一九八〇年、八月十五日。
「父は黙って逝きましたけど、母は病気の床で貴女はきっと中国で生きている、と。今更合わせる顔などないけど一目でも会いたい、と」
八月半ばの陽が焼け付くように照り、草いきれのする山の墓地。
柄杓の水を墓石に掛けると、御影石の墓は一瞬、生き返ったように滑らかな輝きを取り戻した。
少し遅れて、石に刻まれた「山口家之墓」の「山口」の二字が黒々と浮き上がってくる。
私は今は結婚して「森さくら」。
彼女も今は「周麗」。
どちらにとっても過去の姓だ。
「私は香港にいたんですから、消息が掴めなくても仕方ありません」
まだ黄緑をほのかに含む白百合の花束を手にした彼女は私とそっくりな大きく丸い目を伏せて静かに続けた。
「私もずっと日本人の自分を隠して生きてきました」
こちらの福島訛りが恥ずかしくなるような綺麗な日本語だ。
しかし、それこそがこの生き別れた双子の姉にとって日本語が既に母語でない証左でもあるのだろう。
「香港へは」
イギリスの統治下でいち早く中国本土より豊かになった、カンフー映画で有名な、ピークトラムの走る、中国であって中国でない、華やかな街。
自分の中ではテレビや雑誌で見たそんなイメージしかない。
「いつ移ったんですか」
日本に帰国した私たち一家の中では、双子の姉のうららは満州で隣に住んでいた周さんのお宅に預けられたところで行方が途切れていた。
「育てのご両親も?」
――この子は私たちが何とかしますから、あなたたちは早くお逃げなさい。
日本の敗戦で混乱に陥った満州から脱出する際、猩紅熱にかかった双子の姉だけが隣家の子供のいない周夫妻の許に残された。
五歳の私にとっていつも一緒にいた「うららちゃん」と離れるのは自分の半身を引き裂かれるようなものだった。
独り異国に残された彼女はそれ以上に辛かったはずだ。
両親と私の三人が命からがら乗った引き揚げの船でも多くの人が日本に着くのを待てずに亡くなった。
船の中はいつも垢じみた着のみ着のまま逃げてきた人たちの汗や糞尿や嘔吐物の入り交じった匂いがしていた。
その中で死んでいく人たちの中には私とさして年の変わらぬ幼い子供もいた。
息絶えた子供を抱いて忍び泣くよその家族を目にすると、私たち一家は互いに口には出さないまま「うららちゃん」を思い出して打ち沈んだ。
「文革の頃、育てのお父さんお母さんと一緒に移りました」
「そうですか」
少なくとも彼女はずっと孤独ではなかったのだ。どこかで安心する自分にまた後ろめたさを覚えた。
「サミーちゃん、あれ、トンボだよ!」
声に振り向くと、七歳の娘が飛んでいく赤トンボを指差して笑っていた。
「蜻蛉?」
同い年の彼女の娘も物珍しげに見入る。
レースじみた細長い羽をキラリと夏の陽に煌めかせると、赤い機体の飛行機に似た虫は晴れ渡る水色の空を真っ直ぐに飛び去っていった。