30 天からの落とし物
「源さん正気かよ」
馬券を買おうとしている源次郎の腕を花山が引っ張った。
「おい、離せ」
「考え直した方がいいよ。なあ、100万円って言ったら大金だ。うまいメシを食えて、いい酒を飲めて、高級ソープにだって行けるんだぞ。それをドブに捨てるなんて」
「ドブに捨てるだと? 馬鹿なこと言うんじゃない」
源次郎は72歳だった。いまさら、飲み食いや女に執着は無い。というよりも、そんなものに金をかけても猫に小判だ。何故、猫に小判かはいまさら語る必要もないことだ。歳を取るというのはそういうことだ。
発端は、源次郎の脂汗の浮かんだ禿頭になにかか落ちてきて貼り付いたことからだ。
「くそう、鳥の糞か」
横にいた花山が笑った。
「キョンシーだ」
「何、キョンシーだと?」
キョンシーと言えば中華系の妖怪だ。
そんなものに取り憑かれてたまるかと源次郎は拳を構えようとしたが、それよりも十字を切った方がよいのかと迷った。
「違うよ源さんがキョンシーみたいなんだよ」
そう言われて額のあたりに何か紙が貼り付いているのに気が付いた。
「なんだ紙か。くそう、これが髪だったらよかったのに」
「……」
花山は横を向いた。
そのダジャレはベタすぎてウケなかった。
源次郎が紙切れを取って見ると、なにやら数字が印刷された領収書のようなものだった。
「おい、花山、これはなんだ」
花山は源次郎から紙切れを受け取るとそれを凝視した。
「源さん、これ預手だよ」
「預手?」
「銀行の自己宛小切手だ。現金と同じだよ」
「なんだって」
「しかも額面は100万円だ」
「お前、なんでそんなことに詳しい?」
「バブルの頃に地上げの手伝いをしていて、代金の決済に使っていた」
「そうか」
その後、花山は銀行まで付き添ってくれた。そして本当に源次郎は100万円の現金を手にした。
それが数日前の話だ。
そして、源次郎は今、花山と競馬場に来ていた。
そして、カミセコーという勝ち知らずの単勝オッズが100倍の馬に、単勝の一点張りで100万円を賭けようとして花山に止められているところだった。
「一攫千金なんて、そんなうまい話は無いよ。なあ、悪いことは言わない。やめた方がいい」
「万馬券なんて狙っていねぇよ」
「じゃあ、何故、あの馬に賭ける」
「あいつは俺達の代表だからだ」
源次郎は遠い目をして言った。
生まれた時から負け犬の奴なんていない。
源次郎だって赤ん坊の時は、両親から期待と愛情を注がれたヒーローだった。だが、成長するにつれ、勝つ奴と負ける奴に分かれる。
そして、源次郎は負け組だった。
最期には挑戦することも止めた。
「カミセコーは負けても、負けても、まだ戦っている。だから応援したいんだ」
「源さん、その気持ちは分かるよ。あいつに夢を託しているんだろ。でも、結局、俺らの夢が叶うなんてことはない。それが勉強が苦手な俺らが、苦労して社会で学んだことじゃないのか」
「分かっているさ。俺らのたった一つの小さい夢だって、叶うことがないのが現実だってことくらい」
「なら、どうして……」
「花山、お前はひとつだけ間違っている」
「何が?」
「夢はな、叶えるものじゃない。追いかけるものだ」
「むずかしいこと言うなよ」
「なあ、花山、お前の人生は幸せだったか、それとも不幸だったか」
「そんなこと急に訊かれてもわかんねぇよ。不幸と言えば不幸だが、でも悪いことばかりでもなかった」
「だろう。幸せなだけの人生も、不幸なだけの人生も無いんだよ。あるのは幸せな時と、不幸な時だ。それが交互に来るのが人生ってもんだ」
花山は黙った。
「それでな、花山、俺は考えたんだ。これまでの人生で何か生きがいを感じて幸せな気持ちになれた時って、何をしている時だっただろうってな」
「なにをしている時だったんだ」
「夢を追いかけている時だったんだよ」
「……」
「だから、最期にもう一度だけ夢を追いかけてみたいんだ」
「分かった。そこまで言うのなら、俺はもう何も言わないよ」
そう言うと、花山は馬券売り場に歩いて行った。そして、カミセコーの単勝に1万円分の馬券を買って戻ってきた。
「おい、お前……」
「源さん、俺もいい夢をみさせてもらうぜ」
そう言うと花山は歯を見せて笑った。
[現在の給付金の残金100万円]




