迷子の迷子のお嬢さん、貴方の世界はここじゃない!
城門で手続きを終えて外壁の中に踏み入ると、そこは最早別世界だった。
そう……綾にとっては、ありとあらゆる意味で別世界だった。
石畳で舗装された大通りと、軒を連ねる白い土壁の家屋。屋根に使われているのは紅く染められた粘土板だろうか。大通りに面した家屋の軒先で果物が叩き売られる光景は、ヨーロッパ地方の朝市を連想させる風景だった。
草原のど真ん中に家屋の倍の高さはある外壁に周囲を囲まれた街。ここまで大規模な壁に囲まれた街を綾は知らない。こんな特徴的なつくりの街が、有名にならないはずがないというのに、綾はこの光景この騒音を、始めて見聞きする。
何処の田舎に自分はいるのかという不安は無い。それ以上の不安が、綾の中にあった。最悪の予想を裏付けるだけの光景が、目の前に広がっているのだ。
やかましいセールストークでアクセサリーを売り込む男と、真剣な表情でアクセサリーを眺める女……男のほうは肌が緑色な小男で、女のほうは額から角が生えていた。
魚を鬼気迫る形相で値切る主婦と、勘弁してくれとばかりに辟易する魚屋……主婦の耳は人間ではありえないほどに尖り、魚屋の肌にはびっしりとウロコが張り付き首筋には鰓らしきものまで見てとれる。
特殊メイクだと思いたかったが、特殊メイクにしては大掛かり過ぎる。大勢の人でにぎわう大通りの中で、ちらほら見える人外の姿をした全員がメイクだとしたら、一体いくらの費用がかかるのか。
「う……そ……」
心当たりが全く無いのではない。有りすぎる事が最悪の可能性を連想することに繋がってしまうのだ。
最早、間違いない。
自分は、意識を失っている間に誘拐されたとか、性質の悪い冗談で騙されているとか、そんな生易しい状況に立っているのではない。
彼女の父親が開発していた機械によって、ここに送り込まれたのだ。
指が、思わず右耳のピアスへと伸びる。父が綾に送ってくれた宝物である。綾の生態認証とセットで、父が開発した機械の非常停止キーを兼ねるというご大層なものだ。政府に内緒でこっそり作ったらしい。
不安になった時にこれに触れていると、不思議と落ち着くのだが……今この状況では、焼け石に水だ。拭えぬ不安が、綾の豊かな胸郭を包み込んでいく。
「……おい、行くぞ」
真っ青になって震える綾の頭をぺちんと叩き、男は先を促した。
「あ、う……は、はい……」
「……顔色真っ青だぞ、どうかしたのかお前」
「ちょっと、驚いてしまって……」
「自警団の詰め所はすぐそこだ。ついたらしばらく休ませて貰え」
「はい……」
今はいい。男についていって自警団に証言するという、成り行きながらしっかりとした目的がある。
だが、その後はどうするのか。目標は無論の事、日本の綾の家に帰る事だが、どうやって帰るのか。
わからなかった。わかるはずも無かった。
方針は思いつくのだが、手段が思いつかない。父と兄、大勢の研究者たちが着手して十年の時を費やし、ようやく確立した手段が、綾に再現できるはずが無い。
綾の父親である寺門修一郎は、『空間物理学』という分野の権威だ。この学問は『宇宙空間物理学』とは根本からして異なる。
『宇宙空間物理学』が宇宙空間での物理現象を研究対象とするのに対し、『空間物理学』は空間、次元、時空……様々な呼称の存在する、『世界』そのものを研究対象とする学問である。
かつて修一郎は『空間における物理常識を無視した移動法』……いわゆる、ワープ技術に関する研究を行っていた。斬新で新しい切り口の仮説をいくつも立てていたが、当時の学会での認識は『優秀だが変わり者の学者』の一人に過ぎなかった。
――修一郎がある実験を行うまでは。
詳しい経緯は知らない。専門的な知識の無い綾では聞いても理解できなかっただろう。
一つだけ確かなのは、修一郎が綾を引き取った直後に実験を失敗し、その結果として空間移動ではなく次元移動……綾のいる世界とは違う、物理法則すら根本から異なる異世界への移動方法を、偶然にも手にしてしまったという事だ。
その時に、修一郎自身が異世界に直接赴き、いくつかの鉱石を採取してきたと言う。
修一郎はすぐさま学会でその技術を発表し、異世界の存在を世界中に知らしめた。
世間は当初、修一郎を実験で気が狂った精神病患者と断定した。学会の科学者達はその理論を否定しようと、『証拠』の鉱石の解析を試みた。
が……皮肉なことに、優秀な科学者一同はその鉱石が物理的にありえない、未知の物質という事を照明してしまったのだ。対価も無く未知のエネルギーを発しし続ける、とんでもない鉱石だったのである。
その解析結果を受けて、学者以外のすべての人間が態度を改めた。
冷たい学会の対応とは裏腹に、民衆は歓呼と賞賛を持って修一郎を認めたのだ。
地球は地図の空白を埋め尽くされ、無限の可能性を秘めると言われている宇宙は化学の力が及ばず踏み出すことができない。
未開の地は地球上に存在せずロマンもへったくれもなくなり、諦めに似た閉塞感を抱いていた人類にとって、この発見はまさに黄金の財宝だった。
異世界! 異世界!! それはまさしく前人未到の未開の地!
未開の地に対する願望と、新しい未発掘の資源と……人間の動機を形作る夢と現実を満たし、ありとあらゆる人がその可能性を夢見た。
退廃的な諦めは吹き飛ばされて、フロンティアスピリッツにあふれた情熱が取って代わった。アメリカ政府は大統領アーノルド・シュワルツネッガーの指揮の下に、修一郎の研究に惜しみのない出資を行った。
完璧な環境の中で続けられた修一郎の研究は、画期的な発見を連発し……ついにはその究極形に至るまでになった。
すなわち――飛行機で海外に行くように気軽に、異世界に行ける装置の完成させたのだ。
その名を、『世界間航行装置』。
綾の世界の人類、その夢が結晶となった、未来を切り開く機械だった。
現在は装置の試運転を繰り返し、転移先の世界の情報を収集。集めた情報をもとにして最終的な調整に入っている。上手くいけば、三ヵ月後には異世界への旅行が現実のものになるはずだった。
しかし、父親から送られてくる手紙には、苦い想いを表した言葉が記されていた。
機械の完成後、真っ先に持ち上がった異世界への武力侵攻の計画が最たるものだ。対象の世界には原始的とみられるがある程度の文明が存在し――知的生命体と思われる者たちの活動が見られる。それを、武力で鎮圧しようというのだ。
修一郎が反対したおかげで計画は頓挫したそうだが、その時の言動が原因で義兄を初めとした若い研究者達に不満が溜まりつつあるらしい。
いくつかの国から、『世界間航行装置』の情報をもぎ取ろうとする企業スパイが送り込まれ、修一郎本人に買収の話が持ちかけられた事も一回や二回ではない。それらを、綾の父は高潔な精神で持って拒み続けていた。
アメリカ軍は日本の自衛隊と合同で、修一郎が回収した異世界の鉱物や、観測できる異世界の技術を流用して数々の超兵器を開発していた。
光学迷彩、レーザーピストル等の、SFの産物が現実のものとして人類の手に入った事を、綾は父親の手紙によって知らされていた。どれもが、綾の世界の歴史を塗り替えかねない超兵器ばかりだった。
修一郎はこれに猛抗議を重ね、相手に貸し出した鉱物の返還を求めている。
『世界間航行装置』を戦争や一国の主義主張で動かす事を拒む寺門修一郎という人間には、内にも外にも兎に角敵が多かったのだ。
それらの敵対者の意識が、修一郎の家族に向けられた結果として――寺門綾は今『異世界』に送り込まれていた。
ディンブルゲンは、王国領土の中でも王都に次ぐ規模を持つ大都市だ。
その財政を支えているのは、街の人口の70%を占める数多の獣人、魚人、虫人などの亜人種達だ。ドワーフの鍛える武器は高性能故に重宝され、魚人が素手で捕獲する魚は新鮮さから高値で売れ、エルフたちが織り成す布野や服は頑丈さと美しさに定評がある。獣人や鬼といった運動能力の高い亜人達は、司法の許可を得てエシャロットの森へ踏み入り、貴重な薬草や獣の毛皮などを採取する。人間達がそれらの成果を外の町に売りさばくのだ。
この街の人間たちが亜人達を不当に扱っていたら、街はこれ程の発展を見せなかっただろう。実際、かつてのこの町は、人間と亜人の奴隷という歪んだ関係性の生きた見本のような場所だった。
それを劇的に変化させたのが、一部の人間が亜人たちと組んで引き起こした反乱……奴隷解放運動であった。そこから紆余曲折を経て、他の街では差別の対象になりやすい亜人達を積極的に受け入れ、平等な法と税制度で迎えた結果として、独特の文化を育んだ街なのである。
通称『亜人都市』……武器、防具、服、食物……ありとあらゆる最高品質のモノが揃う大都市である。
そんな特徴から、自警団の構成員はその多くが武闘派の亜人で占められていた。
ディンブルゲン自警団の詰め所は五つ存在し、東西南北の城門の傍に寄り添うように一つずつ、町の中央に一つ……広い町のどこで犯罪が起きてもすぐさま対応出来る様に設置されている。
建物そのものは、二階建て並の高さを持つ一階平屋建てだ。この屋根の高さには理由があり、一番体格の大きい亜人大鬼の規格で合わせる為、建築物の規格を大きくする必要があったのだ。詰所に限らず、ディンブルゲンの公共施設は軒並みこのサイズである。
自警団北口詰所内の一角で、綾と男の二人はデスクを挟んで自警団員と向かい合っていた。
「記憶喪失、か……」
エシャロットウルフに関する報告を受けたのは、その大鬼の自警団員だったが……話が綾の現状のくだりになると、気遣うような目線を隠そうともしなかった。
かわいそうな生き物を見る目である。いろんな意味で。
「あう」
疑わしい自覚があるのか、大柄過ぎる団員の迫力に押されたのか……恐らく後者であろうが、綾はうめき声を上げた。立てば三メートル、座っても二メートルはある団員を前に、首の角度を上に向けて必死で目線を合わせている。
「……記憶喪失が事実かは分からないが、世間知らずなのは確かだ。森の事も大火飢饉の事も何も知らなかった。亜人も今日始めて見たらしいぞ」
「みたいだねぇ……お嬢ちゃん、そんな無理して目線を合わせなくてもいいよ」
「そ、そういうわけには……」
「大鬼の世界じゃ目線合わせなくてもマナー違反にはならないんだけどなぁ……大鬼の世界じゃ相手の胸元を見るのがマナーだ」
男は何言ってんだこいつ、と思ったが、何も言わなかった。
「え、あ……ご、ごめんなさい!」
言われてようやく目線を修正する綾。対面してからずっと顔を見上げ続けていたし、さぞかし首が痛いだろう。ほほえましい姿に大鬼の自警団員は笑顔を深くした。目線は綾の大きな胸に貼り付けたままで。
「アッシュブレッドも炭の塊扱いだったからな、こいつ」
「成る程……大体の事は分かったよ。死体の状態も証言と矛盾が無いし、後で毛皮と一緒に公式書類をそろえておく。
明日また自警団に顔を出してくれ。この引き取り手形を窓口に出せば、毛皮が出てくるから」
「ああ」
「君はどうする? 必要なら、こちらで保護するけど……」
綾に対して駆けられた提案は、男にとっては願ってもいない事である。元よりそのつもりで綾をここまで連れて来たのだ。ぜひともお願いします、と柄にも無い敬語を口走りそうになった矢先に、
「えっと……ひとつ、いいですか?」
綾が放った言葉に機先を制されてしまった。
「ん? 何かな」
「えっと……これからどうするのか、っていう話でしたら……
この近くに、情報が集まる場所はありませんか?」
「情報の集まる場所っていうと……まさか、自分で記憶を探すつもりなのかい」
「はい。
その……なんというか、予感がするんです。
早く元いた場所に戻らないと、取り返しのつかないことになるような……」
「随分と都合のいい予感だな」
「あう」
男にジト目で睨みつけられて、綾は涙目になって呻いた。
「まぁまぁサマーくん……そもそも記憶喪失っていうのはそういうものだろ?
うーん……一番情報が集まるのは、やっぱり王都かなぁ」
怯える綾を哀れに思ったのか、団員がすぐさま助け舟を出した。
「君の症状が記憶喪失だとしたら、王立図書館や王国憲兵隊の本庁に行けば情報は集まると思う」
「……まぁ、どっち道今すぐって訳にはいかねえだろうがな。お前が金持ってて傭兵雇えるんなら兎も角」
「えっと……」
男の言葉は、実に痛いところを抉る、現実的な指摘だったらしい。
「どうせ財布無いんだろ」
ハーフパンツやジャケットのポケットに何度も手を突っ込む。一通りのポケットを荒らしまわった後、綾はがっくりとうなだれて現実を報告した
「お財布がないです……っていうか、何でわかったんですかトゥークさん」
「勘だよ。焦らずにまずはここの常識に慣れろ。
王都に行くのはその後にしな。先立つものも稼がなきゃならねえんだしよ」
「まぁ、当面の宿は気にしなくていいよ。森への侵入を、問題にすれば良いだけだから」
「そりゃあつまり、こいつを牢屋にぶち込むのか?」
看過できない団員の発言に、男はガラの悪い口調で突っ込んだ。綾も青い顔をさらに青くして、呆然と団員の顔を見上げる。
二人の様子を前にした団員は苦笑をひらめかせて、
「いや、牢屋と言っても便宜上さ。実質は保護に近い。
一人部屋のVIPルームに入ってもらって、拘留期間中に仕事を斡旋する事になる」
「つっても、こいつは人間だぞ? 働き口なんてみつかるのか?」
男が指摘したのは、最近ディンブルゲンの社会問題となっている事柄だった。身体的にも技術的にも優れた亜人達の活躍が、技術職や力仕事の現場から人間を駆逐してしまったのだ。
街の外へ向かう商隊という働き口があるが、人間のホームレスが溢れかえるなどという事態には陥っていないが……それは、人間の絶対数が少ないからである。亜人と違い、人間は職がないならよその町に行けばいいのだ。
なので、自然と人間の就職率は低くなる。正直、綾のような小娘が働ける環境など望むべくも無いのが現状である。
「なぁに、最悪詰め所の雑用でもしてもらうさ……王都への路銀も早めに貯まるだろうし。常識を教えるのにも役立つしね」
「そりゃ、牢屋で寝泊りすりゃお徳だろーな……無料だし」
「それで、君自身はどうしたいんだい。君が望むなら、すぐにでも話をつけるけれど」
「悪い話じゃねえな。そうしてもらえ」
緊張しっぱなしの綾に対して、男は気楽なものだった。
綾の記憶喪失が事実であるにしろないにしろ、無一文と言う状態では他に選択肢はない。
「は、はい……お願いします」
男の予想通り、綾は団員の提案を受け入れた。
「俺の連絡先はいるか?」
「いや、特には――」
「じゃあ、俺とはここまでだな。じゃあな」
「ええっ!?」
当然の事をわざわざ言葉にした男の鼓膜を、綾の漏らした声がたたく。
「ここまでって……あ、あの、トゥークさん……」
「俺はたまたまお前を保護しただけで、最後まで面倒見る義理はねぇ。
まぁ……ここの連中なら悪いようにならねえだろうからな。元気でやれよ」
綾の投げてきた疑問符に、どっちつかずの言葉を選んで、男は答えとした。
……自分でも、まったく思っていない事を言葉にするのに、男は慣れていた。