act.2
この家――西園寺家に使用人として俺が勤め始めたのは、今から一ヶ月前のことだ。
西園寺家は代々飲食業を営んできた一族で、旦那様の英一郎さまは六代目の当主だ。初めは鎌倉に牛すきの店を出したのが始まりで、現在では関東地方を中心にイタリアンレストランや居酒屋、ダイニングバーなどを経営しているらしい。茶道の師範でもある奥様の久子さまは、他に茶道教室も経営している。
当然夫婦ともに多忙。よって西園寺家では、広い屋敷に何人もの使用人を雇っている。その中のベテランのメイドが高齢のため辞めることになり、その後釜に据えられたのが俺だったというわけだ。
「うちには二人の息子がいますが、上は大学生で下は高校生ですので手を煩わせることはないでしょう。息子たちの世話は学校の送り迎えぐらいだと思います」
面接で奥様にこう言われ雇用契約したはずが、蓋を開けてみればこの息子が……しかも大きい方のご子息が問題大ありだったのだ。
「うまい!」
その問題の男は、今日も朝から豪快にロールパンにかじり付いている。
「和希の用意した食事はいつもうまいな!」
きりっとしていればそれなりに端正な顔つきだし、佇まいも身のこなしもスマートでさすが御曹司という感じなのだが、にこにこと満面の笑みで見上げてくる総一郎さまは尻尾を振る大型犬にしか見えない。
早くも空になったカップにコーヒーを継ぎ足し、俺は苦笑した。
「……ありがとうございます。そのようにシェフに伝えますね」
閑静な鎌倉の高級住宅地に佇むこのお城のような西園寺家には、俺を含め五人の使用人がいる。シェフがひとり、旦那さまの秘書でもありこの屋敷と取り仕切る執事がひとり、所謂メイドさんのような女性の使用人がふたり、そして俺。
使用人が五人もいればかなり大所帯で余裕があるかと思いきや、仕事は多種多様限りはないので、一番下っ端の俺は暇なし独楽鼠のようにくるくると動きっぱなしだ。
でも身体を動かすことが苦ではない俺にはこの環境も性に合っていると思う。同僚たちとの関係も良好だし、給料も申し分ない。今までのことを考えると最高の労働環境とも言える。このご子息の存在を除けば、だが。
空になった皿を下げようとした右手が不意に取られ、俺は「んぎゃっ」と小さな悲鳴を上げた。
「……あの、総一郎さま」
恨みがましい俺の声もなんのその、総一郎さまはにっこり笑って俺の手をぎゅっと握り込む。
「今日は大学が三限からだ。それまで市立図書館へ行きたい。課題の調べ物をしたいんだ」
俺はさりげなく手を振りほどきながら頷いた。
「わかりました。それでは支度が終わったらお呼びください。図書館まで車でお送りします」
もちろん運転するのは俺だ。
話しながら今日一日の動きを考える。まずは総一郎さまを図書館へ送って、その後食料品の買い出しを済ませてしまおう。あ、その前に旦那さまの預けていたスーツのクリーニングを取りに行って、午後から奥様のご友人がいらっしゃる予定だから和菓子屋でいつもの水菓子を買いに行って、そしたら図書館へ総一郎さまを迎えにいって……。
「図書館には君にも同行してもらいたいのだが」
「えっ」
頭の中で今日の仕事の算段を組み上げていた俺は、総一郎さまの言葉に、使用人にあるまじき声を上げてしまった。その声を聞いた総一郎さまが、困ったように眉毛を下げる。
「……だめだろうか?」
もちろん一介の使用人の俺は否とは言えず。
「もちろん大丈夫でございます」
と、下手くそな笑顔を頬に張り付けたのである。