2.諏訪
2.諏訪
寮に戻ると、中は雑然としていた。それもそうだろう、最近荒御魂が活発化していると聞いているからだ。大きいものから小さいものまで陳情が都まで届けられるのだ。使、と一言に言っても全員が全員神を祓うわけではない。むしろこういう机仕事の方が多いのだと浅間は言っていた。陳情の整理、場所の特定、派遣する使の選定、その後の場の検分など、多岐に渡るのだ。
「お、出雲。お前、いつも埋まってるなぁ」
「うん? 誰かと思ったら八幡丸じゃないか。お前、またタダ働きしたんだと?」
「げ、なんで知って……お前か浅間!」
浅間が明後日の方向を見て口笛を吹く真似をした。浅間は使い走りをする鳥を何羽か飼っているのだ。八幡丸はそういうものを持っていないので、時折京に戻って来たときにまとめて報告をする。
「お前はいつもタダ働きだな、八幡丸」
直衣姿の出雲が、新たな墨をすりながら言った。出雲は小柄なものが多い当時の日本人よりも、もっと背が低い。とはいえ、ここでは一、二を争う古株なのだと浅間が言っていた。本来は篳篥弾きで、宮中の雅楽寮に属していたのだが、帝の代替わりによる官吏の総入れ替えにあたってしまい、神祓寮に移ったのだという。
「うるさい。まさか、連れていかれるとは思わんだろうが」
「まぁ、そこがお前の良い所ではあるがな」
出雲はそういうと、くるくると筆を回して、また書面に向き合った。
「ほれ、これを持っていくといい」
「分かった」
竹簡を手にし、八幡丸は背を向けた。
「なぁ、八幡丸。お前、少しは字を習ったらどうだ?」
「断る。誰がミミズの這ったようなものを読めと言うんだ」
きっぱりと八幡丸が言った。そのまますたすたと行ってしまった八幡丸の背を浅間と出雲は呆れたように眺めていた。
「まだ怒ってるのかしらね」
「まぁなぁ。あれはひどかったからな」
二人はそんなことを言って、それぞれの仕事へと向かった。
―――― やはり、遠国のものは学が無いでおじゃる。
いつかの宴に呼ばれた時にそう言われたのだ。そのころの宴といえば、ただ楽を鳴らし食事を囲むだけではなかったのだ。歌を詠みあうことが風流であり、たしなみとされた。使の人間一人一人が詠みあえ、と言われたのだ。一人一人歌を詠んでいく中で、八幡丸は一人焦っていた。
八幡丸はこれも使の役割なのか、と疑問に思ったのだ。
そもそも、歌とは何だ? といった段階であった。周りを見れば、皆朗々と歌い上げていく。その中で八幡丸がただ一人、詠めなかったのだ。のどがからからに乾いて、何も考えられなくなった。その中で、突如響いてきたのだ。
悔しい、と初めて思った。
それと同時に、ここにいるべきではないと思った。早く逃げ出したい、そう思った時、声が聞こえたのだ。
「この者の無風流は、主の責。私が代わりに歌おう」
はっ、と顔を上げると、そこには壮年の男が立っていた。男が歌うと、ほぅ、という感嘆の声があちこちから聞こえた。歌の良しあしなどわからない八幡丸はただ助かった、ということだけしか分からなかった。
その男とは平知盛。現在病床にある清盛に代わり、実権を握る男である。平一門がどれほどの権力を握っているかなど、八幡丸には興味がなかった。ただ、彷徨える神々を救えればそれでよかった。
だが、それではいけないと出雲も浅間も言う。
俺にできることなんてないだろう。
「殿、八幡丸でございます」
「入れ」
短い言葉が返って来た。八幡丸は下座に通され、その場で平伏した。きれいに整えられたしつらいの中、埃にまみれた自分が入るのはなんだか落ち着かない。声の主、知盛は文机に向かって筆を走らせていた。文机の左右には大小さまざまな紙が散乱している。おそらく政に関わることなのだろう、と八幡丸は思った。
「報告に上がりました」
「そこに置いておけ」
「かしこまりました」
短いやり取りであっても、八幡丸はいくらやっても慣れないものだと思った。知盛は決して武人ではない。だが、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを持った男である。気を抜けば切り捨てられるのではないかと八幡丸が思うほどである。
油断ならない、そして堂々とした振る舞いはさすが一門の頭を務めるだけはあると思う。
「八幡丸」
珍しく知盛が八幡丸を呼び止めた。
「なんでございましょう」
「お前は今まで墜ち神に出くわしたことはあるか」
「墜ち神、とは何でございましょう?」
思わず出てしまった言葉に、八幡丸は後悔した。知盛の手が止まったからだ。
「知らぬのならば、よい」
「かしこまりました」
深く礼をして、八幡丸はその場を後にした。
「墜ち神を知らない? なるほど、お前はまだそこまでたどり着いていないか」
出雲がやっと片付けた書類に埋まりながら言った。出雲は八幡丸の問いかけに資料をとってくると言い、また書類の海に身を投げた。
まるで稲わらに飛び込むネズミのようだ、と八幡丸は思った。
「あったぞ。報告書に上がっている」
巻物となっているそれを出雲がするりと開いた。絵巻物のようになっているそれは、八幡丸でも何となく理解することができた。絵巻物は開きながら読み進めていく。これは絵で紹介されていて、字は少ない。
「なんて書いてある?」
「墜ち神とは、穢れを吸い込み過ぎた神と書いてある。この場合、祓ったところで元に戻ることはないと書いてあるな」
「祓うことができない?」
いままで祓うことのできない荒御魂に会ったことはない。穢れを吸い込み、それをみそぐことで神は元通りになるのではなかったか。
「末世だからでもあるんだよ。八幡丸」
「末世とは、そこまでひどいものなのか」
「あぁ。お前も気をつけろ。祓えないのならば、封じるしかなくなるんだ」
「分かっている」
八幡丸は小さく答えて寮を後にした。いつのまにか日は山の向こうへと落ちているころだった。荒御魂の影響で、人々は陽が落ちる前に住まいへと戻っていく。かつては活気があったであろう、朱雀大路も、閑散としている。八幡丸以外に通る人がいない。通るとすれば野良犬の類だ。
「ここが都か」
振り返ってみるも、誰もいない。八幡丸が都についた日からこのような物だから、別に何ともないのだ。もし、平安も隆盛を極めていた、藤原関白の時代の人間が見れば腰を抜かすかもしれない。
だからどうだ、というわけでもないが八幡丸は長屋に帰って来た。月に二度帰って来ればいいような家なので、埃がたまり放題だ。適当に埃を払い、むしろに寝転がる。使であるならば、ここでなくとも住めるのだが、八幡丸はあえてここを住まいにした。元々住んでいた家がこんな風だったからだ。いきなり良い暮らしをしてしまったら、故郷の親に仕送りをする金がなくなってしまう。そもそも、あまり帰ってこない家に金をつぎ込む気にはなれなかった。むしろ、仕事に使うあれこれに金を使った方がよいような気がしたのだ。
「食い物を買うのをわすれていたな」
とはいえ、もう市はとっくにしまっているから出ていこうにも店がない。取り置きの食材もない。
こういう時、何をするんだろうかといつも悩む。村にいたときは毎日が必死だった。生きていくために田畑を耕さなければいけなかった。弟達に食べさせなくてはいけなかったし、そもそも長男の自分が家を出てしまっていいのかと思うのだ。
天井に向かって何を見るでもなく、じっとしている。この時間がむなしく感じてきて、八幡丸は寝ることにした。ごろり、と体を横たえようとしたとたん、びくり、と体に寒気が走った。
「荒御魂っ!?」
壁に立てかけていた小太刀を手に取ると、八幡丸は勢いよく外に飛び出した。それは、使に与えられる不思議な勘のような物だった。荒御魂になった神の近くを通ると、それを感じることができる。
闇夜の中をひた走り、八幡丸は羅城門を飛び出した。草鞋を履いていないので、小石が足裏にあたり、こすれる感触がする。草原にたどり着くと、八幡丸は上を向いた。
「大狢、か」
狢は子犬ほどの大きさの獣ではあるが、荒御魂となったその姿は肥大し八幡丸の背をゆうに超えていた。狢は赤くなった瞳でこちらを見るなり、たっと駆けだした。
「っ!」
とっさに体をひねって避けるものの、狢の方が身軽。避けられた狢が体を曲げ、八幡丸を蹴りあげた。
「がっ!」
蹴り上げられ、八幡丸の体が弓のようにしなった。狢は木の葉のように舞う八幡丸に己の尾を括り付けた。
そのまま、地面に叩きつける。左腕にすべての体重が掛けられ、八幡丸は目を白黒させた。頭だけは守った八幡丸だったが、薄く血がにじんでしまった。
「あんた、なんで京に来た!」
身を伏せ、狢の右腕を交わした八幡丸が叫んだ。
「ここはあんたのいるべきとこじゃないんだ!」
左腕が飛んでくるのを、小太刀で受け止める。と、力を一瞬抜き、もう一本の短剣を左手に突き刺した。ぐぉぉ、と地響きのようなうなり声を狢が挙げる。
「こっちに来い!」
八幡丸は、南へと走っていく。穢れた神は都は拒む。数百年も前にいたという狐の子どもがそう印を結んだという話があるからだ。木をなぎ倒しながら狢が進んでいく。
その姿を見、八幡丸ははたと気が付いた。
―――― この神は、右足を庇ってはいないだろうか。
移動している時に、どこか右足を庇っているように見えたのだ。神を傷つけることができるとすれば、使ぐらいなものだ。あるいは、悪意のあるものの仕業だ。傷つけられ、そこから邪気が入り込み、荒御魂とかしたのならば都に来たのも理解できる。
「おい!」
うぅ、と狢がうなって尻尾を八幡丸につきつける。
「右足、痛いんだろう!」
腕が飛んでくる。先程傷つけた左手の傷はもうふさがってしまっている。
「右足、俺に何とかしろって事だろう!?」
獣の姿をしている神は答えない。ただ、いたずらに力を振るうまでだ。それらを受け止め、流す。大狢に言葉が通じないなら、力でどうするしかない。神を鎮める力には様々な媒介があるのだが、八幡丸の刀は傷つけない限り神を鎮めることができない。
「鎮まってくれ!」
八幡丸が鞘に収めた小太刀で、狢の脳天を叩いた。狢は体をそらし、地に伏した。グラリ、と傾いだ体にかけより右足を見ると、やはり化膿していた。
「今、治してやるからな」
そういって小太刀を引き抜く八幡丸の頭上を何かがかすった。とたん、狢が悲鳴のような高い鳴き声を発した。
「な……なんだ?」
八幡丸が顔を上げたときには、狢の背に一本の矢が突き刺さっていた。
「その神は、手遅れだって気づかねぇか。この愚図が」
はっと、八幡丸が闇夜に目を凝らすと、背後からゆっくり歩いてくる人影があった。絵巻物の人間のような糸目に、白い顔。手に弓を持ち、太刀をはいた男が歩いてきた。男が歩き寄ると、さらさらと砂のように狢が宙に溶けていった。神を祓うのではなく、神の存在そのものを消し去った男に八幡丸はただものではない、と感じた。
「お前と同じだ」
「使ならば、神を祓うべきだ。なぜ、神を消した!」
「名のある神ならばまだしも、この神は名もなき神。救う道理がどこにある」
神を消すまでに至るほどの力を持っている男に、八幡丸は嫌悪の情を抱いた。使の力が強い者の中には、神を消し去ってしまう者もいると聞いた。そうならぬよう、使は力を制限して戦っていくべきだ、と八幡丸は出雲に教わった。
「まさか、怪我の穢れさえ祓えば元に戻ると思ったか?」
「……」
ぐっと、小太刀を握りしめた。
「あの穢れはもう手遅れだった。師であるならば、これ以上の被害が出る前に、消すのが役目だろう」
「………名は」
「諏訪」
「…………」
それだけを伝えて、諏訪と名乗った男は暗闇に紛れた。男の気配が完全に消えると、八幡丸は拳で地面を殴った。
「諏訪……あぁ、あの子だね」
伝令用の鳩に餌をやりながら八雲が答えた。
「知ってるのか?」
「確か、東国からやってきた子って言ってたかな。使の力も強いし、こちらとしてはありがたいけれど、頑なに一人を好む子だよ」
「一人がいい?」
「お前とはすこし違う性分だろうな。お前は、人が嫌いなわけじゃないからな」
白湯をすすりながら、八幡丸は胡坐をかいた。人が嫌いというか、故郷が小さい村だったらから、こんなに大勢の人間の中でどう生きていけばいいのか分からないだけだ。八雲は餌袋を振って中身を出し終ると、屋敷の中へ入ってきた。
「なぁ、八雲」
「なんだ? お前に何か気になることでもあったのか?」
「名もなき神は、救ったところで意味はないのか?」
「諏訪がそんなことを言ったのかい?」
少し驚いたように八雲が言った。たしかに、そんな考え方をする人間は珍しい。神仏習合という思考が広まっていったとはいえ、神を見捨てるような人間は珍しい。
「救う神と見捨てる神がいるのか?」
「はは、神が人ではなく人が神を選ぶのか。不思議な子だね、諏訪は」
「人が神を選ぶことなんてあるのか?」
「信仰する神はいるだろうよ。お前だって、八幡神だろうに」
八雲の言葉に八幡丸は首を振った。諏訪が言っていたのはそういう意味ではないような気がした。まるで神を見捨てるようなその言葉に、八幡丸は困惑しているのだ。
「そもそも、この国の神は自然から生まれた神々だからな。木が無ければ人は飢える、水が無ければ人は渇く、それらに感謝することで、生きていることを感じられるんだがな。
諏訪は、まるで己が神よりも上だと言わんばかりだった。それは思い上がりというものだろう」
「はは、八幡丸は真摯だな」
にこやかに八雲が文机に向かった。今日の仕事を始めるらしい。今日は特にすることはない八幡丸はただ八雲の傍にいた。
「なんだ、ようやく勉学をする気になったか?」
「うるさい」
仕事がないときは八雲の世話をすることにしていた。この男は、仕事に没頭すれば何もしなくなる。食事はともかく便所にすらいかなくなる。生返事ばかりするものだが、気づかせるだけでも大事だ。
あとは、大穴の仕事がふってくることもあるからだ。家にいても何もないからだ。
「八幡丸、いるなら白湯を沸かしてくれ」
「分かった」
この時代、まだまだ茶の湯は完成されていない。飲料としたら水か酒である。茶はまだ薬として売られているものなので、一般市民には手に入らない。とはいえ、官吏ともなれば買えなくもないのだが、この男は茶を飲む少しの金があれば書物に費やしてしまうので、白湯をよく飲む。八幡丸はそもそも茶なんて苦いものをなぜ好き好んで飲まないといけないのか、と思っている節があるため、二人で白湯を沸かして飲むのだ。
「阿波に大狸が出たそうだ」
「あそこは、狸が有名ではなかったか」
市井で聞いてきた噂話を八幡丸が語った。八幡丸は近所では「田舎から出てきた独り身の男」として有名で、よくうわさ話を聞かされる。本来ならば、女がする洗濯や料理などをするところを見かけられるものなので、珍しさ半分面白半分で話しかけられることが多い。なんだかほっとけないのだと言う。
「狸が人に悪さをしていたのだと言う。荒御魂になってしまっていた」
「そうか。都を守るのが精いっぱいだからな。我々は。大宰府の帥の方にも神祓ノ寮があればな」
「大宰府はあまり良い所ではないと聞くが」
「まぁな。これでも、まだ大陸との交流があった頃はそれはそれは隆盛だったと聞く」
「何年前の話をしているんだ」
「さぁてね」
次の書面を取り出し、八雲が言った。
「お前は次はどこに行くか決めていないだろう」
「あぁ。仕事も来ていないだろうし」
「ならば、お前に一つ調査を頼みたい」
「なんだ?」
八雲はそういうと、後ろの棚から巻物を一つ取った。字の読めない八幡丸のために、八雲が別で書き写した書類だ。
「墜ち神が人に化けるという噂を聞いた。それを確かめてほしい」
「人に化ける?」
狐狸の類でもあるまいし、そんなことがあり得るのだろうか。
「東国の方で、墜ち神が人に化け村々を荒らしているとの報告があった」
「墜ち神とは何だ」
先日も、知盛が口にした言葉だ。
「穢れをまといすぎた荒御魂だ。祓いの力も届かないものと聞く」
「なるほどな」
「お前ひとりでは心もとない、浅間にも協力を頼んでいる」
「浅間も、か」
あまり気乗りのしないようで、八幡丸が明後日の方向を向いたのを、八雲は笑って流した。
「何かにつけて、浅間と俺を組ませるな」
「よい組み合わせだと思うんだから、組ませているんだ。お前は少しばかり情が厚すぎる」
「それのどこが悪い」
「感情的になりやすいと言っているんだ」
ぴたり、と八雲の手が止まった。
「情が無ければ務まらぬ役目だがな、それに囚われてしまっては元も子もないぞ」
「…………」
八雲に釘を刺され、八幡丸は押し黙った。