5. 襲撃
「お父さん、今日は帰り遅いって。先に食べちゃいましょ」
夕食は、カレーにサラダか。
「兄ちゃん、俺ミニトマト嫌いだから兄ちゃん食ベてよ」
「ダメだ。好き嫌いは良くない。母さん。野菜、ちょっと少なくない? 」
「え? そう? だったら、いつも通り野菜ジュース入れてあるから、
それになさい。それから配布物、もらってるでしょ。きちんと見せてね」
「はいはい」
「ごちそうさまでした、俺風呂入って寝るね」
「食器洗って行きなさいよ」
「はいはい」
「兄ちゃん、ゲームの相手してよ」
「ダメだ。お前も夜遅くまでゲームしてないで、さっさと宿題して寝ろ」
「宿題なんて出てないよ」
「じゃあ、勉強して早く寝ろ」
「兄ちゃんだって、成績良くないじゃん」
「そう。兄ちゃんは成績が良くないから、弟のお前が成績良くないと困るだろ」
「なんだ、それ」
食後、俺はいつも通りビタミン、クエン酸、DHA(EPA入り)、鉄分、
植物油のサプリメントを補給した。
「兄ちゃん、そういうのいつも飲んでるくせに、勉強も運動もダメダメじゃん」
「ハァ……学、わかってないな。健康とそういう能力は、別だ」
「何、偉そうに言ってるの。アンタ」
「母さんまで。やれやれ。仮に人間の寿命が90年だとして、どんなに優秀な
人間でも40過ぎれば下降の一途だ。どんなアスリートでも、同じく40には
選手生命の寿命を迎える。競争に体を酷使した分、健康寿命も短い。
人生において、人間が競争に明け暮れる? 文明人が、何を全力疾走する
必要がある? 」
「兄ちゃん、また始めたよ」
「もう、そういう話はいいから、先にプリント見せなさい。学、あんたも。
今のうちに見せなさい」
「はいはい」
俺と弟は、プリントを取りに行った。
「はい、プリント」
「健康を損なって残りの人生を享受するよりも、周りに使われず、
普通に健康で長生きする。そっちの方が人生90年の幸せは、上ではないかね? 」
「兄ちゃん。まだ続けるんだ、それ」
「まあ、いいわ。言いたいなら言いなさい。
母さん、プリントに目を通すので忙しいから」
「周りを見てみろ。頭から健康の2字がスッポリ抜けてるから、
自分の能力を慢心した者は脱落していく。同様、自ら健康を損なうものに
夢中になり、金を使って身も心も金も消耗する。
損なった時に、取り返しのつかない時間と金そして、健康の価値を知る。
――もっとも、健康を体験したことのない者は、その時に気づくかも不明だ。
太く短い人生よりも、細く長い危うい人生よりも、切れず長い人生。
それが俺の人生だ。
そう、最後に物を言えるのは、栄養バランスのとれた健康的な人間だ」
「ハイハイ、もう気は済んだでしょ? それで、今日の始業式はどうだったの?
クラスはどうだったのかしら? 母さん、それが知りたいわ」
「う、何もないよ。強いて言うなら、先生と仲良くなった」
「あら、そう。いいじゃないの。誰先生だったかしら? 」
「階下先生、技術の」
「技術ね。できれば、5科目のどれかの方が良かったかしら? 」
「クラス替えなんかに文句言っても、しょうがないでしょ」
「それもそうね。なんだか、最近夜の事件が多いらしいわね。
戸締りも注意しないとね。あら、何件か日変わりにかけて、
原因・正体不明の路上傷害事件……何かしら? 目撃情報求むですって」
「なんか、うちの小学校でも全校朝礼で言ってた。
ケガの具合から、野良犬やイノシシの仕業じゃないかって」
「野犬はともかく、イノシシとかそんな凶暴なのいないだろ」
「あんたたちも、気をつけさないね。早く、お風呂入ってらっしゃい」
「わかった、じゃあ入ってもう寝るよ」
「兄ちゃん、俺が先入る。兄ちゃんが入る湯、ぬるいんだもん」
「ダメだ、熱い湯はタンパク質を変性させて体によくないんだぞ。
熱いのに浸かりたかったら、足してくれ。お前が後、俺が先だ。
ほら、お前はゲームでもして来い」
――髪の洗い方や、風呂の入り方も、コツがある。
髪は38度でよく湯洗いし、シャンプーして指の腹で毛根、頭皮マッサージ。
髪先まで洗って、同様、よく湯洗いする。
逆に、コンディショナーは毛根・頭皮を避けて毛先まで洗い、よく洗い流す。
最後の仕上げはトリートメント。
コンディショナーと同じ要領で5分放置で髪になじませる。
中学生は、週1回でいい。
その間に体を洗って、風呂温度は38度の20~30分、半身浴。これだけ。
好みで血行促進、筋肉疲労、冷え性etc……の効用のある入浴剤を入れる。
「ふぅ……」
1日の疲れが取れる――入浴剤をシャワーで流し、風呂から上がる。
髪も、熱風では乾かさない。常風か冷風で乾かす。
後はうがいをする。歯を磨くのは、できれば食後1時間だが、
今日は寝る前でもいい。
薄めた常温のスポーツドリンクで水分を補給する。
頭から足先まで、体に水分が行き渡る。
「げ、兄ちゃんまたそれ? マズいでしょ」
「学には、この味がまだわからないだけさ」
見た目に恵まれなくても、これを何十年繰り返すだけで健康は維持できる。
「ちょっと、良好! お皿洗ってって言ったでしょ」
「ハイハイ、今やるよ。いつ洗おうと一緒でしょ」
食器を洗って戸棚に整理する。いつ洗っても一緒じゃなかった。
弟だな、場所が違う。
(こういうの、注意して欲しいんだよな)
冷蔵庫から野菜ジュース(無添加)を一つ持って、できればオーガニック
栽培日内加工・工場出荷が良かったが、うちの経済状況じゃ無理だ。
2階の自分の部屋に上がって、一息つく。
――時間が来た。俺は消灯し、ベッドに枕を入れて膨らませ、部屋を
こっそり出ることにした。
窓から出て、はしごを架け、地上に降り、路上に出る。
ポケットには野菜ジュース。俺は、今週も夜の街へ出かけた。
さすが春先だ。穏やかな風が心地いい。
今日はお決まりのコース、河川敷だ。上流がいい。
上流は魚釣りもできるくらいきれいで、水の深さもひざの高さくらいで、
申し分ない。
早朝は陽当たりの角度のせいで、けだるい残念さを感じる景色だが、
特に、これから夏にかけての昼の時間は、天気が良ければちょうどいい
のどかな風景になる。
観光的絶景という派手さはないが、庭園の小池みたいな、小規模で
自然に放置してあるにはバランスがいい、そんな見やすさがある。
特に、所々の橋から上流を見渡すと、ちょうどよく川が曲がっている。
その曲がり具合、全てが自分の持つイメージ通りの川の風景だ。
他にも色々川はあるが、俺はここのが一番気に入っている。
夜は、月に照らされて少し寂しげな風景ではあるが、俺にとっては
安らぐ、絶好の場所だった。
道路に接している箇所もあるから、交通量によっては歩行人に見られる
リスクもあるものの、うちみたいな田舎では、出歩くのも少ない。
俺は、ポケットから野菜ジュースを取り出し、一口一口、味わって飲んでいた。
ミネラルが体に行き渡る。
「体に、ベジタブル・ピラミッドが~」
思わず、変な独りごとが出た。
風に当たり、上流に体を向けながら、飽くことのない川の曲線に、心を奪われていた。……格別な一時に、しばらくの間入り浸っていた。
――途端、急に風が湿気を帯び、辺りがざわめき始めた。
心なしか、一帯の雲の流れが急に速くなり、雲行きも怪しくなってきた。
突風? にわか雨? 地震? 川が小さく波打ち始め、少しずつ大きくなっている。
(何か近づいてくる!? )
右か左か、とっさに危機を察知し、思わず身を引く。
何かわからないが、殺気を感じる。体が反応、硬直している。
(……! くる! )
体を反転し身を反らした瞬間――俺の右腕は何かに切られた……気がした。
衝撃が体の前を吹き抜けた。
右腕を確認すると、遅れて出血してくる……並みじゃない鋭利さだった。
(何か、ヤバイのに襲われている! )