0:プロローグ
◇◇◇
「貴様は……」
邸内の一室、戦利品で豪華絢爛に飾られた中で、扉を背にして立つ赤い人影の存在に、部屋の主である男はたじろぐ。
「はっ――え、衛兵! 衛兵はどうした!」
その回答の代わりにと赤い人影は小さな右手に携えた短剣を振り、滴っていた血で弧を描く。
男はその仕草の意味を想像し、息をのんだ。目の前にいるのは自分の姪と同じくらいの大きさの子供だ。それが、おそらく邸内の衛兵を全て始末してここにいる。
男は懐の短剣の柄を既に掴んでいるが、振り抜くのに小さな躊躇いを覚える。
――何がこの子をここまでさせるのか。
赤いフードの下からこちらを見つめる双眸は、静かだ。エメラルドグリーンの瞳は凪いだ湖のようであり、同時に底なしの闇を携えている。引きずり込まれそうな、視線を外せば足を踏み外して落ちてしまいそうな感を覚える。
男はその目を過去に一度だけ見たことがある。目の前にいる少女と同じくらいの年齢のときだ。庭で遊んでいたとき、ふと見上げたバルコニーの手すりに、まるで鳥のように立っていた女性と目が合った。その時も彼は静かな緑色の瞳を見た。その日祖父が殺された。
今自分が祖父と同じ境遇にいることを、本人は運命とも思っていた。
目の前の少女と、記憶の中の女性の関係性に確信は持てないが、想像はできる。怒りはしない。祖父は殺されても仕方ないことをしてきたし、男自身も随分と汚れている。
ただ、彼女から憎悪を感じられないために困惑が消えない。
「サンベリー将軍の部隊はどこにいる?」
生地の色か、それとも返り血か、赤く染まった装束をまとった少女は男に訊ねた。
「将軍の……部隊配置、だと?」
男は呆気にとられる。たかが部隊配置を知るためだけに?
「い、いやまてサンベリー将軍か。……勅命を受けて単独で任務をしている部隊か」
「そう」
「いったい彼らが何をしたんだ……?」
「はぁ……」
少女の瞳に軽く諦観が滲む。そんなこと訊くな、と。
「悪いが……知らないな」
「そう」
とだけ言うと、少女は男に背を向けて扉の方を向く。一瞬見えた少女の瞳に、怖気を覚えた男は懐から短剣を抜く。それと同時に少女は火の灯る燭台を投げつけた。
男は弾き飛ばした燭台が落ちていくのを目で追った。燭台から油が漏れれば、落ちて火がついたままであると、部屋中に火が広がってしまうかもしれない。男は冷や汗をこめかみに浮かべたが、火は落下の途中で消え、部屋が暗くなるだけで済んだ。
男は改めて、扉の前にいる少女の姿に視線を戻そうとして、
「いない!?」
壮絶な悪寒が全身に奔るのを感じた。
扉が開いた気配はなかったし、何よりそんな時間はない。いや、逃げたのならそれは良い。だが、おそらくそうではない。
部屋の明かりがまた一つ消えた。領域を広げた薄闇の方を見ると、赤い少女はいつの間にか部屋を移動して別の燭台の近くまで移動していた。
「もう一度だけ訊く。サンベリー将軍の部隊はどこにいる?」
彼女は燭台の火を一つ一つと消していく。その度に闇の領域は広がっていき、後ずさりが許される範囲が狭くなっていくような感覚に男は苛まされる。
残り二つになったところで、男は少女に飛び掛かった。
「はぁ……」
火が消える。男は閉じていた片目を空けて暗闇に映る赤い影に短剣を振り下ろし――空を切ったところで過ちに気が付いた。
剣を持っていない左半身がこちらを向いているから、右手に持った短剣を構えなおすよりもこちらの方が早いはずだ。というのが男の考えだったが、実際に先に刺し貫かれたのは男の方だった。腹部を貫いた刃は少女の左腕の籠手に装着されていた。
「隠し刃……やはりあの時の」
祖父を殺した、赤い暗殺者。
「噂で聞いてたよりも、随分と小さい……」
刃は急所を深く貫いていた。言葉を発するたびに男の身体を痛みが蝕む。男は二、三歩後ずさり倒れる。背にしていた明かりが少女を照らす。
赤い外套、フードを目深にかぶるも隙間から細やかな髪が見える。整ってはいるが幼い顔立ちに、緑の瞳。身体は小さく、まさに少女というべきか。服装に目を向けても、血で濡れた部屋にいるよりも花畑にでもいる方が似合っているだろう。
「まるで童話の赤ずきんちゃんじゃないか」
苦い笑みを浮かべながらそう言うと、男は息を引き取った。
◇◇◇