2-1:湖の白い家
◇◇◇
街道を走る馬車の荷台で、少ない荷物と共に揺られながらルゥは手紙に書かれた場所について考えていた。
この馬車はサスペンションが柔らかいのか、揺れが小さくて考え事には向いている。
焼け落ちた家に残された母の宝箱からは、謎深い武器と、赤色のローブが入っていた。ローブを取り上げると、紋章が刻まれたコインが床に落ち、音を立てた。その後を追うように紙切れがひらひらと落ちていく。地面に着く前に拾い上げたその紙には、文言が書かれていた。
『レーテルブルーの教会へ向かいなさい』
走り書きの命令文は母からのものだとは思う。ただ、レーテルブルーという場所は聞き覚えが無いので、その教会に何があるのかは想像もつかない。……まぁ、そもそも村と祖母の家のある森以外を知らないのだけれど。
村長にレーテルブルーについて聞いてみたところ、目的地とは違う場所らしいが知っていたようで教えてくれた。大昔の王国の居城があった街で、今から向かう王都アインホルムに比べたら規模は小さいが、交易ルート上にあるのもあってそれなりに栄えているということだった。
とりあえず、ヘンゼルとグレーテルと共にまずはアインホルムに行き、そこで準備を整えてからレーテルブルーという街に向かう算段を立てようと思う。この馬車もレーテルブルーは通らないらしいし、今の時点では知らない街へ行くための手段がない。
手紙を折りたたんで鞄の中に仕舞う。
「ねぇ、ルゥ。木の実食べるかい?」
「ありがとヘンゼル」
木苺を食む。
「今ちょっと楽しいんだ」
「馬車に揺られるのが?」
「それも少し楽しいけど、」
楽しいんだ?
「こうして知らない景色を眺めていると、旅をしているんだなって感じられるのが楽しいんだ」
「……ヘンゼルってだいぶ詩的なヤツだね」
「えっ、そう?」
まぁ、確かに。
流れていく木々は森の中でずっと暮らしてきた二人にとっては目新しいのかもしれない。とはいえ、ここまでずっと過ぎ去っていく同じような景色に心を躍らせ続ける体力はない。グレーテルを見ると彼女も同じようで、柔らかめの荷物の上に寝転んで寝息を立てている。馬車の揺れは比較的小さいとはいえ、揺れはするのだが……なんやかんや強いなぁ。
「私は飽きたかなぁ……流石にずっと続くのは」
「そうかぁ……あっ、見て!」
「?」
ヘンゼルは私の背の方を指さした。
振り向くと木々が途切れ、湖が広がっていた。静謐でなお広大な湖は陽光に水面を光らせている。向こう岸は遠く、森の中で見た泉などとは比べ物にならないほど広い。
進む道を辿るように水際に視線を滑らせていくも、岸は延々と続いているようにも見えるほどだ。
「へぇ……いいね」
「すごいね、こんな広い湖初めて見たよ」
確かに、これは旅をしているという気分になる。
馬車は道を逸れて湖の方に寄って行った。
「村長?」
御者の隣に村長は座っている。
「少し休憩じゃよ。馬も休まねばならないし、ここは景色がいいからのぅ」
馬車は岸の平地に止まった。湖岸からは一面の水場が広がり、遠くを良く眺めると、岸だと思ったところが島だったりした。
「暫く休憩しているから、遊んでくるといい」
「ありがとう村長さん!」
ヘンゼルは浮足立った様子で、眠そうに目をこすっているグレーテルの手を引いていった。
「ルゥ、来ないの?」
「今行くよ」
グレーテルはそれまで眠たそうにしていたのだが、湖に足を突っ込んで冷たさにぷるぷる震えているところにヘンゼルが水をかけたところから様子が変わった。反撃を真顔でする様子は可笑しくも空恐ろしい。
私はというと、服を脱いで畳んで、さて混じるかと水面に足をつけたところでふと湖に浮かぶ島に目が向いた。目を凝らすと、島には桟橋があり、その先に道が続いているような様子だった。
はしゃいでいる双子を見る。二人だけでも楽しそうだし、何よりヘンゼルの言っていた"旅"という単語が頭をよぎる。これが好奇心というものだよなと、私は湖面の下に潜った。
湖を泳いで島の桟橋にたどり着く。振り返ると双子たちは遠い。まぁ見える範囲だし大丈夫だろう。軽く散策して戻ろう。
桟橋から続く道は島の中央の方に続いている。靴が無いのでちょっと歩きにくいが、道は奇麗にされているのであまり気にならない。
進んでいくと庭園にたどり着いた。祖母の菜園とは違い、花がたくさん咲いている。アーチ状に飾られた植物に赤い花が咲いている様子なんかはかわいい。
物珍しさに少し固まっていると、庭園の主なのか花に水をやっている女性を見つけた。その女性はこちらに気が付いたようで、つばの広い白い帽子の下から笑顔をこちらに向けた。肩を白く細い髪が流れる。
「こんにちは、お嬢さん」
彼女は目を閉じている。
「ええと、こんにちは」
「珍しいお客さんね。あら、濡れてるわ。どうしたの?」
「湖を泳いで来たので……」
「駄目よ、濡れたままだと風邪をひいてしまうわ。おいで、服をあげる」
願ってもいないが、無償の親切は警戒に値する。少し離れて彼女についていく。
庭園の先には木でできた真っ白な家があった。テラスのテーブルには椅子が二つある。一人暮らしであるなら、客が来るのかもしれない。よく手入れされている。桟橋もあったし、船で誰か来るのかもしれない。
「少し待っていてね」
白い服のその女性は家の中に入って行って、タオルと服を持って戻ってきた。
タオルを受け取って濡れた身体と髪を拭く。服を着ている間、女性はまた家に戻って行った。
服を着た感じ少し落ち着かない。白すぎるのだ……。悪いことではないのだが何というか、ところどころふりふりしているし、ご丁寧に替えの下着も可愛らしいリボンがあしらわれていた。なぜか髪留めなんかも用意されていた。白い服というのは、なんだか清純であれと言われているような気がしてなんとなく恥ずかしい。
「似合ってるわ! さあ座って。濡れた服は乾かしておきましょう」
椅子に座って女性の方を見ると、テーブルにティーカップと菓子が用意されたところだった。菓子!
村を出てから甘いものにありつけていなかった。しかも、出されたのはジャム付きのクッキーだ。思わず手が出る。
「好きなだけ食べていいからね」
それはとてもうれしい言葉だ。
……ただ、同時に違和感を覚えた。どうして私は素直にこの女性の施しを受けているんだ?
手に持ったクッキーと女性の顔を交互に見る。美味しそうなクッキー。女性は優しい笑顔を携えながら紅茶をカップに注いでいる。香りがふわりと立ち上がり、クッキーを食べたい気持ちが増す。
「わたしもいただくわ」
その女性は真っ白なティーカップを口に運び、一口飲む。その後クッキーにジャムを塗ってかじる。
「美味しいわ」
言葉がそのまま表情に反映されているようで、たとえ言葉を発していなかったとしても彼女の気持ちは伝わってきた。
そして人が食べたところを見ると、安心して食べられるような気もするのだ。
……だからこそ違和感を覚えている。状況を俯瞰的に見直すと、この状況はどこかおかしい。いや、突然現れたのは私の方だし、ずぶ濡れだったから親切に思って着替えを出してくれたのだろう。彼女は見た目通り優しい人で、それゆえに、行動通り私のことを心配してくれていたのだと思う。それに子供がお菓子を好きなのは当然で、クッキーにベリーのジャムがついて出てくるというのも特段珍しくはない。
私がクッキーを手に持って止まっている間は、彼女は特に何も言わずに紅茶を用意して、それを差し出してから自分で一服し、クッキーも食べた。
何らおかしいことはない。
だが、えも知れない違和感というか、警戒すべきなのにしていない自分に対する違和感がうっすらと存在する。意識しなければ……意識すればするほど希薄になっていくその違和感に対して、私は彼女とまだ会話をしていないことを思い出した。
クッキーを置く。
「……えっと、あなたは何者なの?」
すると、女性は少しだけ驚いた様子を見せ、しかし優しい表情はそのままで、柔らかい口元で答えた。
「わたしはミラ。よろしくね、ルゥちゃん」
「……え」
私はまだ名乗っていない。
女性――ミラはクスリと笑って、少し申し訳なさそうにした。
「驚かせてごめんなさい。でも、隠すことでもないから、ちゃんというわね。わたしはウィッチ……白魔女なの」
「――魔女」
頭の後ろで警告の鳴子がけたたましく鳴り響いたかのように衝撃を覚え、椅子を蹴とばしてテーブルから、魔女を名乗った女から距離をとる。
「やっぱり、魔女と出会ったことがあるみたいね。悪い魔女と。でも安心して、私は白魔女。あなたが出会ったような黒魔女とは違って、人々と生きていく道を選んだ魔女よ」
ミラは続ける。
「この紅茶は町のヨームさんがこの前お土産でくれたものなの。クッキーの小麦粉は定期的にここに来てくれるハリッサさんにお願いして買ってきてもらっててね、自慢じゃないけれど、美味しく焼けていると思うわ。ジャムは私が裏庭で育ててるラズベリーを使ってるんだけど、ハリッサさんに街で売ってもらってるの。結構評判が良いって聞いてるわ」
彼女はすごく嬉しそうに話す。
「ごめんなさい、あなたを心の底から安心させる方法は無いの。でも、このクッキーもジャムも、紅茶も」
私はテーブルの上にあるものに目線を向けて言葉に出されたものを追う。壺に目が行ったところで、それを見越してなのか、ミラは壺の蓋を開いて続ける。
「角砂糖も全部安全な、普通のものよ」
こちらの警戒を全てあらかじめ予想しているように、彼女は優しく丁寧に言葉と行動で安心を示そうとする。その純真な姿自体も、私の緊張を解きほぐす要素となっている。
狙っているのか、それとも真に優しい人なのか。
普通なら、そもそもここで警戒する理由もないはずだ。(世の中には悪人も居るはずなので、善人のふりをするのがすごく上手い悪人の可能性も無くはないが、そんな稀有な存在に偶然出会って、何故かこちらを騙す理由を持っているなんていうのは、物語的に過ぎる)
だが、彼女は自らが魔女だと言った。白魔女は黒魔女とやらと違って善い魔女だということらしいが、私の中で魔女とは、双子を襲った人食いで、窯で焼かれて死にきれずに呪いを振りまいた危険な存在だ。
……だが、彼女がそんな危ない人には見えないというのも事実ではある。
「直接会ったわけじゃないけど、私が知っている魔女は人を食べて、呪いで獣を操るやつなんだけど……。それが黒魔女?」
「そ、そんなに怖い魔女と出会ったの……?」
驚いて、彼女は口元を手で覆う。
「残滓が弱いと思ったら、そう……あなたは直接は会っていなかったのね。でも、そうね。人を食べるなんてことをするのは絶対に黒魔女ね」
「あなたは違うと」
「わたしはそんな力は無いわ。……どうかしら、あなたはすごく頭のいい子みたいだけど……魔女と縁があるみたいだから、魔女についてお勉強していかない?」
ミラは「そうよ、それがいいわ。お菓子もお茶もあるから、ゆっくりと話せるわ」と優しい笑顔で言う。
全てを信じるわけではないと、自分に言い聞かせながら椅子を戻して座る。紅茶を飲むふりをして、ミラの様子を窺っていたが特に気になる動きはない。彼女は魔女に関する解説を始めた。
「人は生まれながらに、多少なりの魔法の力をもって生まれてくるの。その中でも強い魔法の力を持っている、才能の持ち主が魔女になる資質がある人ね。私もそうで、ルゥちゃんも、そこまで強くはないけど力を持ってると思うわ。それにあなたが知ってる黒魔女も、すごく強い力を持っていた。でも力を持っているだけじゃ魔女にはなれないの。魔女は受け継がれてきた"知識"を元にした秘術をもって、ようやく魔女と呼べるような存在になるわ」
……。……?
「えっと、そうね。魔法の才能を持っていて、そのうえで誰かから使い方を教えてもらった人が魔女。人を食べる魔女っていうのはきっと、すごく危ない"知識"を元にした秘術の使い手だったんだと思うわ。まさに黒魔女という感じね」
「それなら……ミラはどんな、えっと"ちしき"? ひじゅつ? を使うの?」
クッキーを取って口に放り込みながら訊く。
口の中崩れるクッキーから優しい甘さが舌いっぱいに広がる。噛むたびに溶けていくようにホロホロと、しかしクッキーだから水分も多少持って行く。これは……紅茶がすごく合う!
じゃない。
ミラの方を見る。白魔女は私が美味しそうにクッキーを食べてお茶を飲んでとしているのを見てニコニコしている。そしてこちらの意識が向いたところで返事をする。
「私は"少し先の出来事を知ることができる"のよ。それでルゥちゃんの名前も知っていたのよ」
「先の出来事……これから何が起こるかがわかるってこと?」
「そうよ。そんなに大した力じゃないでしょう? 私は目が見えないから、その力を使って生活しているのよ。例えば歩く先で小石に躓くことを知っていれば、目が見えなくてもその石を避けて進めるというような感じでね」
ミラは前髪をかき分け瞼を持ち上げる。瞳は白濁しており、確かに目が見えていなさそうだ。
ミラは大したことが無いと言っているが、それはミラが目が見えないうえに、おそらく危険なことを避けることのみに力を使っているからだろう。
次に起こることがわかるという力は、もっと強力な使い方ができるはずだ。
しかし彼女はそれをしない。今までも未来を見ながら行動を選んでいたなら、彼女の妙にこちらを安心させるような言動に納得もいく。相手が何に眉を顰めるのかがわかれば、先回りして相手に合った言葉を用意できる。
ただ――
「?」
多分ミラは自分を有利にするためにその力を使っているわけではなさそうだ。きっと優しい心根の持ち主で、こちらを不快にさせまいとしているのだと思う。
それに、こんなに美味しいクッキーを作れるのに悪い人だとは思えない。
「その魔法って私にも教えてもらえるの?」
最初に、人は魔法の力を多少なりとも持っていると言っていた。もし使えるようになるのであれば、いろいろ便利そうだ。
「ごめんなさい、私は末代だから、それはできないの」
「末代?」
「わたしは目が見えない時に、お師匠様に拾われて先読みの秘術を伝えてもらったのだけれど、契約で伝えられないようになってしまったの」
「そっか」
契約というのがどういうものかは分からないが、嘘をついている感じではないし、きっと本当に教えることができないのだろう。まぁそもそも、短い時間で教えられるような内容でもなさそうだし、ここでウン年間修行して習得するのだと言われてしまっても、そこまでするつもりはない。
「……そうだわ! 代わりにクッキーの作り方を教えてあげるわ!」
突然だいぶ違う話になったが、それはそれで気になったので、るんるんとキッチンへ向かったミラの後をついていき、美味しいクッキーの焼き方を教えてもらった。コツは生地作りで、そして窯の火の大きさと入れている時間が重要ということを教えてもらった。
その作業の細かい手順を聞いて、母も祖母も、料理や菓子作りは結構適当だったんだなと思い知らされる。そして指示通りに作ったクッキーは、ミラが作ったものには劣るが、美味しかった……。
そうしているうちにだいぶ時間が経ってしまったことに気が付いて、戻らないといけない旨をミラに伝えた。すると桟橋にある船を貸してくれることになった。
「服とか、お菓子とかありがとう、ミラ」
「ルゥちゃんも、お話できて楽しかったわ。またいつでも来てね」
船にのって漕ぎ出す。ミラが言うには、とりあえず櫂を漕いでおけばいいらしい。水先案内人のまじないをかけたから適当に漕いでも対岸までつけるのだそうだ。魔法って便利だ。
手を振るミラをたまに振り返りながら、言われた通り漕ぐ。漕ぎ方はよくわかっていないが、とりあえずまっすぐ進んでいるので、まじないというのがよく効いているらしい。
時間は結構経ってしまっていて、岸の傍でみんなが待っているところが見えた。最初はちょっと見て回る程度のつもりだったのだが、クッキー作りとかを教えてもらっていたら時間が過ぎてしまったのだ。
岸に着いて、次どこかに行くときはあらかじめ伝えるようにと、村長に窘められた。双子も心配してくれたらしく、ヘンゼルは困った顔でどこに行っていたのかを訪ねてきた。グレーテルは無言で服の裾を握った。
島に住んでいた女性にクッキーの作り方を教えてもらっていたら時間がかかったのだと、お土産のクッキーを全員に配って説明した。クッキーは底を尽きた。彼らを心配させた罰か……。
荷台に乗ってからヘンゼルがいろいろと訊いてくるので、「良い魔女と出会った」と教えたら微妙な顔をしていた。グレーテルは気にしていないようだった。ヘンゼルの反応はわかるが、グレーテルはもう少し気にしてもいいのではと思う。
少し時間を食い過ぎたみたいで、馬車は夜の道を進むことになった。御者は大丈夫なのかなと思ったが、馬も御者も休み溜めしたのでまだ行けるとのことだ。夜の湖畔を風を切りながら進んでいく。
月明かりはほんのりと明るい。
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