1-4:狼 2
◇◇◇
玄関を背に座り込んでいた。ただ立っているだけでも疲れてしまう。待っているうちに、祖母が扉を開けて入ってくるのを期待していた。しかし同時に、どこかでは祖母は帰ってこないだろうなと予感している自分がいた。
明日どうするにも、体力がいる。祖母がいたら叱られるだろうが、食料棚を漁る。
「豆の缶詰、魚の缶詰……別の無いかな。あ、桃缶だ。干し肉と……なんのジャムだっけこれ。ま、いっか。パン残ってるかな」
桃缶美味しい。ジャムをパンに塗って食む。
「ベリーだったか……」
多めにジャムを塗って食べる。この食事は作業だ。特に干し肉を食べていると気分が落ち込む。味は良いのだが、筋っぽいし硬い。口直しに桃缶のシロップを流し込む。
武器になるものを集める。といっても、猟銃本体は祖母が持って行っているので、あまり良いものはない。
兎とか鳥とかを狩るための小さめの弓矢を持ち出す。去年使ったきりなので弦を張りなおす。これだけでは心もとないので、他にないか探す。
「ナイフ……」
皮剥ぎ用の小さいナイフを見つけた。……ステーキナイフも見つけたがこれは武器ではないだろう。無いよりはマシだろうと、皮剥ぎナイフを持って行く。
荷物を整理しながら、この瞬間にでも扉が開き祖母が現れることを期待していた。
暗くなって、自室から玄関まで毛布を引っ張ってきて、くるまって眠る。
朝になり、小鳥のさえずりが聞こえる。目を開いたら祖母がいるなんて夢すら見なかった。床で眠ったから少し身体が軋む。ベッドで寝ればよかったかもしれない。
朝食に最後の桃缶を開け……かけてやめる。これは持って行こう。代わりに豆缶を開けて飲み込む。
家を出て、朝の光に目が覚める。
「行こう」
一歩踏み出したところで、農具箱に目が向く。
「……シャベル」
森の中を進む。日は照っているのに、森の中は暗い。木々のせいではなく、全体に霧がかかっているような感じだ。
逃げて走っていたときの記憶を掘り起こして進み、先日の戦いの場所に戻ってきた。黒い獣の姿はない。祖母の姿もない。
「これは……」
木の銃床は途中で折れている。フォアエンドも何かに引っかかって動かない。銃身も曲がっている。壊れた祖母の猟銃には血液が付着している。鞄のフタに挟むようにして持って行くことにする。
「弾は無駄になっちゃったか」
他の痕跡を探してそれを追う。足跡、血痕、何者かが移動した跡。……黒い泥。森の奥に続いている。
しばらく歩いていると、嫌な気配を感じたので木の上に退避する。現れた獣は先日見たものより小さい、黒泥の狼だ。弓を引き絞る。こちらに気が付いていない今のうちに攻撃を仕掛けようか。
いや、もしこれがあの化け物の子であれば、ここで殺せば親が来る。親の獣はきっと、前に出会った大きな体を持つ個体だ。
小さい獣をやり過ごし、隠れながら痕跡を追い続ける。その中で妙なものを見つける。
「腕だ……」
人の腕だ。指が何本か足りておらず、肉が所々削げている。……祖母のものではない、はずだ。誰のものか確かめるために近づく。動悸が早まるのを感じる。
手を伸ばしたところで、咄嗟に背後を向く。確かめるのが怖くなったのもあるが、何より、振り向いた先にいる子供の獣が放つ気配に今更気づいたためだ。腕に気を取られ過ぎて、すぐ後ろにまで迫っていたことに気が付かなかった。
一瞬の膠着の後、獣は口を開き、牙を剥いて飛び掛かってきた。
矢を射るには遅すぎる。握っていた弓で受けるしかなかった。獣は弓に噛みついて、それでも止まろうとせずに押し込んでくる。矢で頭らしき部分を突き刺す。
獣の唸り声が一瞬高くなった。効いてはいる。親の獣は散弾を止めたが、子供はそこまで頑丈ではないらしい。何度か殴りつけるように矢じりを突き立てると、獣の力が弱くなる。その隙に距離を取った。
「っ最悪……」
弓は折れてしまっていた。
私は普段は狩る側をしていた。祖母と一緒に鹿や兎などを森で狩る。それが、つい先日初めて狩られる側を経験した。そして今は、そのどちらでもあり、どちらでもない。一方的な狩りではなく、向かい合っての対峙は初めてだ。目……は見えないが、視線が交差しているのを感じる。
シャベルを追い紐から外して構える。私は切っ先を獣の面に向け、獣は黒い口から牙を剥き、黒い涎をし垂らせる。
跳んだ獣を横なぎにしたシャベルでとらえる。空中で殴打を受けた獣が地面を転がるのを追う。この隙を逃せば次はない。シャベルを獣に振り下ろす。
「このっ……」
振り下ろす。
動かなくなるまで突き続ける。……動かなくなった後も暫くシャベルを振っていたかもしれない。
「はぁっ……はぁっ……」
獣の子を殺した。そうしなければこちらが殺されていたとはいえ、マズい。とにかくここを離れなければならない。シャベルを片手に走りだす。
とにかく遠くへ行かなければならない。
草木をかき分けて走っていると、突然横から気配を感じ――その時にはもう遅く、打突を受けて宙に舞っていた。崖の斜面に背中から着地し、息が詰まる。そのまま転がり落ち、全身を打ち付けた。下にあった沢に突っ込んで止まった。
……死ぬかと思ったが、とりあえず生きている。水から顔を上げるのも問題はない。
「あい……つは……」
崖上の獣はこちらを一瞥すると走りだした。降りられる道へ向かったのだろう。祖母と出会った獣と同じくらいの大きさだ。
ここに留まっていては死を待つだけだ。重いからだを持ち上げて、沢の流れに沿って逃げる。黒泥の獣の親は、上流の方へ向かっていた。多少なりとも距離を取りたい。
走るのは辛かったが、とにかく足を動かした。しかし、獣の足は速い。もう追いつかれそうだ。
足を止める。先は開けており、水の落ちる音がする。滝だ。背後を見る。獣がこちらに向かってきているところだ。
どうする? 縁から滝つぼを見る。高い。落ちて助かるかは分からない。だが、もう獣は背後まで迫っている。
獣が追いつき、唸り声を上げる。黒い泥の蔓のようなものが何十本も、獣の足元から伸び、蛇のように揺れ、こちらを向いた。
来る。シャベルの柄を握りしめ――
――飛び方は知っているはずだ。
そう声がした。
「飛べ――」
身体を滝に投げ込む。腕を開く。
蔓は宙を切り、私は空を仰ぐ。
鷲の鳴き声が聞こえる。あるいは風を切る音かもしれない。
「!」
空中で回転して姿勢を整えて水面を叩き割り、滝壺に飛び込んだ。そのまま少し泳いで川の方へ出て、顔を水面から出す。
「……」
崖上の獣はじっとこちらを見つめていた。先ほどの様に降りる道へ向かおうとはしない。岸に登ったこちらをただ眺めているだけだ。不気味だが、追ってこないのならばそれに越したことはない。滝を背に走った。
◇◇◇