黒ネコさんの受難 3
五時間目が終わって、私と凜は他のクラスメイト達とも一緒に、本館と別館を繋ぐ渡り廊下を歩いていた。
移動教室だったんで、教室に帰るところなんだけど。
他のクラスメイト達が他愛もない会話を交わす中、私は昼休みのことを思い出してひっそりと落ち込んでいた。
黒ネコさんの飼い主、かぁ。
我が家は、ケーキ屋さんを営んでるから無理だ。昔から、動物を飼いたいと言っても許してもらえなかったから。
高橋君のお家も共働きと聞いていたし、難しいんだろうなぁ。
とかぐるぐる考えながら歩いていると。
どん、と誰かとぶつかった。
「いたっ」
相手は男子生徒だったみたいで、小柄な私にとっては結構な衝撃だった。持っていた教科書と文房具を床にぶちまけてしまう。
おまけに私は尻餅をついてしまったんだけど、相手の方はというと、ちらりとだけこちらに視線を寄越しただけで、そのままさっさと行ってしまった。
私達が行こうとしていた本館のほうへと。
「うわ、ちょっと最悪、あいつ!」
「大丈夫?愛那ちゃん」
クラスメイトの女の子達が地面に散らばった教科書たちを救出してくれるのに、「う、うん大丈夫」と返事をしながら私はお尻を押さえながら立ち上がった。いてて。
「あいつ5組の春日じゃない?」
「ほんとだ。あの、頭いいけどちょっと変わった感じのヤツ」
「さいてー」
女の子たちが、ぶつかった男の子に非難を込めた視線を向けていて、私はその言葉を追うようにそちらを見た。
縦に細長い、ひょろりとした後姿のその男子生徒は私達の声が聞こえたのか、またこちらに視線を向けたところだった。
いかにも勉強が出来そうな、制服のブレザーをきちっと着ているその姿はどこか潔癖そうな印象を受ける。
で、眼鏡をかけたその神経質そうな眼差しと一瞬、私は目が合った気がしたんだけど。
あれれ?
その視線に、どこか既視感。
でも、私が首を傾げている間に、その男子生徒は、そのまま校舎に入って行ってしまった。
「愛那?」
「―――!」
凜に話しかけられて私ははっと我に返った。
「どうしたの?」
「う、ううん、なんでもない」
首を傾げる凜にそう答えて、私達は教室に向かったんだけど。
何だか私はあの男子生徒のことが印象に残った。
どうしてだろう。
あの、眼鏡姿。なんだか気になる。
そういえば、5組って3階にあるよね。
そんなことを考えていると6時間目の始まるチャイムが鳴って、私は先ほどのことは忘れてしまったのだった。
というか、ね。
それどころじゃない事態が舞い込んできたわけ。
6時間目のホームルーム。
「はーい、じゃあ引いた番号を言いに来てくださいねー」
教壇に立つ委員長の男の子の声が、がやがやとにぎやかな教室に響いた。
一方の私は、今しがたくじの入った箱から取り出した、自分が引いたくじの番号を見て、頭を抱えたい気分になっていた。
うわあ、最悪だあ。
この時間、6月に開催される体育大会に出る競技を決めてて、今は全員参加の二人三脚の相手をくじを引いて決めてるところなんだけど。
運がないことに、私は一番面倒な番号を引いてしまっていた。
ため息をつきつつ、ばれないようにそっと辺りを見渡す。他の生徒達は、自分が引いた番号を自己申告しに教壇のほうへと群がっていた。
黒板には1~18の番号が書かれていて、番号の隣に男子と女子それぞれ名前が書く欄がある。つまり、同じ番号の者同士がペアを組む、ということなんだけど。
「愛那、どうしたの?なんだか顔色が青いけど」
さら、と染めてない黒髪を揺らして凜がこちらにやってくる。
私は机につっぷして凜の綺麗な顔を見上げた。
「・・・ちょ、最悪」
「え。・・・まさか」
凜はほっそりした指で口元に手をやり、目を丸くする。私はそれにこくん、と頷いた。
私が引いた番号は16番。もちろん、番号が問題なんじゃなくて私の相手が悪かった。
―――間違いない。だってヤツがくじ引いたときに、16番を引いたという情報が女子の間に駆け巡ったんだもの。
なぜよりにも寄って・・・!
ちなみに男子のお目当てって凛なんだけど本人気づいてないだろうなぁ。結構熱い視線を集めてますよ、凛さん。
って今はそんなことどうでもいい。
私はため息を一つつくと、がたりと椅子を引いて立ち上がった。
「ちょっと私、行ってくるね」
「え?どこに?」
「決まってるよー、鈴木さんたちのところ」
こんなもの、裏工作してしまうに限る。変に恨みを買いたくない。
平穏無事な生活を壊すような要因は、捨ててしまった方がいいよね、うん。
とか考えながらくるんと首を巡らしたとき、空気の読めないヤツが、ここにやってきた。
「なぁ、井上たち何やってんの?番号言いにいかないの」
犬っころみたいな瞳が不思議そうに私と凜の姿を捉える。
うわぁ、最悪。私の顔が、正直に引きつった。
女の子にもてそうな甘いマスクに、すらりとした体躯。
まつげは女の子のように長くって、鼻筋はすっと通っている。
学校仕様の紺のブレザーなのに、まるで雑誌のモデルのように着こなしてるのは単純にすごいと思う。
無駄に顔のいいこの男、名前は氷室 壱という。
そう、お分かりのように、こいつがもう一つの16番のくじを持ってて、さっきそれがクラス中に駆け巡ったってわけ。
ある人は同じ番号を求めて、ある人はやっかいごとを嫌がってその番号を避けようと、女の子の間にちょっとした緊張感がぴりぴりと張り詰めてる。
私はもちろん後者に決まってる!
なのになのに。
なんでこのタイミングでここに来るかなあ、あんた。
「あー、なんでもないなんでもない。ちょっとトイレ行きたくなっただけ。
というわけで行ってくる」
軽くいなして、私はこの場を去ろうとしたんだけど、くい、とその首根っこを捕まえられる。
「待った。なんか様子、おかしくない?」
「ちょ、苦しい!離してよ馬鹿っ」
じたばたと暴れて、慌ててその手から逃れたんだけど。
その拍子にひらり、と私の手から件のくじが氷室の足元に落ちてしまった。
あ、しまったぁ!
慌てて拾おうとした時にはもう、すばやい動きで氷室がそれを拾ってしまった。
「あれ、なんだー。井上、俺と一緒じゃない」
嬉しそうな氷室の声が、教室に響きわたる。
瞬間、ざわ、と教室がざわめいたのがわかった。
うわぁ、最悪だ!私は青ざめて氷室からくじを取り返した。
「幻覚!今のは幻覚だから!!」
「なに言ってんの。ほら、行こうー。工藤も一緒に」
「わー離してー!」
凜が苦笑して後ろからついてくる。
右手を取られてずるずると氷室に教壇の方まで引きずられていく私の目に、教室の一番後ろでたむろっていた女子生徒たちが私たちを見つめているのがわかって、心の中で絶叫した。
うそー!ちょ、やめてよ。
一年のときから同じクラスの氷室は、有難くないことに私と凜には心を許してるフシがある。おかげでヤツのファンから熱い視線を向けられるのはしばしばだったけど、何もこんな面倒な展開にならなくったっていいと思う!
暴れる私に、ふ、と一瞬だけ氷室が振り向いて笑った。
それは、傍から見ると甘い犬っころスマイルだったけれど。
私にはわかった。それは確信犯的な笑みだった。
「残念でした、あきらめよう」
「・・・・!!!」
「井上と一緒だと、周りが煩くないんだもん、ラッキーだ」
知っててこっちにやって来たのかー!!
氷室のくせに生意気な・・・!
文句を言おうと口を開きかけた私を遮って、前を向いた氷室が大きな声で言った。
「16番、氷室、井上でよろしくー」
「お、りょうかーい」
「ああっと、井上さん、ご愁傷様がんばってねー」
「おーいそれどういう意味だよ」
クラスメイトの男の子の言葉に氷室が目を眇めるけど、私はそれどころじゃなかった。
呆然と、目の前の黒板に、氷室と自分の名前が記されていくのを眺める。
それはまるで死刑執行を宣告されているような気分だった。
「がんばって、愛那」
なだめるようにぽんぽんと私の肩をたたく凜の言葉も、耳に入って来なかった。
うう、なんでこうなるの・・・!
―――で。案の定というか、お約束な展開が更に私を待ち受けていたわけ。
6時間目も終わり、ホームルームも終った放課後。
くじ引きにがっくり気ながらも、黒ネコさんのことが気になる私は、また校舎裏に行こうと、持って帰る教科書を鞄の中に詰め込み、凜に一言言って向かおうとしたときだった。
「井上さん」
話しかけられて、そちらに顔を向けた私の顔が思い切り引きつりそうになった。なんとか堪えたけど。
「ちょっといいかな?」
取り巻きをつれた、クラスメイトの女の子3人組み。真ん中の、気の強そうな顔つきの女の子が腕組をして私にそう言った。
鈴木さんたちだ。
それはなんというか例の、氷室のファンの子たち、だった。
うう、めんどくさいことになった・・・!
「愛那?」
凜が心配そうにこちらに寄ってくるのに、私は苦笑を浮かべて顔を向ける。
「あーごめん、凜、先に帰っててくれる?ちょっと、鈴木さんたちとお話に言ってくるわ」
「・・・大丈夫?」
「えーと、うん?大丈夫?なのかな?」
私はあえて、その言葉を鈴木さんたちに振った。笑顔を浮かべて。
言質をとるべく。だって怖いじゃん!
皆の視線が鈴木さんに集まった。鈴木さんはちょっと目を見開き、それからくすりと意味ありげな笑みを口元に浮かべた。
「さあ?それは、井上さん次第かもね」
ど、どういう意味なのそれ。私次第って。嫌な予感しかしないんですけど。
今度こそ頬が引きつってしまった私の両脇にクラスメイトの女の子達が立ち、私は心配そうな顔つきの凜を置いて鈴木さんたちに連れていかれてしまったのだった。
どうか穏便にお願いします・・・!