一話
パチンと糸を鋏で切って、五鬼は「ふう」と溜息を吐いた。
あとは縫い目にこてをかけ、縫い代はきせをかけたら衿付けは終わりだ。
凝った首を回して、ふと面を上げれば、いつの間に降り始めたのか、庭先の敷石が雨粒を弾いて黒く染まっていた。
思わず五鬼は右足を擦った。
まだ痛みは無いが、冷えて来るとどうなるか分からない。
五鬼は慎重に立ち上がると、右足を庇いながら障子を閉める為に、ゆっくりと歩を進めた。
五鬼の右足は、数年前に患った病の後遺症で不自由だった。
幼い頃は野を駆け、山を駆けたその足も、今は五鬼の言う事を聞いてくれない。
全く歩けない訳では無かったが、それでも冷たい雨の降る日には痛みが酷く、数歩歩くだけで悲鳴をあげてしまう。
医者は何かの切っ掛けがあれば元通りに歩ける様になるだろうと言うが、五鬼も家族もその切っ掛けが分からず、途方に暮れた。
年頃となり、友人達の多くが独立し、己の伴侶を求めて界渡りの門を潜るのに、五鬼にはその体力も無く、せめて家族の負担にはなるまいと、繕いの仕事を請け負っている。
幸いな事に、五鬼の仕事は丁寧だと評判で、手を休める暇も無い程ではあるが、両親にはあまり無理をするなと釘を刺されていた。
数歩の距離を何とか歩いて、障子に手を掛けた五鬼だったが、雨音の中に砂利を踏む足音を耳に拾い、その手を止めた。
果たして、現れたのは花束を二つ抱えた法月の三鬼で、彼は花束が濡れない様に気を付けながら軒下に駆け込んで来た。
「やあ、いっちゃん、美奈子さんにいつものヤツを届けに来たんだけど、美奈子さんはいるかい?」
「母さんなら、父さんと嘉雁村へ出掛けてるわ。」
「嘉雁村?…ああ、鏑鬼の叔祖父さんの命日だっけ?」
三鬼が首を傾げ、直ぐに気が付いて声を上げる。
五鬼の叔祖父は、鬼の操る妖術・術式を解く学者であり、ここから五つ山を越えた海の見える村、嘉雁村に住んでいた。
生涯独身で人付き合いも悪く、選り好みの激しい人であったが、同じく学者であった義理の兄とは馬が合った様で、五鬼の産まれる前にはよく祖父母の家にも遊びに来ており、長兄の一鬼を実の孫の様に可愛がっていたそうだ。
祖父母が亡くなり、一鬼が妻問いの為に門を潜って後は遊びに来る事も無く、ほとんど交流を断っていたのだが、鏑鬼家の次男が妻を娶り、祖父の後を継いで学者となった際に、叔祖父の伝手を頼って嘉雁村に移り住んだ事で再び交流を持つようになった。
寿命の長い鬼人の中でも更に長く生きていた人だったが、弟子の一人も取らず、祖母の屋敷を訪れていた一時期を除けば、ただ孤独に己の研究のみに突き進んでいたらしい。
そんな叔祖父が何を思ったのか、その研究の全てを次男に託して逝った。
血縁である筈なのに一度も面識の無かった五鬼には、叔祖父がどんな人物であったのか正直よく分からないが、その叔祖父の三回忌が近いと言う事で、二日前から両親は揃って息子夫婦の家に出向いていた。
「父さんたら、注文したまま忘れてたのね。…ごめんなさい、三鬼さん。母さんには渡せないけど、家に飾っておくから。」
五鬼が眉根を寄せて言うのに、三鬼は笑ってそれを制した。
「気にすんなよ、いつも贔屓にして貰ってるからさ。…それより、いっちゃん、この花なんだけど、少し花弁が傷んで来たから売り物には出来なくなってさ、でも、まだ充分綺麗に咲いてるから、良かったら貰ってくれねえかな?」
美奈子に渡す花束を置いて、五鬼に手渡されたのは白いハナミズキの花だった。
三鬼の生家は花屋で、彼は三男ながらに数年前から家を継いでおり、配達の仕事も請け負っている。
「…いつもありがとう、三鬼さん、」
三鬼から渡されたハナミズキの花は、三鬼が言う様にまだ十分に綺麗であった。
こんな風に、たまに三鬼から店に出せなくなった花を貰っているが、それらの花も売り物に出せないなんて嘘の様に綺麗で、五鬼は嬉しいのと同時に、少しだけ申し訳無くも思っていた。
「いや、こっちこそ、貰ってくれて助かるよ。」
にこりと笑った三鬼のこめかみから雫がポタリと落ちた。
「あ、気付かなくてごめんなさい!拭かなくちゃ、」
雨に濡れながら届けてくれた三鬼に、濡れ鼠の恰好のまま軒下で相手をさせていた事に今更に気付いて、五鬼が慌てて手拭いを取りに戻ろうとした時、五鬼の部屋の襖を開けて妹の六鬼がひょこりと顔を出した。
「話し声が聞こえると思ったら、やっぱりみいくんだ!」
「六鬼ちゃんさあ、年長者に向かってみいくんは無いんじゃねえかな、」
「だって、みいくんは、みいくんじゃない。それより、みいくん、ずぶ濡れよ!拭かないと!」
三鬼の言葉を丸っと無視した六鬼だったが、三鬼の濡れた着物を見て直ぐに箪笥の中から手拭いを取り出した。
そうして、三鬼の前に来るとその黄金の頭を丁寧に拭き始める。
「ありがとう、あとは自分でやるよ。」
「みいくんがやるといい加減に終わりそうだから、駄目!」
六鬼が唇を尖らせて言うのに、三鬼は困った様に眉を下げてされるがままになっていた。
六鬼が言い出したら聞かない事を、三鬼も五鬼も知っている。
大人しく拭かれるままになった三鬼に満足した六鬼だったが、五鬼の手にあるハナミズキの花を見つけてその瞳を輝かせた。
「綺麗なお花ね!みいくんが持って来たの?私も欲しいな!」
「え、ああ、それは…」
三鬼が五鬼をチラリと見て言うのに、五鬼は手の中にあるハナミズキを半分に分けて妹に差し出した。
「はい、こっちが六鬼の分。はんぶんこよ。」
「ありがとう!いっちゃん!」
六鬼が笑顔で受け取ったのを見ながら、五鬼も笑う。
自分の感情に素直で言いたい事をきっぱりと言う六鬼は、少し我儘に見えてしまう処もあるが、それでも、誰が見ても愛らしい少女だ。
妹のまるでお陽様の様なその笑顔を好ましく思いながら、けれど、直視するには眩しくて、五鬼は笑いながら、そっと面を伏せるのだった。