2-4:夜更け
◇◇◇
目を覚ます。
暗い部屋の中をたどたどしく動く気配に目を向けると、小さな影が部屋の扉を開けて玄関の方へ向かって行ったところだった。グレーテルは毛布にくるまって寝ているが、ヘンゼルの姿が無い。出て行ったのは彼だろう。
夏とはいえ夜は冷える。毛布を持って外に出る。
ヘンゼルは庭にあるテーブルの横でぼんやりと立っていた。
「……寒くない?」
「うわっ……ル、ルゥか」
足音を消して近づいたわけではないから、相当注意が散漫になっているようだ。驚いて後ずさった彼は、差し出された毛布に気付くのにも一呼吸の間が必要だった。
「ありがとう」
「で、何してるの?」
テーブルの横に置いてある丸椅子に腰を掛ける。やはり風が吹くと少し冷える。毛布を羽織る。
「えっと、少し考え事を……」
目が合う。彼は困ったような、少し恥ずかしそうな顔をすぐに下げ、月明かりの影に隠した。そして月を見上げた。
3割ほど欠けた月は淡く私たちを照らしている。
ヘンゼルはちらちらとこちらを見ては、月に視線を戻す。
「……え、何」
すると彼はばつが悪そうにこちらに顔を向けた。
「ルゥはすごいよね。馬車が襲われたとき、僕は何もできなかった」
彼は苦笑する。その嘲笑にもとれる口の形に小さく苛立ちを覚える。
「あの時、僕は少しも動けなかった」
「それが普通だと思うけど。それに、私だってあの時は緊張したよ。あの人数だと勝てなさそうだったし」
「……君は、あの時逃げたいとは思わなかった?」
彼の問は、つまりあの場にいて、逃げるという選択肢を取らなかった理由を訊ねられているのか。
「確かに、一人でなら逃げられたと思う。奴らは夜の森を走り慣れている様子はなかった」
囲まれたら面倒だったが、全方向を固められていたわけでもないし、来た道を戻って白魔女のいる湖を目指すくらいはできただろう。
「けど、一人だけ逃げるのはダメだと思うから」
村長の案内が無いと目的地にたどり着けないという理由もあるが、そうでなくても、逃げ出すという選択肢はあの場では思いつかなかった。
ヘンゼルはため息を一つつくと、もう一つの丸椅子に腰を下ろす。
「僕も君みたいに強かったらな」
彼の気持ちも分からないでもない。自分に力があれば変えられる状況というものは今までも、これからも幾つもあるだろう。彼が思っているほどは私は強くないことはよく知っている。祖母と共に対峙した獣が最初で最大の敵で、それからは逃げる以外考えられなかった。その時は彼と同様に、強さを求める気持ちもあった。
だが、膂力であれ、技術であれ、戦術であれ、すぐに身に付くようなものではない。だから彼の言葉に対する答えは「ひたすら訓練するしかない」くらいしか思いつかない。それを彼に伝える。
「訓練って何するの?」
「えーと……森の中を走ったり、弓の練習したり」
「意外と普通だね」
「そんなもんじゃないかな」
「もっと効率的な力のつけ方もあるぞ」
「ムスケルさん!」
いつの間にか筋肉の塊のような大男が背後に立っていた。ヘンゼルは素直に驚いている様子だが、私は息が詰まる程度にはびっくりした。この巨体が一切の気配もなくいきなり現れた。この男、図体だけではない相当な手練れだ。
「筋肉だ。大抵のことは筋力でなんとかできる」
彼が言うと何というか、説得力……いや、迫力があるせいで納得させられてしまう。
「き、筋肉ですか」
「過去に旅をしていた時がある。その頃は俺もまだひょろっこかった」
この男が細い体を持っていた時期があることは驚きだ。生まれてこの方巨体であったかのような姿なのに。
「一緒に旅をしていたやつがいたんだが、そいつは女なのに滅茶苦茶強いヤツだった。なんでも一人でこなすし、喧嘩もめっぽう強い」
彼は一瞬だけこちらの方を見た。瞳に月明かりに照らされた私が映る。けれど真に見ているのは私ではないような気がした。
「自信を失いかけていたとき、師匠に出会った。師匠は一見普通の体格の男だったが、実は服の下にとんでもねぇものを隠し持っていた。そう、筋肉だ。俺は師匠の下、肉体を鍛えながら旅をした」
ムスケルは「筋肉」というときに自らの上腕二頭筋を隆起させた。その盛り上がりは常軌を逸しているのはなんとなくわかる。
「ある冬のことだ。雪の降るスカディ山脈の森で、俺たちは冬眠できなかった熊と出会った。皆寒さで弱っていて、熊との闘いは死闘になった」
冬場は雪と氷に包まれるので、そもそもなぜ山へ向かったのかと思わなくもないが、彼らはそうしないといけない理由があったのかもしれない。
「何とか勝ったが、怪我をしてしまった俺たちも後がなかった。その時に出会ったのが二人目の師匠だ。彼は医者だった。彼に助けてもらい、俺たちは助かった」
ムスケルは懐かしそうに語りを続ける。
「そして俺は旅路から離れ、しばらく彼の元で医術を学んだ。その中で人間の身体の、特に筋肉についての造詣を深めて、自らをその理論に基づいて鍛えなおすことで、この」
彼はシャツを脱ぎ、上裸になってポーズをキめる。
「筋肉を作り上げた……!」
見ただけでわかるほど重く硬い筋肉は確かに、普通の鍛え方では得られないだろうと想像がつく。というか、何をしたらそんな体になるのかと恐ろしくも思える。
ヘンゼルの方を見ると、彼もまた威圧されているようだ。が、瞳は驚嘆と共に何かしらの輝きを携えている。
「坊主、名前は」
「ヘンゼル、です」
「ヘンゼル、強くなるための第一歩はここにある」
ムスケルはヘンゼルに巨大な手のひらを差し伸べる。
「強くなりたいか?」
「……!! ……はい!!」
「よし。筋力トレーニングについて教えてやろう。今日は眠り、明日に備えろ」
「はい!」
よし行け。とムスケルはヘンゼルの背を押す。
ヘンゼルが家の玄関の扉を開いて中に入って行ったのを見届けてから、ムスケルはこちらを振り向いた。
「嬢ちゃんがルゥ……ルゥビィ・ルナールでいいんだな」
「そうだけど……」
あぁ、なんとなく察しが付く。彼は母の知り合いなのだろう。村長の伝手というのだから、ありそうな話だ。
「ローゼのことは爺さんから聞いた」
やはりそうだ。
「最後は嬢ちゃん自身がどうするか決めなきゃいけないが……これだけは覚えておいてくれ。あいつが示した道だけが、嬢ちゃんの未来じゃない」
そういえば、村長も同じようなことを言っていた。あの老人は、安全なところに行って幸せに暮らせと言っていたな。どういうことだろうか。まるで母が私に危険な道を選ばせようとしているというような口ぶりだ。
そんなことは言われたことはない。言われたことはないが……ナイフが付いた籠手が持つ意味が気になった。
具体的な言葉で何かを言われたわけではない。ただ、母からは、レーテルブルーにある教会へ行くようにという手記が残されていただけなのだ。
そこに行ってみない限りは、何も分からない。
「母さんからは『レーテルブルーの教会に行け』と言われてるんだけど、何か知らない?」
「レーテルブルー? ……いや、何かあるようなことは聞いたことが無いが……ローゼも謎が多いやつだったからな」
情報は無し。昔馴染みらしいムスケルから何も聞けないとなると、あらかじめ情報を持っておくのは難しそうだ。
「だが、心辺りが無いわけでもない。出会う前のことは俺も知らないから、その時の縁かもしれないな」
そういえば気にしたこともなかったが、私は母の過去を何も知らない。
「……これは俺の勘だが、その縁はあまりいいものじゃない。嬢ちゃんが平和に安心して暮らしていきたいと思うなら、ローゼの残したものにはあまり触れない方がいい」
彼らの言葉からは、母は何か悪いことをしていたような口ぶりなのだ。確かに冷たい所もあったが、それでも母を悪い人間だと思うようなことはなかった。少し気分が悪い。
表情に出ていたのか、彼は繕うように言葉を続ける。
「いや、適当なことを言ったな。ローゼも村にいる間は丸くなったって爺さんも言ってたし、もしかしたら古い知り合いとか、逆に新しい知り合いってのもありうるな。すまない。だが、用心はしておいて損はないだろう」
それでも用心しろと言われるあたり、母の過去には何か根深いものがありそうだ。……問いただすか?
「……今日はもう遅い。そろそろ嬢ちゃんも眠った方がいい」
確かに、疲労感は抜けていない。身体を休めるべきだというのは同感だ。明日また、機会を見つけて訊いてみればいいだろう。
私も部屋に戻り、ヘンゼルとグレーテルが寝ているリビングで毛布にくるまった。目を閉じて、考えたくなる物事を封じ込めて、眠った。
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