29 きれいごと
静子が、粉ミルクや哺乳瓶、紙おむつ、離乳食などを山のように抱えて帰ると女はそこにいた。
静子は、この女はまだやり直せると思った。
別に女がお礼の一言も言わないで、静子の部屋から金目のものを盗んで逃げても構わないと思っていた。
「逃げなかったんだね」
「そんなこと……」
「ほら、これ」
女に買ってきたもの一式を渡した。
「台所や洗面所は自由に使っていいから」
女が子供にミルクをやったり、おむつを代えたりして一段落つくのを待った。
「さて、あんたと話をしなくちゃね」
女はうつむいた。
「死ぬのは勝手だが、子供を道連れにするのは感心しないね」
女はキッと顔を上げた。
「だから、赤ちゃんポストに」
その言葉を静子は遮った。
「親のいない子供の気持ちを考えたことはあるのかい。親に守ってもらえない小さい子がどんな目にあうのか想像したことはないのかい」
「私だって、それは思いました! でも私がいても、その日のご飯すら食べられないんですよ! 施設に引き取られた方がどれだけ幸せか」
「それで、自分は死ぬつもりだったのかい」
女はうなずいた。
「馬鹿だね」
「そうよ! 馬鹿ですよ。学歴も何もないただの馬鹿ですよ。それに男にも裏切られて、捨てられて……」
女は泣き出した。
「こんな部屋に住んで、何不自由無い生活をしているあなたなんかに私の気持ちが分かるはずない。子供が辛い生活を送るようになるとか、まるで見てきたようなことを言って、あなたにそんなことが分かるはずないじゃない! きれいごとの説教なんて、もうたくさんだわ」
そう言われて静子の脳裏には過去が走馬灯のように映し出された。
静子は孤児だった。
親の顔は覚えていない。
ひもじい思いはいつもしていた。
食べ物に飢えていた。
愛情に飢えていた。
だが世の中は弱肉強食だった。
親がなく、金も、保護してくれる人もなく、女で子供だった静子は常に強者の餌食だった。
暴力を振るわれたり、強姦されるなんて日常だった。
施設の先生にも犯された。
行為の後、他人に言ったら殺すと言われて首を絞められた。
13歳の時のことだ。栄養が足りていない静子はまだ初潮前だった。
男に騙されて捨てられた経験も一度ではない。
持っているものはいつも奪われた。
立ちんぼもした。
刑務所にも行った。
刑務所で伝説の掏摸と呼ばれる師匠に出会わなければ、とっくにくたばっていたはずだろう。
今こうしてこうして生きているのが不思議なくらいだ。
「あんたの言うとおりだよ。私にはあんたの気持ちも、その子の将来も分からない」
静子の言葉に女は拍子抜けしたような顔をした。
「なら、どうして……」
「もう見たくないし、聞きたくないんだよ」
「何をですか?」
「母親を求めて泣き叫ぶ小さい子の悲鳴だよ」
女は泣き崩れた。
「あんたのいう通り、きれいごとだけじゃ何も解決しない」
女は放心したような顔を上げた。
「だから、これを持ってゆきな」
子供にお菓子を渡すように静子は女に小切手を握らせた。
「これは?」
「銀行に持ってゆけば2000万円の現金になる」
女は言葉を失った。
「2000万円の現金を手にしてから、もう一度、その子を捨てて自殺するかどうかを自分でよく考えな」
そう言うと買ってきたベビー用品をデパートでもらった大きな紙袋に詰めて、女にもたせると、家の外に送り出した。
「全く、世話が焼けるよ」
そうつぶやくと静子は女が食べた後の食器を洗った。
(さて、残ったこの100万円はどうしようかね)
外から賑やかな音楽が聞こえて来た。
それはワゴン車で移動販売しているパン屋が流すメロディだった。
小切手を手にしたまま静子はパン屋が来たかを確認しようとマンションのベランダに出た。
その時、突風が吹いた。
小切手は静子の手から離れて風に飛ばされた。
天使のように空を舞った。
飛んでゆく小切手を見送りながら、「しょうがないね」と静子はつぶやいた。
静子は財布を握ると、今すっかりはまっている美味しい焼きたてのパンを買いに行った。
[現在の給付金の残金100万円]




