと付き合っていると思われている俺は(決してつき合っている訳ではないのだけど)この手切れ金を持って屋敷を出て行ってくれと叱咤されるのではないか?
封筒から目が離せないでいると、旦那様が静かに口を開いた。
「話とは、君と総一郎とのことだ」
「……はい」
やはりそうか、と胸が重くなった。
「総一郎はすこし変わった子だ。親の俺でも、あいつが何を考えているのかさっぱり分からないことがある」
「あぁ、……それは、俺もです」
馬鹿正直に答えてしまった俺に、旦那さまはしっかり頷いてみせる。
「それに誰に似たのか頭が硬い。一度決めたら梃子でも動かん。君にもたくさん迷惑をかけただろう。申し訳なく思っている」
「旦那様、そんなことは」
その言葉に俺は必死で頭を振った。
旦那様は、なんの経験も資格も持たない俺を雇い入れてくれた。そんな大きな恩を仇で返すようなことをしている俺に、まだ暖かい言葉をかけてくれるのか。ありがたい気持ちと申し訳ない思いで目が潤んでくる。
「だが、それでもあいつは西園寺家の跡取りだ。だから――」
「あの! 俺っ!」
俺は急いで旦那様の言葉を遮った。こんなに良くしてくれた恩人に、この先の言葉を言わせる訳にはいかない。こんなに優しい人に、「息子と別れてくれ」なんて残酷な言葉を言わせるわけにはいかないのだ。
「あの……大丈夫です。ちゃんと分かってます」
俺の存在は邪魔でしかない。西園寺家のためにも、総一郎さまのためにも。それなら俺に出来るのはひとつ。身を引くことだけだ。
「……そうか」
旦那様はほっとした顔で頷き、「ではこれを……」と例の封筒を俺の方に滑らせてきた。
俺は無理やり微笑んで、首を振った。
「これは受け取ることは出来ません」
瞬間なぜか旦那様は「え」、というような顔をした。隣に控えている執事の黒沢さんまで、まったく同じように「え」という顔をしている。
どうしてそんな顔をしているのだろう。お金を受け取らないことをまるで予想していなかったような顔だ。もしかしてこれから無職になる俺の今後の生活を心配しているのだろうか。どこまで優しい人たちなんだろう。でもそれは無用の心配だ。
「これは、俺には、必要ありません」
俺は旦那様の目をまっすぐに見て宣言した。
「なくても、どうとでもなります」
穏やかに微笑んで見せると、旦那様は目をぱちぱちさせた。
「いや……しかし木島くん。これがないとどうにもならないのだが」
「大丈夫です、どうにでもなります」
自信満々に頷くと俺と、口をぽかんと開けた旦那様と黒沢さん。
…………。
あたりに沈黙が下りて、俺が「あれ?」と思い始めたとき。
部屋のドアが急にばーんと開いた。
「失礼します!! 話は終わりましたか!!」
勢いよく部屋に入ってきたのは総一郎さまである。
ふいの闖入者に慌てたのは俺だ。きっとこの話もこの手切れ金も、俺と旦那様との間だけで終わらせるべき類の事で、総一郎さまの耳には入れるべきではないはずだ。
焦る俺を後目に、なんと総一郎さまは俺に抱きついてきた。
「ぎえっ」
力強い彼の腕に背中を絞め上げられて、俺の口からはカエルが潰れたような声が漏れ出る。
「和希、もちろん承諾してくれたのだろう?」
ぎゅうぎゅう俺の身体を万力のように絞めながら、総一郎さまははしゃいだ声を出す。旦那様が眉をしかめて、総一郎さまに聞いた。
「……おまえ、木島くんに了承を得たんじゃないのか?」
「いえ、断られるわけはないので、特に言いませんでした」
総一郎さまは朗らかに笑う。そんな息子を見て旦那様は頭を抱えた。
「なあ木島くん、さっきの話は本当に大丈夫か? こいつにこれからもずっと振り回される君の苦労を思うと、親としても心が痛いのだが……」
「ははは! それでは俺と一緒に、和希に頭を下げましょう!」
ふたりの会話に、俺は「あれ?」と首を傾げた。なんだか話が見えない。俺は今、ここを解雇されたのではないか?
呆然と立ち尽くす俺に、総一郎さまと旦那様が「どうした?」と首を捻る。
…………どうしたもなにも。
「俺、今、解雇されましたよね?」
一瞬の後、
「はあっ?!」
「なんだって!?」
「ええっ?」
黒沢さんまで一緒になって、三人は三者三様、鬼のような顔で叫んだ。
「え、違うんですか?」
俺はあまりの三人の勢いに一歩身を引く。
「どういうことですか父さん!」
「俺は知らん! どういうことだ黒沢!」
「私にも分かりません! どういうことだ木島!」
最後にはなぜか俺に質問が返ってきた。それは俺が聞きたいことだ。
旦那様は青い顔をしながら封筒を逆さにした。封筒の中身が机の上に散らばる。それは俺が予想していた札束などではなく、いくつもの折り畳まれた書類だった。
「君はこれに承諾してくれたのではないのかっ!?」
突きだした旦那様の手に握られていたのは、一万円札ではなく一枚の紙だった。俺は手に取り、書類をさっと読んで驚きの声を上げた。
「……え? ……雇用契約書?」
慌てて旦那さまの顔を見る。
「えっ? ええっ? これって……」
「ああ、そうだ。君をゆくゆくは総一郎の秘書にどうかと思っていたのだが……。その反応だと、何も聞かされてなかったようだが」
――――秘書?
俺が、総一郎さまの秘書だと?
あまりの驚きで足から力が抜けて、俺はすとんとしゃがみ込んだ。
「俺、ここを辞めなくてもいいんですか……?」
信じられない気持ちで旦那様の顔を見る。旦那様はやれやれと頭を振った。
「もし木島くんを辞めさせたりしたら、俺は総一郎にも良太郎にも、久子さんにだって怒られてしまう」
「そうだぞ和希。そんなことは地球が滅んでも起こるわけがない」
総一郎さまは床に片膝を着いて、呆然としゃがみこむ俺に手を差し伸べた。顔をのぞき込むとやさしく微笑んだ。
「本当に……本当にいいんですか?」
ここにいてもいいのか。総一郎さまの手をとっても、本当にいいのだろうか。
俺の迷いを感じ取ったのか、総一郎さまが俺の中途半端に上がった右手をぐいっと引っ張った。途端に暖かい温もりに包まれる。
「もちろんだ。ずっと側にいてくれ、和希」
耳元に吹き込まれた言葉がじんわり胸まで伝わると、喉から熱いものがこみ上げてきた。
俺は総一郎さまの胸元に顔を埋めて、言葉にならない嗚咽を吐き出したのだった。