愚者
愚かである私は、愚か者らしく知る他ないのだ。
「…はぁっ…はっ…はー……」
腰を下ろすと息を深く吐いて呼吸を落ち着けた。
…私は何から逃げてきたんだろう?最短ルートで最寄りの地下鉄に乗り込んだ私は、向かいにある車窓を眺めて考える。見慣れたスーパーやマンションが次々と車窓の縁から消えていく。なんだかもう戻ってこれないのではないかと思い、私は早くも気弱になる。幸い、まだ午前中というのもあって地下鉄の中にはあまり人はいなかった。私の知人も、勿論居ないようだった。しかし、反対側のシートに座る小綺麗な老人が訝るようにさっきから私を見ている。頬はこけて、体は脂肪が吸いとられたように痩せ細っているのに、目には猛禽類の持つ鋭い光が宿っている。今にも煩わしい小言を言ってきそうだ。
―――見てんじゃねぇよ―――
心の中で忌々しく呟く。普段はこんな口は誰にも聞かないのにな…。地下鉄がとまる度に私は俯いて、目だけキョロキョロさせながら知っている人がいないかを確認する。先生が乗り込んできたらどうしよう………。私を訝る老人の見透かすような視線と律儀に停車する地下鉄にいわれの無い恨みを募らせる。
そもそも、何故私は苛立っている? できるだけ顔を伏せて目を閉じる。
悪い事をしたから。それも、取り返しの付きそうにない、悪い事を。
しかし、その悪の非難は決して彼女から受けるものではなく、あくまで世間というものから受けるもののような気がしたのだった。彼女はきっと落ち着いた目でこんな私を諭すように眺めるだけだろう。それでも、世間からすれば私は悪で、私は罰するべき、或いは浄化すべき汚いもので、私のしたことはイケナイことなのだろう。だから、今の私の顔には「悪」とはっきり墨で印字されているのだと思う。私が悪であると世間にはっきり知らせるために。さながら罪悪感に捕まった囚人のように。指名手配犯のように。 ……でも、私だけが悪者になるのはおかしいんじゃない?
――――考えていると再び息切れの気配が襲ってきた。
理屈を創造する心の触手を引っ込めて、ため息をついて私は思考を戻す。
今頃、職員室で待機していた授業のない先生の何人かは、バカな事を…と苦笑しながら腹を立てて私を捜索しているかもしれない。或いは、大学と高校にいる両親に連絡がいっているかもしれない。私は両親が苦手だ。嫌いでなくても、苦手なのだ。
私の父親は、市内の大学の教師をしている。いつもきちんとしたスーツを着ていて、眉間には深い皺が彫られている。高い鷲鼻には黒縁の眼鏡がかかり、薄い唇は引き締まっている。思い返す父親は、いつも私を冷たく睨んでいる。道端に生える邪魔な雑草を通り様に一瞥するような表情だ。私は普段あまり父親とは話さないが、父親が私に常に模範生であってほしいと思っているのは全身から、家に漂う空気から、呼吸と同じペースで吐き出すため息から、読み取れてしまう。父親が厳しい分母親が優しいかと言えばそうでもない。きちんとしなさい、時間を厳守しなさい、お父さんの言うことはよく聞きなさい、歯はキレイに磨きなさい……黒縁眼鏡を掛けたうるさいヤギみたいな母親の口から出る言葉の半分は説教だ。
二人の教師対一人の生徒。それが私の家庭の構図だった。
……家に帰りたくないな。ちょっとだけ私の帰宅を怒りながらも喜ぶ両親を想像してみる。…けれど期待はするだけ虚しいと分かっているので直ぐにやめた。
今までにこれほど家に帰りたくないと思ったことはないだろう。
そんな現状からの物理的、精神的逃走を図るため、私はこれからの行き先とその手段をできるだけ鮮明に脳裏に映し出してみる。
私はもしもの時のためにと現金を幾らか持って学校に通っていた。かさばらないよう全て紙幣で、3000円ある。それをブレザーの内ポケットに忍ばせていたのがこうをそうした。その金でこの後乗り換えの切符も買い、ある神社に行こうかと考えている。人気の非常に少ない神社だ。駅に割合近い所に緑の多い山がある。そしてその山道を少し登ると拓けた所に出る。そこが神社だ。一人になるには丁度いい所だ。これからそこで暫く、一人で考えてみようと思う。何をかときかれても答えられないが、今の私に重要な何かについてだ。或いは、私はただそこで時間を潰して現実逃避したいだけかもしれないし、今後私に起こることのシミュレーションをしてからそれに向けての覚悟を決める時間を作りたいだけかもしれなかった。
ただ一つ言えることは、愚かな私は実際にそうしてみるしかないと、そう直感しているということだ。そしてその行為は、世間から見て間違いを重ねているだけでしかないということだ。
地下鉄のドアがシューっと開いて、私は吸い込まれるように降りていった。
その後私は、あの子に出逢う。