十五話
窓から吹き込んだ雨粒が畳を濡らすのを気にせず、三鬼はぼんやりと激しく降り始めた雨を見ていた。
山の端にあった黒雲は既に空一面を覆い、宇和灘神社の方向から雷光と共に空を打つ轟音が聞こえる。
三鬼と姉は急いで帰ったおかげで肩を濡らす程度で済んだが、あと少しでも帰りが遅ければ全身ずぶ濡れだっただろう。
「何だ、おまえ、まだ着替えてなかったのか?」
振り向けば、黄金色の髪を手拭いで拭きながら呆れた顔をした姉が襖を開けて立っていた。
姉は三鬼の部屋の様子を眺めると、眉を顰めて溜息を吐き出した。
「畳が濡れているぞ、雨戸を閉めろ。」
「ん、分かってるけど…なあ、二鬼姉、いっちゃんは無事に帰れたかなあ?」
雷光によって空が真っ白になり、三鬼の顔が一瞬、照らされて濃い影を刻む。
地を揺らす轟音は何処かに雷が落ちた音だろう。
三鬼は激しさを増す雨を瞳に映したまま、姉の言う通りに雨戸に手を伸ばした。
「神社から五鬼の家まで然程離れていないし、あのまま帰っていれば濡れずに帰れた筈だ。」
「そうだけど…やっぱり、ちゃんと送ってやれば良かった。」
音を立てて雨戸を閉めれば灯りの無い部屋は暗く、視界に入らない分、余計に外の雨音が…いや、五鬼の事が気になった。
三鬼を振り返る事無く、一人で駆けて行った五鬼…
そんな事、今まで一度だって無かったものだから、酷く狼狽え、追い掛ける事も出来なかった。
「…なあ、三鬼、おまえ、本当に界渡りの門を潜って妻問いをするつもりか?」
「何だよ、いきなり。さっきも言ったろ?」
「ああ、そうだが。おまえから、そんな話は聞いた事が無かったからな。」
「二鬼姉だって、オレに言わなかったじゃねえか。」
「確かにな。だが、私はおまえが言わないのは、界渡りをするつもりが無いと思っていたからだ。」
「は?何でそんな事…そりゃ、今直ぐって訳じゃ無えけど、オレだって何れは界渡りをするつもりはあるよ。」
姉の言葉に三鬼は首を傾げた。
「なら、おまえは五鬼をどうするつもりだ?」
「え?」
雨戸の向こう、轟音が三鬼の耳を震わせる。何処かでまた一つ、雷が落ちた様だ。
廊下の灯りを背に、姉の紅色の瞳が真っ直ぐに三鬼を見据えていた。
「私はな、おまえは何れ、五鬼に妻問いをするのだとばかり思っていたんだよ。」
「オレがいっちゃんに?そんな馬鹿な。いっちゃんは幼馴染で妹みたいなものだ。いっちゃんに妻問いなんて、考えた事も無えよ。」
「そうなのか?」
姉がゆっくりと首を傾げた。
三鬼は「ああ」と返事をして、しっかりと頷いた。
五鬼の事は勿論、好きだ。
いつだって、あの日向の様な黄金色の瞳を煌めかせて笑って欲しい。
泣き虫で怖がりだけど、嘘偽りの無い真っ直ぐな言葉で三鬼の心を温めてくれる。
優しくしたいし、幸せになって欲しい女の子。
だけど、五鬼をそんな風に見た事は無かった。
三鬼にとって五鬼は、本当に大切な、大切な幼馴染なのだ。
「…そうか。まあ、確かに、おまえが五鬼の夫にでもなれば、五鬼の苦労が目に浮かぶ。それなら、おまえ以外の、もっと五鬼を大切にしてくれる男が、五鬼の夫になる方がマシだな。」
「え…」
「何だ、その顔は。当然だろう?五鬼は年頃の娘だぞ?」
確かに、姉の言葉は尤もな言葉だ。
けれど、何故だろう?思わず、三鬼は反論をしたくなった。
三鬼が口籠るのを見やり、姉の紅色の瞳が細められた。
「三鬼、最後になるやも知れんから、おまえに忠告しておくぞ。おまえはもう少し、おまえの心と向き合ってから言葉にしろ。どうせ、おまえの事だ、いつかの道場に通いたいのと同じ、妻問いの事も皆がやるから自分もやる、そんな気持ちで言ったのだろう?」
三鬼は「是」とも「否」とも言えないまま、姉の言葉が続くのを黙って聞いていた。
「多数の意見に従う事が悪い事だとは私も思わない。常識から逸脱したものは異端であり、異常と見做されるのは世の常であり、それが普通の事だ。だが、己の心と向き合って発した言葉であるのなら、如何に少数派の意見であっても、私は自分の意見を悔いる事はしない…おまえも、自分の言葉を後悔する事の無い様にな。」
姉はそれだけ言うと、自分の髪を拭いていた手拭いを三鬼に投げて寄越し「おまえも早く着替えろよ」と言って自分の部屋へと戻って行った。
暗い部屋の中、手にした手拭いに目を落としたまま三鬼は動けないでいた。
また一つ、雷が何処かに落ちる音がする。
激しく降る雨が雨戸を突き破り、まるで三鬼の心の中にまで吹き荒れた様にも感じられたが、それが何故なのか三鬼には分からなかった。
―…翌朝、夜遅くまで荒れ狂っていた天候が嘘の様に晴れ渡り、姉は宣言通りに界渡りの門を潜って去って行った。
キラキラと光り輝く門が姉の体を包んで後、淡く静かな音を立てて消えるのを見つめながら、三鬼は無償に五鬼に会いに行きたくて仕方が無かった。




