黒ネコさんの受難 1
というわけで、私の学校での日課がひとつ、増えた。
「はいはい、ちょっと待ってね~!」
にゃあお、にゃあおと足元に絡み付いてくる黒ネコさんに話しかけながら、私もその場にしゃがみ込む。
きらきらと輝く、薄い黄緑色の瞳が期待を込めて見上げてくるのにふにゃりと相好を崩しながら、私はねこまんまを入れた小さなブラスチックのタッパを差し出した。
とたん、待ってましたとばかりに鼻先をタッパに突っ込む黒ネコさん。
「ほらほら~、ゆっくり食べて。
慌てなくても、誰もとらないよ」
ごはんをがっつくその姿に、自然と笑みがこぼれ落ちてしまう。
ああかわいい。
一生懸命なその姿にもう私はめろめろだった。
はむはむと口元を動かしながら、美味しそうに目を細めるそのかわいい姿にハートが鷲づかみにされる。
ゆら~りゆら~りと揺れるネコじゃらしみたいな小さな尻尾を衝動的に掴みたくなるけど、ここは我慢我慢…!
せっかくなついてくれてきたのに、嫌われたら悲しすぎる。
しゃがみ込んで黒猫さんを見下ろしていた私の後ろから足音が聞こえて、私は笑顔で振り返った。
「こんにちは~!高橋君」
「・・・どうも」
相変わらずそっけない感じだけど、ちゃんと挨拶が返ってくる。
黒ネコさんが鼻先を突っ込んでいたタッパから少し顔を上げて、にゃあお、と甘えるような声を高橋君に上げた。うふふ。無愛想な目元がほんの少し緩んだの、わかっちゃったよ高橋君。
先週の土曜日、高橋君とこの校舎裏で昼休みに黒ネコさんに会いにくると約束してから、私は黒ネコさんのごはんを用意してここにやってくるようになった。今日は月曜日から数日経った、水曜日。
高橋君は私がごはんを持ってくるようになると、代わりにお水を用意してくれるようになった。
うん、まあね。子猫ちゃんに甘い菓子パンはあまり身体に良さそうじゃないもんね。
高橋君がお水の入った小さな白いお皿を黒ネコさんの前に置くと、くんっと一度匂いを嗅いだあとで、黒ネコさんは小さな赤い舌を出してお水を飲んだ。
で、その様子を私はしゃがみ込み、高橋君はその隣で胡坐をかいて座り、眺めてる。
そろそろ日差しは初夏の鋭さを含んで来ていたから、私達は木陰の下に居た。
木漏れ日が綺麗な模様を草の上に描いていて、土の匂いがなんだか心地いい。
木陰だとちょっとまだ肌寒いけど、この黒ネコさんを取り囲む穏やかな風景に、気持ちがとっても癒される。
昼休みの終わるこの15分間が、最近の私のお気に入りの時間だった。
目の前の校舎から聞こえる生徒たちの喧騒がやけに遠くに感じる。
うう~ん、ていうかもうほんと、眠い。
ごはんも食べたし、風も気持ちいいし、黒ネコさんはかわいいし。
ちらりと隣を盗み見ると、ごはんを食べ終わった黒ネコさんが、寂しかったんだよおとばかりに高橋君の胡坐のかいた足に擦り寄っていて、高橋君はその小さな頭を優しく撫でてあげてるところだった。
ああ。
ほのぼのする~。
無邪気な黒ネコさんにつられてか、いつもは皺が寄ってる高橋君の表情も和やかだ。
いつもはとっつきにくい雰囲気も今はなりをひそめていて、会話こそ少ないけれども、この空間はとても居心地のいいものだった。
腕を伸ばし、大きく伸びをして頭上を見上げた私の目に、校舎の無機質なコンクリートの壁の色が映り―――ふいに、私は誰かと目が合った気が、した。
あれれ?
一瞬三階の窓に人影がいて、私達を見下ろしているように見えたんだけど、気のせいだったかな。見直したときにはもう、人影なんてなくなっていたから。
「…どうした?」
なんとなく校舎のほうに身を乗り出して目を懲らす私に、高橋君が不審そうに尋ねてくる。
その大きな体の足の間には黒ネコさんがくるんと丸まって寝そべっていた。
その微笑ましすぎる姿に、私の注意は完全に逸れてしまった。
なにこれ。かわいすぎる・・・!
時間が過ぎるのはあっという間で、予鈴が鳴り響いて私と高橋君は黒ネコさんとさよならの時間になってしまった。毎度毎度しかたがないけれど離れがたい。
「じゃあね、また来るね?」
ちょこんと地面に座り、私達を見上げる黒ネコさんにそうお別れの挨拶をするとみゃあ、とタイミング良く黒ネコさんが鳴いてくれる。
私はバイバイと手を振って、後ろ髪を引かれる思いで高橋君といつもの校舎裏を後にした。
「おかえりー愛那」
教室に帰ると、他の友達と話してた凜が出迎えてくれる。
「ただいまー」
「おかえり。どうだった?」
「あーもう、むっちゃかわいいよ!」
窓際の席の椅子を引きながら凜とそんな会話をする。
凜には、昼休みどこに行ってるか伝えてある。
どんな反応が返ってくるかと身構えてたんだけど、割かし普通に「そっか、わかった」と受け入れてくれて、助かった。
だってねぇ、逆の立場なら私なら間違いなく質問攻めだよ。
だってあの『高橋君』とどういう展開でこんなことになるの?!って。
凜は見かけは近寄りがたい雰囲気のある綺麗な子なんだけど、意外と実態はおっとり天然さんの癒し系だ。
「いいなぁ、子猫。私も見てみたいな」
「え、じゃあ見に行く?放課後行こうよ」
私が軽く請け負うと、凜は嬉しそうに笑った。
そうこうしているうちに昼休みの終わりのチャイムがなり、先生がやってきて 5時間目が始まった。
※ ※ ※
というわけで放課後。私はまたまた上機嫌で校舎裏に向かっていた。
凜と一緒にね。
「かわいいよ~、もう絶対めろめろになるよ!」
「ほんと?私、猫好きだから楽しみだなぁ」
にこにこと凜が言う。
―――けれど、校舎裏で私達を待っていたのは、意外な光景だった。
「うわ、ちょ、暴れんなお前」
ジャージを着たまだ年若い男の先生が黒ネコさんの首ねっこを掴んでどこかへ連れて行こうとしているのを見つけて、私は慌てた。
「ちょい待ってー!先生っ」
黒ネコさんは首元を掴まれるのを嫌がって「みぎゃぁ、みぎゃぁ」と暴れている。
先生は私達の姿を見つけると、きょとんとした表情を浮かべた。
日に焼けた顔に、短く刈り上げた髪。私達は受け持たれてないんだけれども、体育の先生だ。
まだ若いから生徒たちにも親しまれてて、一部の生徒たちから下の名前で「保っちゃん」と呼ばれてる。どことなく愛嬌のある顔立ちをしてるんだよね。男らしい眉の下に覗くくりんとした瞳とか。
「あれ?なんだ、井上たち。どうした」
「どうしたじゃないです!黒ネコさん、嫌がってますから放してくださいよー!」
と先生の腕から黒ネコさんを救出しようとすると、先生がひょいっと私を避けてしまった。
「なんだ、お前たちか?この猫連れてきたの」
「え、ええ?!ち、違いますよ!ていうかちょっと先生!黒ネコさん苦しそうですから!止めてあげてくださいよ!」
思わず反射的に嘘をついてしまった。直感で、面倒なことになりそうだと思ってしまったから。
ほんの少し罪悪感を覚えるけど、「みぃ~」と哀れっぽく鳴く黒ネコさんの姿にそんなもの吹っ飛んでしまった。
先生は自分の背が高いのをいいことに黒猫さんの首根っこを高く持ち上げて私の腕を避ける。
黒ネコさんはでろーんと重力にしたがってぶら下がってる状態だ。
って、だから動物虐待反対!
「そっかあ・・・実はみゃあみゃあと子猫の声がうるさいと他の先生方から苦情がきててなぁ。
俺に追い出して来いって命令がきたわけなんだよ」
え。うそ。
同情してくれ~と言わんばかりの先生の言葉に私は軽く目を見張った。やば、そんなことになってるとは。
「お陰でさんざん探し回るハメになったじゃないか、まったく。」
ふぅ、と疲れたようにため息をついた後で先生は黒猫さんの首根っこを掴んだままくるりと背中を向けた。
私は思わず、先生の腕にしがみ付いてしまっていた。
「ちょっと待ってせんせいー!」
「う・・・わ!」
バランスを崩した先生の腕から、黒ネコさんが逃れて地面に着地し、そのまま一瞬だけちらりとこちらをみた後草むらの中に逃げていく。
「あっ、待て・・・!」
先生が慌てて後を追うけどもう黒ネコさんの姿は消えたあとだった。
よ、良かった。
ほっと胸を撫で下ろす私を先生が恨めしげに見下ろしてくる。
「いーのーうーえー」
「ご、ごめんなさい、でも、かわいそうだったから!」
はあ、と先生が疲れたようなため息をついた。
「俺だって好きで捕まえたわけじゃないってのまったく・・・
しょうがない、出直すか・・・」
肩を落として先生が私達から背中を向け、校舎裏を去って行く。
なんだか哀愁が漂う先生の背中に申し訳ない思いがこみ上げてきたけれども、あのままだったら黒ネコさんに二度と会えなくなってしまったかも・・・!
「愛那ー!」
先生とのやりとりを見守っていた凜が駆け寄ってくる。
私は肩をすくめて凜に謝った。
「ごめんね、凜。黒ネコさん、どこか行っちゃった」
「うん、それはいいんだけど・・・黒ネコさん、追い出されちゃうの?」
「・・・そうみたい・・・」
私は眉を寄せて頷いた。
「そっか・・・せっかく懐いたみたいだったのに、残念だね」
「・・・・・・」
私は黒ネコさんが去っていった草むらの方を見つめた。
初めは近寄ってもくれなかった黒ネコさん。
警戒心が強かった子猫ちゃんがやっと、最近では私達の姿を見つけると飛んでくるようになったのに・・・
どうもそれが、仇になってしまったようだ。先生が呼んで捕まえられるくらい人に慣れてしまったみたいだし。
―――せっかく、高橋君とも仲良くなれたのにな・・・
そんなことを考えてがっくりしていると、ふとまた視線を感じて私は後ろを振り返った。
校舎の三階、昼休みと同窓際で誰かの影が見える・・・見た感じ、男子生徒?っぽい。
けど、目が合ったかな?と思った瞬間、またその影はふいと身を翻して消えてしまった。
「・・・・・?」
「どうしたの、愛那」
凜が不思議そうに訊いてきて、私ははっとして首を横に振る。
「ううん、ごめん。なんでもない。行こっか」
と凜を促しながらも、なんとなく私は、その視線が心に残ったのだった。