1-5:森の一家
◇◇◇
それ以降、獣は追ってこなかった。……追ってきているのかもしれないが、少なくとも気配はない。もしかしたら縄張りの外に出たのかもしれない。あの黒い泥のような化け物が、形通りに狼と同じ性質を持つのなら、そういう可能性もある。
それはそうと、濡れたまま歩き続けるのは体力を消耗する。日が暮れてきたから、どこかで火を起こして休まないといけない。そうこうして歩いていると、森の中にポツンと建つ家を見つけた。人の生活の気配がある家だ。少し観察していると、子供が二人と大人の男が一人の三人で住んでいるようだ。子供がいるのなら、危険ではないだろうと思い、姿を見せる。
「ね、ねぇヘンゼル、あそこ……」
妹の方がこちらに気づいたようで、兄に知らせる。
「どうしたの? 君は誰?」
二人は少し警戒している。私の姿はボロボロだが、同い年くらいの子供だ。怖がられることはないと思ったが。
「私はルゥ。ええと、森の向こうの方から来た」
祖母の家がある方向を指さす。おおよその位置だが、多分大きくは間違っていないだろう。兄はその方角に顔を向けて少しほっとしたような顔をした。
「僕はヘンゼル。こっちは妹のグレーテル」
妹の方は少しばかり人見知りが強いのだろう。兄の傍から離れない。
ふと、二人の容姿を見て気がついたが、彼らは双子だ。灰色の髪の長さは違うし、妹の方は縮こまっているから、年の差はあるかと思ったが、そうでもなさそうだ。顔がよく似ている。
「それにしてもルゥ、君はその……ボロボロだね。何があったの?」
「それは――へくちっ! ……。森で獣に襲われて、逃げてきた」
くしゃみをしてしまった。日も低くなって気温が下がってきて、濡れた身体もだいぶ冷えてしまった。
「とりあえず家に入って。火を起こすよ」
ヘンゼルの案内で屋内に入る。風が吹かないだけで相当違う。暖炉に火を起こしてもらい、その前で温まる。
「ルゥちゃんって言ったね。大変だったね、森で獣から逃げてきたんだって?」
父親がスープの入った小鍋を暖炉の上に置き、薪を追加する。
「そう。その途中で滝壺に落ちたの。だからずぶ濡れ」
濡れた服は脱いで、暖炉の近くで干している。代わりの服はグレーテルのものを借りた。背格好が近いのでぴったりだ。ただ、好みとは違うデザインだ。花柄の生地にリボンが可愛い。でもあまり可愛すぎるのは……。
「……ご、ごめんね。わたしのせいで」
家の明かりをつけ終えたグレーテルは相変わらずヘンゼルから離れない。しかし慣れているのか、グレーテルにぴったりとくっつかれているヘンゼルは器用に棚から皿を取り出している。
「?」
「わ、わたしが魔女を、そ、その……殺したから……」
グレーテルは恐ろしい物から目をそらすようにした。ヘンゼルは続きを話す。
「僕らは四日前まで魔女の家に捕まっていたんだ」
「あ、あの魔女、ヘンゼルを食べるって言うから……」
「グレーテルが魔女を殺して僕を出してくれて、家に帰って来れたんだ」
「……で、でも、まだ終わってなかった」
「家に戻ってからずっと、周りが何か変なんだ」
「ま、魔女の呪いだよ……」
「森の中に何か恐ろしいものがいて、夜になると遠吠えが聞こえてくるんだ」
「ううん……叫び声だと思う」
「それも段々と近づいてきているんだ」
二人の言い分は分かった。今までの体験から、単に狼が居るだけだろうとは思えない。世の中には怪物が居る。祖母曰く魔女もいるらしいし、それは恐ろしい存在なのだろう。二人も森に住む魔女に出会っていたのかもしれない。
「その声……音? は昨日はどこから聞こえてきたの?」
近づいてきたというのであれば、二人を狙っている可能性は十分にある。
「すぐ近くだよ。だから君が現れたとき少し怖かったんだ」
それは申し訳ないことをした。
しかし、人が居るところに来さえすれば多少なりとも安全かと思っていたが、ここもトラブルを抱えているときた。……私を追っていた黒泥の獣と関係あるだろうか? 魔女の呪いと言っていたし、何かしら関係はあるような気がする。
「スープが温まったよ。食べなさい」
それまで沈黙していた父親は暖炉の上から鍋を下げ、湯気の上がるスープを器に小分けにして私たちに配った。一口食べる。味は薄いが、温かい物を口にするというのは良い。三人も同じようで、大満足とまでは行かないが少し緊張が解けた様子だ。
段々と近づいてくる獣らしきものの声と、それが昨日はすぐ近くで聞こえたという話。そして私は既に怪物と対峙している。それが同じ物とは限らないが、もし大人の黒泥の獣がまた襲ってきたら……。次も逃げ切れるだろうか。
不安は消えない。そんな時、獣の遠吠えが夜の闇に響いた。近い? そんなものではない。すぐそこからだ。全員の表情が不安に曇る。
何かがこちらに向かって移動してくる、小さい風きり音が聞こえた。
「……来る」
シャベルを手に取る。子の獣はこれで斃せた。しかし、親の獣が来たら絶望的だ。
ガラス窓が激しい音を立てて破られる。獣が一匹侵入した。グレーテルが短い悲鳴をあげて腰を落とす。空いた穴からさらに二匹入り込んできた。黒い泥が床に着地する。
――黒泥の獣、やっぱりこいつらが現れたのは魔女と関係があるんだろうな。
子供の獣ではない。だが、私と祖母を襲った獣ほどの大きさはない。サイズはいろいろあるらしいが、今回は大きさが一般的な狼と同様だ。しかし、数が多い。部屋に侵入してきたのは三匹。まだまだ外にもいる。家を取り囲むように何匹も。
「向こうの部屋に!」
父親は私を含めた子供たちに、奥の部屋に行くように指示して、自身は斧を手に取った。木を切り倒すための重厚な斧だ。子供の獣はシャベルで殺せたが、特大サイズの親の獣はショットガンで怪我すらしなかった。斧はどうだろうか。効果があるだろうか。
ヘンゼルはグレーテルの手を引いて示された部屋に入る。
「君も行きなさい!」
シャベルで対峙する気だったが、彼の気迫に押された。私が部屋に入ると扉が閉められ、真っ暗な部屋からは外の様子が分からなくなった。
「お父さん!」
「父さん……」
二人の父親は、扉を挟んで向こう側にいる。
「静かに、息を殺して隠れているんだ」
暗闇に目を慣らして部屋を見渡す。完全に覆われているわけではない。窓は外と内側の両方から板で塞がれていて、隙間から月明かりが差し込む。
獣が吠えて、父親の叫び声が上がり、鈍い音と激しい戦闘の音が扉の向こうから響く。床に何かが叩きつけられる音、壁に何かがぶつかる音。たまに聞こえていた父親の雄叫びがプツリと途絶えると、代わりに獣が何かを引きずって行く音が聞こえた。
息を呑む。
獣の遠吠えが闇にいくつも上がる。
「……」
扉がバンッと音を立てた。
「っ!」
突き破ろうと何度も何度も体当たりしているのだろう。扉もずっとは耐えられそうにないので、周りを探して支えになる物を集める。やたらと重たい木箱があったのでそれを三人で押して扉を押さえた。その木箱に寄りかかり、動かないようにする。
獣たちの襲撃は1時間ほど続いた。体感では一晩中木箱を押さえていた気がするが、まだ夜は明けていない。動き回っていた気配も家の周りから消え、静かな夜が戻ってきた。
「……とりあえず諦めたかな」
塞がれた窓の隙間から外を窺う。月明かりでうっすらとしか見えないが、獣の気配はない。静かなものだ。
そんな静寂の中で、グレーテルのすすり泣きの声が反響する。
「夜が明けたらここを出て、森を抜ける。二人とも私の村まで避難しよう」
子供3人であの量の獣を相手にすることはできない。自分自身、祖母を探して家を出たのだが、あの獣と再度面と向かった時に絶望的だと悟った。
「……うん」
グレーテルは相変わらず泣き続けている。ヘンゼルは彼女をなでながら、暗い顔で返事をした。
また森の中を進まなければいけなさそうだ。
◇◇◇