10 湖上の荒御魂
月が西の空に沈み、暗がりになっているころ、八幡丸はとある湖に来ていた。こんな忙しい頃に、また荒御魂が出たという。だが、都にいるよりかは良いだろう。そう思った。
「神はどこにいる?」
八幡丸は湖上を眺めていた。月が映りこんだ湖上は静まり返り、何の気配すらない。上を見上げると、小さな星々が連なっていた。この中に本当に荒御魂がいるんだろうか。荒御魂が出現している所というのは、たいてい目に見えて荒れ果てていることが多い。それなのに、ここにある木々は青々としていて、水に手を浸してみても、透き通っている。神が正常に加護をしているという証拠だ。
八幡丸は不思議に思いつつもその場に座り込んだ。ざぁざぁと草木が風にしなる音がする。それ以外の音は何も聞こえない。時折魚が跳ねるくらいだ。
「はずれか?」
いや、そんな不確かな情報を出雲が渡すわけがない。だが、出雲も連日寝ずに調べ廻っていると聞く。もしかしたら、気を聞かせてくれたのかもしれない。と、八幡丸がその場を後にしようとすると、八幡丸の視界の隅に青白い物が映りこんだ。
「!」
それは、ボロボロの服を着た女だった。女はどこか虚ろな目をしたまま、流れるような動きで湖まで歩いていた。
「この時間に行水とは珍しい」
八幡丸は、不審に思い立ち上がった。その時だった。湖に足を浸した女が急に舞い上がったのだ。水が女の体をつかんで持ち上げたのだ。
「なっ!」
八幡丸はとっさに駆け出し、女と水の塊を切り離した。女を抱えて岸に立つと、八幡丸は女を揺らした。
「おい!」
八幡丸が声をかけると、女は震える声で八幡丸に告げた。
「あの人が呼んでいるの」
「はぁ?」
「あの人が、呼んでいるのよ。行かせて頂戴、坊や」
八幡丸が湖面を見ると、ぼんやりと鯉の形をした荒御魂が大きな体をくゆらせて漂っていた。ぱくぱくと時折口を動かしている。
「ほら。呼んでいるわ」
女がふらふらと立ち上がると、湖へと歩いていく。八幡丸が体を起こそうとしたとたん、鯉の下の水が八幡丸を掴もうとする。
「させるか」
八幡丸は小太刀を一閃、水を散らした。
「そんな乱暴なことはしないで頂戴な」
女が八幡丸の方を振り向きながら言った。それは、どこか操られているような声色だった。
「目を覚ませ!」
「八幡丸、そいつも荒御魂だ」
しゅん、と女の胸元に矢が突き刺さった。
「諏訪!」
「覚えていたか」
暗がりから声をかけてくる諏訪が、驚いたような声を上げた。忘れるわけがない。あの時、自分は神を救えたはずだ。なのに、諏訪は消し去ってしまった。
「それよりも、来るぞ」
「!」
八幡丸はとっさに小太刀を構えた。女が急に八幡丸の方に向かって駆けだしたからだ。いつの間にやら、その手には水で造られた鉈が握られていた。受け止めると、女の細腕とは思えないほどの重みが伝わった。
「どういうことだ! 答えろ諏訪!」
「答えるも何も、そいつらは夫婦神だ。墜ちたことで、互いを吸収して猛威を振るうだろうな」
「冷静に答えるな!」
「答えろと言ったのはそっちだろう」
八幡丸は舌打ちした。諏訪は先ほどの矢以外、戦う気はないのか、八幡丸を援護しようとはしない。
「出て来い諏訪!」
女の鉈を避けながら、つばぜり合いを繰り返す八幡丸が声を上げる。
「お前がうるさいから、狙いがずれる」
「なら、お前があの鯉を撃てばいいだろう?」
「そうだな」
八幡丸の背後の木から降りてきた諏訪が矢をつがえた。それを見た女は、狙いを諏訪に変えた。
「む!」
「後ろががら空きだ!」
諏訪が放った矢が女の右腿にあたり、八幡丸の小太刀が女の左肩を切りつけた。すかさず、二の矢を構える諏訪に向かって、女は鉈を投げつけた。
「くっ!」
諏訪の弓の上端にあたり、諏訪は弓を取り落してしまった。八幡丸は獲物を落とした女に向かって、刀を突き立てようとした。だが、足が動かなくなった。
「なに?」
ふと、左足を見ると水がまとわりついていた。それに気づくや否や、水の中に引きずり込まれてしまった。
「ごぼっ! ごぼっ!」
「八幡丸!」
諏訪の声がする。八幡丸は水の中に潜った。周りには水草が多く茂っており、視界が悪い。これは鯉の神が引きずり込んだのだろう。八幡丸は、神が連れていくところまで、潜っていくことにした。使の力のおかげか、長い間潜っていられる。
(神は俺をどこに連れていく気だろうか)
八幡丸は、気を抜かずに小太刀を鞘に収めると、ずっとずっと潜っていった。ついに、湖の底までつくと、八幡丸はあるものを目にした。
(祠と、骨?)
骨は大分古いもので、もう何の骨なのか分からない。だが、この祠を守るように置かれていた。八幡丸は、きっとこれが原因なのだと思った。湖に祠が投げ捨てられている、ということなのだろうか。
八幡丸は戒めが解かれたのに気が付き、湖の上まで出てくることにした。
「ぷはっ!」
「八幡丸!」
諏訪が湖面に顔を出した八幡丸に声をかけた。
「分かったぞ! この神々の正体は、この湖に捨てられた祠だ!」
女を突き飛ばした諏訪が、強く頷いた。
「よくやった」
八幡丸はそれに頷き返すと、水の中に潜っていった。八幡丸は水底につくと、小太刀を抜いた。そして、祠に向かって力いっぱい小太刀を振り下ろした。
鈍い音が響くと、祠が真っ二つに裂けた。すると、中から光の粒があふれ出て、八幡丸は湖上へと押し上げられた。
「な、なんだ?」
八幡丸はとっさに岸辺に上がり、振り返ると光の柱を眺めていた。
「八幡丸、これで終わりだ。ここの神は浄化された」
「祠を壊したのにか?」
「あぁ」
諏訪は八幡丸に手を貸し、岸から上げさせた。
「お前は案外、神に肩入れするんだな」
「何を言っているんだ?」
仕事は終わったとばかりに、諏訪は踵を返して歩き始めた。八幡丸の問いかけに、諏訪は振り返らずに、答える気はない、と言って去っていった。
「あいつも、戦に出るつもりなのかな」
八幡丸は何も言わずに、またもとのように静まり返った湖面をただただ眺めていた。
「ふむ、諏訪とまた会ったんだね。八幡丸」
「まったくもって、あいつが分からない」
「まぁ、そういうな。いずれ戦になれば、一緒に戦わねばならない相手だ、気を許すなとは言わないが、警戒しすぎるのもよくないぞ」
書面に埋もれながら出雲が言った。いつもより量が減っているのは、報告することが減ったことなのだろうか。
「量が減ったのは、おそらく、源氏の墜ち神達が神を狩っているからだろうね。荒御魂が減っている。ここ数か月で一気にだ」
「神を取り入れて、俺達と戦うつもりなのか?」
「そうだろうな。お前と浅間が出会ったのが正しければ、その数は4人だ。だが、そのどれもが大きな力を携えていて、とてもじゃないが、ここにいる使だけで対処できるかどうかわからない。
できる限り、情報を集めてもらうように浅間に言っているが、それも難しい」
「なんでだ?」
「源氏は慎重だ。この間奈良に出たというだろう。だが、俺達が向かったころには、墜ち神の気配は全くなかった」
「…………」
出雲は書類をどかすと、水を含んだ。
「源氏は平氏に不満を持つ各地の武家に声をかけている。これまで栄華を誇ったということは、他の者を押しのけていた、ということでもあるのだよ」
「恨みを果たしに来たということか?」
「そうだろうな」
悲しい事だが、と出雲は前置きした。出雲からはこれまで多くの貴族や武家が権力を競ってきたということを何度も聞かされてきた。八幡丸はどこか遠くで聞いていたのだが、今回ばかりは違うのだということが何となくわかりつつあった。
その反面、なぜただの農民の子でしかない自分が戦に巻き込まれなければならないのだろうという不満もあった。それも仕方のない事なのだろう、と出雲は言う。
「入るぞ、出雲」
「おや、珍しい」
諏訪が包みを持ってやってきた。八幡丸は目を丸くした。諏訪が居心地が悪そうに八幡丸を睨み返した。
「俺も、出雲から依頼を受けているんだ。たまたま入れ違いになっていただけだ」
「そうか」
「これが頼まれていたみちのく神だ。お前は少しは出ることを考えろ」
「分かってはいるよ。でも、少しくらいお前達の負担を減らすことの方が大切だと思っているし、こっちの方が性に合うんだ。私は元々、ただの篳篥弾きだ」
「そうやって逃げを打つな」
あきれ声で諏訪が言うので、八幡丸はこそこそと諏訪に近寄っていった。
「出雲は強いのか?」
「強いも何も、俺が使になったのは出雲が推薦してくれたからだ」
横目でじろりと睨まれて、八幡丸はすっと背筋を伸ばした。そういえば、平氏の使い我欲出雲を訪ねていることを聞いたことがある。知盛からの信頼も厚いのだろう。
「知らないことが多いな」
「まぁ、蛇の道は蛇だ。お互い様というわけだ、八幡丸。お前もお前でなかなかに底知れないものがある」
からからと呑気そうな声で出雲が笑った。その声にそれ以上言えず、八幡丸はすごすごと引き下がった。
市場に出てみると、まだ人が多い時間帯なのか人が通っていた。
「おや、八幡丸。お前はまだ逃げないのかい?」
材木屋の店主が八幡丸に行った。
「いや、俺は役人だから逃げるわけにはいかないんだ」
その言葉に、店主は八幡丸の傍に口を持っていった。そのままひそひそ声で話し始めた。
「家ね。五条のあたりの貴族様方も、逃げ出していると聞くではありませんか。そのうち、この京の都が火の海になるんじゃないかって、うちらは心配で夜も寝れやしません」
「そんなことはないはずだ。第一、御所に火を放つなど、人間のすることではないだろう」
「そうだといいんですがね、噂じゃ源氏には化け物がついていると言うではありませんか」
噂というのは、案外馬鹿にならないなと八幡丸は思った。まだ公表していないはずだと思っていたのだが、ここまであの墜ち神達の話が出回っているとは思わなかった。誰が言った、ということではないのだろう。
「安心しろ、俺が何とかしてやる」
八幡丸は、そう言った。そういうと、ほっとしたように材木店の店主が胸をなでおろした。
「八幡丸が言うんなら、そうでしょうな。ま、山女魚が手に入ったんで食べな」
「おいおい、この食いしん坊に山女魚2尾じゃ駄目だろう。茄子でも食いな」
「この豆腐も食っていきな」
八幡丸はざるいっぱいの食材を手に家に戻ってきた。八幡丸の事は市の人々の知るところなので、見るたびに八幡丸に何かを与えてくる。まるで、捨て犬をみんなで見ているような感覚なのだろう。その代わり、八幡丸は男手のいるときには進んで手を貸している。その感謝でもあるのだろう。使は上の方は貴族と何ら変わりない生活をしているが、下っ端はこんなものなので、市の人々にとっては気安いのだろう。元々山育ちの八幡丸にとって、何の食材もない生活離れていたが、都に来るようになって少しずつ変わってきた。
この生活がいくらでも続けばいいと思っていた。が、そうもいかないらしい。




