雷獣
綾はテーブルについて冷えてしまった料理を食べ、アイはその光景をベッドの上に腰掛けて眺めていた。
「うー……まだなんかぴりぴりします」
「自業自得じゃにゃい」
綾は独り言を聞き取られたことに気づき、赤面して縮こまった。その胸には、詐称とは別の罪悪感が沸き立っていく。
綾が目を覚ますまで付きっ切りで面倒を見てくれていたらしく、気絶した原因も併せればいくら恐縮しても足りない。
「……すいませんアイさん。こんな遅くまで居残りさせてしまって……」
「いやぁ、時間の事は気にしにゃくて良いよ。元々宿直の日だったし、そもそもヨウコクにもにゃってないし。
一人で宿直するよりは大分マシよ」
「よ、ようこく? 時間の単位なんですかそれ??」
「日付が変わって半刻くらいかにゃ?」
(夜の一時……位なのかな)
なんと、時間の表示さえ違うらしい。単位自体は同じ名称のようだが……日本で昔使われていた不定時法のようなものだろうか。あれは一刻が二時間で、半刻が一時間だったはずだ。
「あ、一刻って言うのは、120分の事で……分かるかにゃー」
分単位は同じらしい。不等分法と等分法が混ざり合った、なんとも奇妙な時法だった。
「なんとなくは……」
「本当ににゃにも知らにゃいのねえ……まぁ、そうでもなきゃ雷獣の肉球にゃんて触らにゃいか」
「あう……」
「いやいや。あたしの方は気にしにゃくていいから本当に。
『訳』有りなのは分かってるんだしさ」
けたけたと笑って手を振るアイ。裏表のない明るい笑みだった。
「ハーフのあたし等はそこまで気にしにゃいけど、純血の雷獣にはやっちゃ駄目よ?
戦士の誇りを弄ぶにゃ! って殺されても文句言えにゃいから」
「こ、殺され……!」
「そこら辺の事は順次覚えていこうか。仕事が始まるまでは、あたしがマンツーマンで社会常識を教えるから」
「マンツーマン……あの、そんなわざわざ」
「いいのよ。
あたしら雷獣は最強の戦闘種族って呼ばれてるけど、逆に言えば戦闘以外役に立たにゃいし。ぶっちゃけちゃうと、普段暇にゃんだわ。
書類整理とかすると書類が焦げるしねー。あ、お茶飲む? 淹れてくるけど」
「あ、頂きます」
「美味しいディスターニャがあるのよ♪」
軽い足取りで部屋から出て行くアイを見送って、綾はふっと一息ついた。
「――はふぅ」
改めて、とんでもない事になったと思った。
異世界にやってきて保護されて血まみれになって……考えを纏める暇がなかったのだ。ようやく一息つける状況になり、脳裏をよぎった思考は、
(誰が、私をこの世界に送ったんだろう)
原因に対する追求だった。
方法は、修一郎の開発した機械で間違いないだろう。
機械が使えるという事は、犯人は間違いなく父の研究施設にいる人間だ。
問題は動機だ。誘拐犯がどんな立場にせよ、異世界に送るより人質として使ったほうが何倍も有益なのだ。わざわざ異世界に送り込まなければならない理由は何か。
(私がこの世界にいて得になる理由か、私があの世界からいなくなって得になる理由)
そんなものに思い当たる節はない……いきなり思考がどん詰まり、右手が右耳に添えられる。そこにあったピアスに触れると、綾の思考が不思議と落ち着いて……
「あれ?」
何かが引っかかった。
綾が今、片手でもてあそんでいるのは、父親からのプレゼント。
世界間航行装置の非常停止キーを兼ねたイヤリング。
綾の呼吸が止まる。記憶の泉の底から、さまざまな記憶が無差別に浮上する。
アメリカ軍のタカ派が、異世界への武力侵攻計画を立ち上げたという一文。
兄が、その物騒な連中に同調して、修一郎と対立しているという一文。
そして、イヤリングが綾の生態認証と組み合わせて非常停止キーになる以上、それを封じるならば殺したほうが早いという事実。
非常停止キーの存在を求めているのは、武力侵攻を止めようとする修一郎である。
逆に邪魔に思うのは、武力侵攻を推し進めるタカ派の連中である。
そして綾のイヤリングが非常停止キーを兼ねる事は、綾の身内しか知らない。
(まさか……)
ばらばらだったピースを組み合わせ、綾の脳裏に浮かび上がった推理は……『寺門隼のいるタカ派が綾の持つ非常停止キーを邪魔に思い、異世界に送り込んだ』というものだった。
タカ派に隼がいると思ったのは、その方が色々とつじつまが合うからだ。
都合の良い世界に送り込まれた理由も、殺されなかった理由も……兄が、自分を庇ってくれた結果だと考えたかった。
綾の脳裏には更に最悪の想像が浮かび上がってきた。
綾をこんな方法で放逐したと言う事は――非常停止キーの存在が、本格的に邪魔になってきたと言うこと。
「そ、んな……」
武力侵攻計画が、本格的に進みつつあると言う事にはならないだろうか?
「なんで……お兄ちゃん……」
呆然とつぶやき、イヤリングに触れる。
兄は、戦争など望む人ではなかった。戦争は間違いなく悪だと言い切れる、平和ボケした日本という国に相応しい、平和ボケした感覚の持ち主だった。修一郎の話す原住民の様子に、誰よりも目を輝かせて聞き入っていた子供だったはずだ。
そんな兄が、原住民との戦争を望むようになったとは思いたくなかった。
思いたくなかったが、否定する材料が無いのも事実だった。何せ綾と兄の間には、一年前の手紙を最後に交流らしい交流が行われていない。
兄は引っ切り無しに手紙を送ってくれているそうだが、綾の手元に届いた事はない。
父が己の権限で差し止めているのだ。手紙の内容が、極端すぎるほどに戦争至上主義に染まっていた為に。『手紙が無いのはそういう理由だから心配するな』と、無理な要求と一緒に父が手紙に記していた。
父にそこまでさせるほどの思考転換……今の兄がどんな思考の持ち主なのか、綾には見当もつかない。
夜半ゆえか、自警団詰所を包んでいた奇妙な静寂を、人の足音が破る。
「――あ」
アイが帰ってきたと思い、綾は我を取り戻した。
あの誠実で親切な団員に、これ以上心配をかける訳にはいかない。
慌てて涙を拭い、アイの退室時と同じ状況を取り繕おうとして……そこでようやく違和感に気がついた。
足音が、二人分。ばたばたとこちらに向かってきている。
アイは、一人で宿直しているといっていたのに。お茶を淹れただけで、そこまで急ぐ必要も無いだろう。
一体何が起こったのかと、困惑する綾のいる部屋に、その足音の主はやってきた。
「なっ!?」
荒々しく飛び込んできた人影の姿を見て――綾は心臓が止まる程に驚いた。
綾の常識ではありえない姿だったからではない。
『綾にとって余りに常識的過ぎる姿』だったから事が原因だった。
防弾チョッキにヘルメット、暗視ゴーグルにガスマスク。手には見慣れぬ形ながらも一見して銃器だと分かる鉄色の物体。
映画で見慣れた完全防備の特殊部隊の典型的な装備一式――綾の世界では当たり前で、この世界では絶対にありえない姿かたちをした男が二人、銃口を向けてきていた。
「え……あ、な……何……」
事態についていけず、棒立ちになる綾に向かって、黒服の一人は短く叫んだ。
「――フリーズ(動くな)!」
「……っ!」
アメリカでは、動くなといわれて動いたら撃ち殺される……以前聞いた雑学を思い出してしまい、綾の全身がこわばった。
もう一人はヘルメットから突き出したマイクを口元に押し付け、英語で何かをまくし立てている。漏れ聞こえてくる単語の中から『Key(鍵)』の単語を聞き取り、綾は己の顔から血の気が引く音を聞いた。
(鍵って……非常停止キーの事!?)
注視すれば特殊部隊の装備には所々英語が刻印されていたし、綾が元々いた世界の人間と見て間違いなさそうだった。
愕然としている間も、銃口はしっかりと綾の体を捉えている。視線の厳しさといい、まるで檻から逃げ出した猛獣を前にしたような警戒振りだった。
もう一人の男の方が、腰にぶら下げた警棒を抜き放ち、バチバチと放電させる。
(す、スタンガン!?)
どうやら、それを使って気絶させる腹積もりらしい。
(一日に三回も電気ショック……どれだけ電気運悪いの私ー!?)
一度目は浚われた時のスタンガン、二度目はアイの肉球ショック。そして三度目のスタンガンが、綾の意識を刈り取ろうと迫っている。
抵抗はしたいが……突きつけられた銃口が、綾の手足を縛り付けている。
(なんで……!?)
その上、綾の心理状態は平成からは程遠い。
綾を異世界に放り出しておきながら、何故わざわざ異世界まで追って来たのか。分からない事が多すぎるという困惑が、綾から抵抗という選択肢を奪っていた。
「――はいはーい。美味しいディスターニャお待ちどうさまー♪」
暢気な声の持ち主が最悪のタイミングで帰ってきたのは、その時だった。
ティーセット一式の乗った木製のトレイを片手に、からからと笑いながら。裏表の無い、明るい笑みだった。
落ち込んでいる綾を出来る限り元気付けようとした満面の笑みが、強張る。
「――っ!」
背後から現れたアイに対して、不審者たちは迅速に対応した。
綾をけん制していた不審者達が素早く振り返り、一人が至近距離で胸元に銃口を押印する。スタンガンを持った男はアイを警戒しつつ、綾に向かってにじり寄る。
「あ、アイさ――」
逃げて、と叫ぼうとした。その瞬間、綾は間違いなく自分に向かってくる脅威を完全に忘れ去っていた。
素手では到底勝てない猛獣であろうと、人間は銃という力で打ち勝ってきた。野生の暴力に対抗する為、更なる力を得るための『力』の象徴だ。
いくら亜人でも、いくら雷が出せても、銃器に対しては無力だ。
「……あぁー」
胸元につめたい鉄の塊を押し付けられているというのに、アイは動じていなかった。
目の前の金属の塊が、凶悪な武器だと気付いていないのだ。
そう……思っていたのだ。
「あんたらか。この子の『訳』は」
寺門綾は思い知らされる事になる。
「よりにもよって、うちで、ディンブルゲンで、人身誘拐か」
自分の感じていた危機感が馬鹿げた杞憂に過ぎなかった事を。
「焦がし殺すぞ人間」
アイリーン・ソクラフォスの顔から笑顔が消えて、濃厚な殺気が放たれる。
不審者達の動きも早かっただろう。
アイのその後に続く動きは、それ以上に速かった。何せ、綾の動体視力では、その動きが何一つ見えなかったのだから。
アイの姿が掻き消えたと思った次の瞬間、銃声に続いて激しいスパーク音が室内に轟いた。銃口を突きつけていた不審者の体が震え、空気のこげる匂いが漂う。
「雷獣に金属製の武器突きつけるなんて、馬鹿かあんたら」
崩れ落ちる相手に向かって吐き捨てたアイは、何故かその場にしゃがみこんでいた。右手には、不審者が手にしていた銃器が握られている。
(え……!?)
動きは見えなかったが、結果とアイの姿勢から、アイが何をしたのかを把握した。
しゃがみこんで相手の銃口を外し、銃身を掴んでそこから電流を流し込んだのだ。
同時に綾は気付いた。雷獣の肉球が刺激すれば電流を発生するのなら、強く掴めばそれだけで相手を感電させる事ができるという事に他ならない。
綾にスタンガンを押し付けようとした不審者が、慌てて振り返った。バチバチと音を立てるスタンガンを構えて、アイと対峙する。
「うん。悪くないよ」
それを見たアイはにかりと笑った。裏表の無い……酷く好戦的な笑みだった。
「ナイフや銃……にゃの? 見たこともにゃいタイプだけど……
別の武器を構えなかったのはいい判断ね。けど、相手が悪いわよそりゃあ」
嘲笑を浮かべた瞬間、不審者は動いた。
スタンガンを構えた腕を体ごと突き出し、アイの体を捉えんと迫る!
アイは避けようともしなかった。その腹部に、バチバチと音を立てるスタンガンがめり込んで……不審者の動きが、そこで止まる。
人一人気絶させる電流を受けた筈なのに。
アイは何事もなかったかのようにそこに立っていた。
「雷獣にそんにゃもん――」
アイは両手を開き、掌も開いた。衝撃に伴い電撃を生み出す凶悪な肉球が露出する。
「通用するかぁっ!」
バチィンッ! と音がする程思いっきり、アイは掌を不審者の両頬に叩き込んだ。
瞬間、閃光と爆音が室内を満たした。電流が不審者の体蹂躙し、大きく跳ねる。
明らかに致死量を超えるであろう電流を流し込まれた不審者は、全身から煙を吐き出しながら、倒れ伏した。
……人体の放つ焦げた匂いを鼻腔に感じ、遠来のような爆音を聞きながら、綾は己の意識を手放した。
何故か、瞼の裏が紅く紅く染まっていた。