13 巴月の姫御前
朝もやがかかる中、八幡丸は陣を後にした。八幡丸は平氏側の将を一人喪わせてしまったからだ。使とはいえ、一介の兵士が将を守れなかったとなれば、その責任は重大で、八幡丸はその罪を被った。
「八幡丸、お前はしばらく戦に参加することを禁じる」
「かしこまりました」
知盛から渡された下知をもとに、八幡丸は陣を離れた。出雲ヤ諏訪が知盛に掛け合ってくれていたようだが、八幡丸はそれを断った。敦盛を守れなかったのは当然、自分の力が弱かったからだ。それならば、自分が去る方がよいと思った。それに、この戦に関して自分が知らないことが多かったのは事実。
「本当にいいの?」
太郎丸が浅間を連れてきていた。浅間はまだ眠たいようで、どこか足取りがおぼつかない。八幡丸はむしろこっちの方が慣れているので、目はさえわたっている。
「じゃあ、何かあったらすぐ俺を呼んでくれ。浅間。四天王の一人は討ったが、それでもまだ3人もいる。残っている中で、あいつらのことが分かっているのは浅間、お前だけだ。何かあったら、他の奴らの事も頼むぞ」
「わかったわ」
「じゃあ、俺はその辺を歩いてくる」
そのまま踵を返し、八幡丸は陣を去ることになった。八幡丸はどちらに行くこともない。東に行くにも源氏が多いだろうし、なんとなく浅間達を置いて故郷に帰るのもなんだか違う気がした。正直、これで生成したという気もある。ようやく戦から解放される、故郷に帰れるのではないか、とも思った。それでも、心のどこかでは、使としての役目をはたしていないのではないかという思いもあった。
「俺はどこに行ったらいいんだろうか」
八幡丸は当てもなく歩いていくと、ふと視界の隅に建物を見つけた。八幡丸が寄ってみると、そこは小さな堂だった。こんな人里離れたところにお堂があるなんて珍しい、もしかすると誰かいるかもしれない。それに、戦に巻き込まれるかもしれない場所だ、人がいるのなら早く伝えて逃げるか何かしないといけないだろう。
「誰かいるのか?」
「どちらさま?」
八幡丸はお堂から出てきた女を見てはっとした。この女はもしかすれば、鍛えている女ではないか、と。八幡丸はその神の加護のせいか、鍛えているものとそうでないものの見分けがついた。その女からは鉄と血の臭いがしたからだ。今は普通のひとえを着ているものの、どこか油断ならない雰囲気をまとっていた。
「あんた、名前は?」
「わたくしは……巴と申します。あなたは?」
「俺は八幡丸。今日の都で使をしていたものだ。巴、あんたはここから離れた方がいい」
使、という言葉に女の目が丸くなった。
「使であるならば、平氏の部下となって今は西国に落ち延びていると聞きますが、なぜあなたは陣を離れここにいるのですか?」
「平氏の将を一人、喪わせてしまったからな。それに、俺は別に平氏の部下となった気は毛頭ない」
まぁ、と女がころころと笑った。鈴を転がすような軽やかな声に八幡丸は何となく毒気を抜かれてしまった。女の姿を見たところ二十を半ばすぎたころくらいだろう。長い髪を軽く束ね、地味な渋色の単をまとっていた。
「立ち話もなんですから、上がっていってくださいな。水くらいしか出すものはありませんが」
巴の跡に従って八幡丸が入ると、お堂の隅に薙刀が置かれているのに目が入った。都で見かけた物よりも大型で、しかも反りが深い。半月のような形だ。
「気になりますか?」
「巴、あんたは元は武士の子か?」
巴は答えなかった。女であっても、親の遺産を受け継ぐことができる。おそらく巴は親から譲り受けた薙刀を親の形見と思ってお供えしているのではないかと思った。こんな時代だ、いつ親が死んでもおかしくない。お堂の中に立ち込める香の匂いはまだ真新しい物だった。
「なにがあったのですか? 将を失った理由があなたにあるとは到底思えないのですが」
促されるままに八幡丸はお堂の真ん中に座った。上座の方に女が座り、ほどなくしてわんに注がれた水がやってきた。念のため匂いを嗅ぎ、そして飲み下した。
「四天王がやってきたんだ。源氏の兵士の一人が俺達の将の一人を切り捨てた。俺はたまたまその場に居合わせたんだ」
「四天王、ですか」
「巴、何か知っているのか?」
「はい。私の大切な方もその四天王にやられましたから」
「そうか、それで巴はこんなところにいるんだな」
「私には使となるような力は持っていません。ですから、仇討などもできません」
仇討ち、か。と八幡丸は思った。敦盛の仇討ちを考えないわけでは無かったが、なんとなく違うような気がした。そもそも敦盛とはそんなに言葉を交わしたことがない。それなのに、仇討をしたいと思ったのはなぜだろうか。
「八幡丸は、いずれ平氏の元に戻るのですか?」
「わからない」
「分からない、とは?」
巴が面白がるように聞いてきた。袖で口元をおさえ、じっと八幡丸の言葉を待った。
「俺は単なる農民の子だ」
八幡丸は膝に乗せた両手を強く握った。
「俺は学が無いから、何って言ったらいいかは分からない。でも、戦になれば田畑が荒れる。神も力を削がれる。力を削がれた髪は荒御魂になって、それがさらに田畑が荒れる」
「それで?」
「その日にくうものが無ければ、人は獣になってしまう。俺の村はまだ村長が理解のあるやつだったからよかったものの、他の村では流行り病が起きても村長は何もしなかったって聞く。
国司に至っては、不作だとしても税を納めろとやってくる。俺達は、ずっと土地にしがみついていないといけないんだ。自由に動けるやつらが、なぜ俺達にいろいろ言ってくるんだ」
「…………」
巴は笑みをすっと収め、八幡丸を見た。それはどこか戦慣れした人間の顔だった。真剣な目が八幡丸を写した。深い色の瞳が八幡丸を写した。
「今回の戦だってそうだ。源氏だとか平氏だとか関係ない。戦をして、民を苦しめて何になるっていうんだ」
「戦で勝ち取るものがあるからですよ」
「だとしても、俺はそんなものに価値があるとは思えない」
「そうですか? だとしたら、あなたにとって価値のあるものとはいったい何ですか?」
八幡丸は言葉に詰まった。価値、と言われた。そんなの、知らない。戦をする以上の価値がこの世にあるのだろうか。
「価値がある、勝がない、っていうのも俺には分からない。俺にとって大切なのは、その日にくうものがあるかどうかだ。雨風がしのげる家があるかどうかだ。寒さや暑さから身を守る着るものがあるかどうかだ。それに、家族が病気をせずに働けるかどうかだ」
少なくとも、田畑を荒らして回るよりも価値があるものといえば、そのようなものしか思いつかない。しばらく八幡丸の言葉を吟味していた巴が急に吹きだした。そして、あははは、と威勢の良い笑い声を響かせた。
「八幡丸、あなたは本当に面白い子ですね」
「どういう意味だ?」
「あなたは欲のない人間ですね。市井の聖、とはあなたのような方を言うのでしょうね。八幡丸、私の事を教えましょう」
「うん?」
八幡丸が首をかしげると、耳の傍で風切り音がした。見ると巴が先程の薙刀を担いでいるではないか。とても女の細腕では扱えそうにないその大ぶりの薙刀を振るっていた。
「私は、かつて源氏の四天王に敗れた男の側女。八幡丸、お手を」
そういうなり、巴は八幡丸に向かって薙刀を振り下ろした。八幡丸もそっと避け、反撃した。使ではない、と言いながらも、その速さや武芸の巧みさは目を見張るものだった。だが、使である八幡丸の方が一枚上手で、すぐに決着がついた。
「八幡丸。あなたは学ばなければいけません」
「なにを?」
「あなたには戦う力があっても、それを使いこなすだけの頭がありません。私が鍛え直しましょう。きっと、それが私の価値なのでしょう」
「どういう意味だ……」
八幡丸の前に刀が一本差し出された。すっ、と八幡丸の頭から血が抜けていった。見上げると巴はにこやかに笑っていた。
「あなたには戦士としての才覚があると、私は思います。どうせ行く当てがないのであれば、私の弟子になりなさい」
八幡丸はその申し出は悪くないのではないかと思った。お堂の中は広く、体を動かすにはもってこいだ。それに、先程の手合わせで見せた巴の実力はどこか嘘っぽかった。八幡丸の腕を見込んで、わざと手を抜いていたのかもしれない。
「巴、言っておくが俺は使だ。平氏の部下になったつもりはない」
「分かっています。仇討ちに見えてしまうかもしれない。けれど、私はあの人がただの逆賊として歴史に刻まれるのが口惜しくて仕方ない。ならばせめて足掻いた記憶を残したい。たとえそれが褒められた方法でなくとも」
「巴、俺は学が無い。だが、学を得ることで何かわかることはあるか?」
都を出る前まで、勉学など煩わしいとしか思わなかった。しかし、戦を見て行くうちに、学が無い自分がなんだかつまらない存在に見えてきた。まるで大きなうねりの中に取り残されていくような錯覚まで覚えるようになった。
ならば、学を得てみようではないか、と思った。
今更出雲や浅間に頭を下げるのは気が引ける。諏訪などもってのほかだ。ならば、巴ならばどうだろう。平氏とはかかわりのない人間で、しかも強い。
巴との修業は数日間に及んだ。巴の持ち込んだ勉学は出雲が読めといった物とは違い、漢字が少なかった。
「それは私が武士の子であった時に覚書にしていたものです。今はとにかく時間がありません。孫子は外せません。呉子、六韜、三略といった物も覚えておいて損はないはずです。もっと余裕があるのであれば、韓非子などもよいでしょう」
「そんし? りく……りゃく?」
つらつらと言われた言葉の意味も分からず、八幡丸は書物を広げた。そもそもひらがなすらまともに読めない人間であることを知ってか知らずか、巴は八幡丸に語って聞かせた。それは領地の経営についてのものもあった。初めは農民の子には不必要ではないかと、巴にいったのだが、巴は頑として譲らなかった。
「なぜだ?」
「農民の子だから、必要ないと誰が決めましたか? そのような法がありますか?」
「俺達農民は、田畑を耕して税を納めるだけでいい。それ以外になにができるというんだ?」
「あなたは最早農民ではない。そうでしょう」
「いや、俺は農民だ」
その言葉に巴はきょとんとした。
「農民であれば、あのような場所に出る必要はありませんよ」
「俺は使でもあるからな」
「ならば、あなたは農民ではありませんよ。あなたには思慮の力をつけてもらいます」
「………」
「考え、考え抜くのです。この戦で己の立ち位置を見出すのです」
「だが、俺は追放されたも同然だぞ」
「ならば、なぜここにいるのですか? 私の誘いなど跳ねのけ、故郷に帰ればよいではありませんか」
そうだ、とも違う、とも言えなかった。八幡丸はぐっと、つばを飲み込んだ。何を言えばいいのか分からない。ぐるぐると頭の中が廻っていくのを感じる。どうしても、何か言わなくては思えば思うほど、空回りしている自分が分かる。巴は、八幡あるが何を言うのかをじっと待っている。八幡丸はゆっくりと、しかし芯のある声で言った。
「俺は荒御魂にあってきた。人々の思いを受け止めた神々を見てきた。
神々の想いは色々あったけれど、どれも人間を心から愛していた。でも、人間は簡単にそれを見捨てているような気がする。故郷にいた頃の俺は、ただかっこいからという意味で使を目指していたんだと思う」
「ほう。それで?」
「俺は、傷ついている神々を救いたい。この戦でもう幾度も神々が荒御魂となっているのを見てきた。それに、神を取り入れた人間も見た。墜神だ」
墜神、という言葉に巴の方が一瞬震えた。巴は何でもないとでもいうように水を飲み、八幡丸にもそれを勧めた。八幡丸も、同じように椀をのぞき込んだ。そこにはどこかぼんやりしているような自分の顔が映っていた。どこか頼りなさげに見えるこの顔も、なんだか嫌いに離れない。
「源氏が戦を仕掛けていて、それが全国に回るのは嫌だ。源氏は関係のない民を巻き込むと言っていた。そんな戦い方は俺は嫌いだ
田畑は俺達の宝だ。先祖代々守り継いできた田畑だから、それを焼くなんてことは俺は許せない」
「それがあなたの考えですか、八幡丸。そういうのであれば、あなたはもうただの農民ではありませんよ。ですが、書物から得た考えというわけではなさそうですね」
「あぁ、ずっと前からそう思っていた」
「やはり、あなたはただの農民の子ではないようですね。八幡丸、そろそろあなたが行くべき時が来たようですよ」
巴が戸の外を見て、八幡丸もそれに続いた。すると、二郎丸が大きな声で中に向かってほえたてていた。まるで八幡丸がそこにいるのに気づいているかのように。
「二郎丸? どうしてここに?」
八幡丸は二郎丸の首に結わえてある包みを開いた。字が読めない八幡丸の代わりに模様が描かれていた。その模様はすぐに来い、というものだった。
「浅間が呼んでいる?」
八幡丸ははっと空を見上げた。丸で荒らしの前触れかのように、重暗い空だった。
「巴!」
急いで八幡丸が中に戻ると、巴が一振りの太刀を持って立っていた。
「これをあなたにあげましょう」
「いいのか?」
どう見ても相当の業物だと分かる。黒いのは漆を塗っているからで、しかも相当使い込まれたことが分かるほどに、柄や鞘には傷跡が残っていた。八幡丸が最初に貰った小太刀とは比べ物にならない価値があるのではないかと思った。
「なにか身に危機が迫るようであれば、これを使いなさい」
「分かった。ありがとう、巴!」
手早く荷物をまとめ、八幡丸は二郎丸とともにお堂を後にした。
八幡丸を送った後、巴は何も置かれていない鹿の角飾りをじっと見ていた。
「これでよかったのですね。義仲様」
ふふ、と力なく笑った。そして、すぅと巴の体が光に包まれた。そして、消えた後にはあの大きな薙刀だけがただ、空っぽのお堂に残されているだけだった。




