ハゲ、迷子を保護する
少女は、心地よいまどろみの中にいた。
温かい泥に包まれ、沈み込んでいくような感覚の中、脳裏に浮かんだ光景に手を伸ばし、はしゃぐ。甘いケーキ、鼻腔をくすぐる紅茶の香り、笑顔の父、幼児特有の無邪気さでケーキをほおばる兄……穏やかな日差しの中のティータイム。
――嗚呼、これは、夢なのだと、気づいてしまった瞬間に、意識は覚醒へと向かっていく。
父は優しいが、仕事で忙しく滅多に家族の時間など作れなかった。ティータイムなど、文字通り夢のまた夢だ。それに、顔の皺がだいぶ少なく――若く見えた。
兄は、幼くなどはない。少女よりも10は年上の青年である。父と同じ科学者の道を選び、今は海の向こう、アメリカで父の補佐をしているはずだった。
家族でティータイムという異常、現実と乖離した外見……
思い返せば大きい現実との矛盾が、少女を現実へと引き戻す。
「ん――んぅ」
(起きたら、朝ごはん作って学校に行かなきゃ……)
うめき声を上げて、少女の意識は覚醒への階段を駆け上がっていく……その速度が、急激に跳ね上がった。
「んぅ??」
自分は、寝る前に何をしていただろうか、と。
何かを忘れた、とかではない。眠ろうとした記憶そのものがなかった。
一番新しい記憶は、確か――
(電車で学校から帰る途中で……? あれ?)
電車の中で眠ったか? ならば、寝過ごしの危機だ。今日は意地の悪い教師から宿題が山ほど出てしまったのだ。余計な時間の消耗は、命取りとなりかねない――
急いで起きねばならぬと、寝ぼけた意識を無理やり引っ張り出し、目を見開く。
するとどうだろう。目の前には鬱蒼とした森が広がっていた。
「ほへ?」
目を瞬かせる事しばし。
頬に手を伸ばし思いっきりつねってみる。
ちゃんと痛い。
深呼吸をしてみる。
……湿った土と樹木の匂いが肺いっぱいに広がる。地面についた手と臀部からはしっとりと湿った感触が。
夢では、ないらしい。
「……えっと……え? えええええええ!?」
時間が経つにつれて、錯乱の度合いは大きくなっていった。
どう贔屓目に見ても、ここは少女の部屋ではない。彼女が暮らすのは1LDKのマンションであり、こんなダイナミックな自然あふれるオープンテラスではない。
右を向いても森、左を向いても森……木々の合間から見えるのもまた木々であり、果てらしい場所など見当たらない。
そもそもの問題として視界に入る樹木が見た事のないものだった。杉や檜では断じてない。
茶色い樹皮に、緑の葉っぱ……ここまではいい。青々と生い茂った、冗談のように大きな葉っぱは少女の知識の中にあるありとあらゆる植物に合致しないものだった。何せ、少女の頭ほどの大きさがあるのだ。
(これって……まさか……!?)
まさか。もしや。もしかして。
あり得ない前提が脳裏に浮かんでしまい、少女は必死にかぶりを振った。
「それ」は、少女の家族が一丸となって行っている研究のテーマ。
大国アメリカが日本と共同で進めている一大プロジェクト……その結果として起こるべき現象なのだ。
こんな、三文芝居の導入のような形で行われていいものでは、決してない。
いや、しかし、だが。
実際に、起きている現象はそうとしか思えないもので……
必死に、合理的で理想的な答えを出そうと頭を回転させる。服装は変わっていない。紺色のブラウスに、ワイシャツ、タイトスカート……少女の通う学校の制服そのままだ。
一番新しい記憶は、何だったか? 確か、夕飯の買い物の帰り路で――黒いワゴン車に。
(――!)
連れ込まれて、そこで記憶が途切れている。
(誘拐……されて、その後捨てられた……!? いや、けど……)
人波がまばらだったとはいえ町のど真ん中で、少女一人誘拐するのに必要な労力と、現状が釣り合わない。監禁するならいざ知らず、何処かへ放り出すとはどういう理屈だ?
誘拐されたという事実は、自然と受け入れられた。
彼女自身に価値はなくとも、彼女の周囲……身に着けているものも含めた価値ならば話は別だ。彼女を人質にとり、兄や父へ何らかの取引を持ち掛ける事はあり得ない話ではない。
彼女の家族は、遠いアメリカの血で国家の威信をかけた一大プロジェクトに、重要な役割で参加している。その研究成果を巡って血生臭いあれこれも行われていると聞くし、少女一人の誘拐程度なら違和感もない。
それに――
自然と、手が右耳のイヤリングへと延びる。
(まさか、これの事が、バレて――)
少女の思考を中断させたのは茂みを揺らす葉音。
「――!?」
思わず振り向くと……目が、あった。
ハゲは見渡す限りの草原を、馬車で進んでいた。
黒毛の馬に馬車をひかせて、御者台の上で黙々と手綱を握っている。馬体が普通の馬の倍はあるだろう、筋骨隆々の巨大馬だった。
巨大馬は歩を止めると、くるりと背後を振り返り――
「なぁー? 方向ほんとにこっちであってんのかぁ?」
喋った。
人間の言葉を流ちょうに。
相棒の疑問に、ハゲはつっけんどんに返した。
「勘だ」
「勘かぁ……」
この男が勘と言えば、それはもはや確定事項である。
その事をよく知っている化け物――今は馬――は、それ以上の論争を諦めた。
「お前の勘は信じるけどよぉ……このまんま道進んだらエシャロットの森に突っ込んじまうぜ」
エシャロットの森とは、別名、国境跨ぎの森とも呼ばれる広大な大森林だ。クレイフィールド共和国からフラグレア王国の国境を突き抜け、カーウァイ連邦にまで広がっており……その植生の厄介さから国家間で領有権の押し付け合いが発生するような危険地帯である。
強い毒性を持つ植物や食肉植物が広く分布し、人を襲う猛獣が平然と跋扈する、そんな場所である。そのくせ、各国の環境省によって保護指定区域に指定されているため、動植物に傷をつけようものなら罰金刑……最悪、懲役刑までありうる。
危険なくせに反撃すれば罰則付き。そんなところに好き好んで近寄ろうとするのは、森の民と呼ばれるエルフぐらいなものであった。物好きな事に、彼らはこのデンジャラスな森の中に集落を作り、居住しているのだ。
「…………」
「土方の馬鹿じゃあるまいし、エルフと真正面から事構える気か? まー、俺はバッチこいだけどね。あいつら、嫌いだし」
「おそらく、その手前で確保できる」
「勘か」
「いや――」
ハゲは、言葉を切って手綱を手放した。腰に差した刀を手繰り寄せ、鯉口を切り――
「既に聞こえる」
「……いや、お前が聞こえても俺は聞こえないんだけれども……お前の人外染みた五感を俺に求めるなよ……」
「後、俺がいいというまで、お前はしゃべるな。常識的な範囲で馬に徹しろ」
「なんでよ?」
「勘だ……後で奢る」
「アッシュブレッドな」
この男が勘と言えば、それはもはや確定事項である。
その事をよく知っている馬は、お言葉に甘えて馬に徹する事にした。実は、馬の声帯で人間の言葉を喋るのは結構疲れるのである。
ハゲは御者台から手綱を振るい、相棒に鞭打つ。
意思疎通ができる相手に鞭打つという行為は、下手をしなくても侮蔑的な行為だが、馬に徹する以上は、一部の隙もない馬扱いをしなければならない――ハゲの勘が、そうささやいていた。
だからこその、奢る発言である。化け物もそれがわかっていたから、黙って馬ごっこに興じ、走り出した。多くを言わずとも伝わる程度には、わかりあっている一人と一匹であった。
馬車を揺らし、普通の馬並みの速度で進むことしばし――
「……見えた」
石畳の街道の突き当り、森と草原の境目――
「~~~っ! ~~~~~~~~~~っ!!」
一人と一匹がこの田舎に派遣された理由が、木の上で悲鳴を上げていた。
端的に言えば獣に襲われる無力な獲物……大木を半ばまで登り、枝にしがみついて声にならない悲鳴をまき散らす少女。
この辺りでは見慣れない格好の少女だった。触れれば即死ものの毒の茨が群生するこの森で、肌の露出するスカートなど何の冗談だ。ハゲとは違い、豊かな髪をポニーテールでまとめている。
そんな、場違いな姿の少女は木の根元の脅威から逃げようと、必死にもがいている。
彼女を追い立てるのは一匹の、狼。時に吠え立て、時に木の幹をひっかいて登ろうとし、時に距離を取る。執拗に、少女を狙っている狼に、男は覚えがあった。
「……エシャロットウルフか」
自然と呟いた口調に、嫌悪感がにじみ出たのは、対象の特性ゆえか。
エシャロットウルフ……エシャロットの森に生息する猛獣の一種であり、頂点捕食者である。元を辿ればばかなりいわくの有る持ち込まれ方をした外来生物であり、そこから過酷なエシャロットの森の環境に適応した結果誕生した固有種だ。
高い知能を持ち――人を喰らう。その上かなり性格が悪い。
今の状況が、まさにそれだった。エシャロットウルフの身体能力ならば、少女のしがみついている枝など安全地帯でも何でもない。一跳びで喉笛に食らいつき、木の上から引きずりおろせるだろう。
それを、吠えたて、さもぎりぎりのように装っているのは……多くの人から忌み嫌われる、その習性ゆえだ。エシャロットウルフには、獲物を嘲り、甚振ってから喰らう習性があるのだ。その傾向は、相手が人型種族であればより一層強くなる。
そこにあるのは猫のような嗜虐的な本能か、はたまた、自信をこんな環境に連れ込んだ人種への恨み辛みか――神ならぬ身には、理解の及ばぬ話である。
あるいは、相棒の化け物だったなら、知っていたりするかもしれないが。あえて聞こうとも思わない。
(弱肉強食。自然の掟。よそ様をとやかく言える筋合いじゃねえが――)
男は、無言で刀を抜き放つ。
(それは、お前自身にも当てはまるんだぜ?)
そこからの動きは、まるで、流れるかのようであった。
エシャロットウルフが、幾度目かの威嚇のために、木の幹に腹ばいになった瞬間――音もなくその背後に立ち、背中側から木の幹に向かって、刀を突き通した。
すっと、大した手ごたえもなく、エシャロットウルフの黒い毛並みが、木に縫い付けられる。骨と骨の隙間を狙った精密な一刺しであった。
心臓を的確に射抜いたその一刺しは、エシャロットの森の頂点捕食者を、敵の存在すら認知させず絶命させた。
「……終わったぞ。降りてこい」
木の上の少女に言い放ちながら、男は刀を引き抜く。傷口から血が噴き出すも、男は身を引いてそれを躱した。真紅の鮮血が、地面のくぼみに水たまりを作っていく。
目の前の脅威が去った事で、ようやく男の存在に気づいた少女は、涙で潤んでいた瞳にさらなる涙をうかべ――気と同時に、全身の力も緩めてしまったのか、
「あ、は、はい――うぴゃあぁっ!?」
滑って、落ちた。
……現在進行形で広がる、エシャロットウルフの血だまりのど真ん中に。
そこまで予測していた男は、落下の衝撃で巻き起こった飛沫をも回避しきっていた。
背後では、馬が「いや、受け止めてやれよ」とばかりに嘶いていた。
少女の髪型が記入されていなかったのを修正しました。