番外編 日常編①
かなりお久しぶりです!
それは、それまで毎日のように鳴いていたセミ達の声が聞こえなくなってきたころ。
夏の日差しが、ほんの少しやわらかくなってきた季節のことだった。
「あ、とんぼだー」
俺の家に向かう途中に川があるんだが、その橋の上で、俺と井上は辺りを飛び回るトンボの群れを見つけた。数匹、とかそういうレベルじゃない。本当に何十匹というトンボ達が、川の上や橋の上をあちこち気持ち良さそうに飛び交っていた。
ああ、もう秋なんだな。まだこんなに暑いのに。
まだまだじっとりと汗ばむ陽気だが、ちょっとずつ季節は移り変わっているようだ。
「とんぼの眼鏡は・・・虹色めがね、だったけ?」
4つの羽を左右交互に動かし、俺達の横や間を飛び回るトンボをじいっと眺めていた井上が、俺を見上げてふいに懐かしい音を口ずさんできた。
小さな頃によく聞いていた『トンボの眼鏡』だ。歌いだした井上が無邪気でかわいらしくて、思わず俺の頬は緩んでいた。
「水色、じゃなかったか?」
「そうだっけ。だって、ほら。目がなんだか虹色に見えない?」
円らな瞳が柔らかな弧を描く。
俺の隣で屈託のない笑顔を浮かべる井上の頭を見下ろして、出会ったころより髪が伸びたな・・・と思った。背中で歩調に合わせて揺れる井上の髪は相変わらずやわらかそうだ。
クラブも午前中に終った土曜日の午後。今日はあの日の約束どおり、井上がくろすけに会いにやってくる日だ。
俺は再び井上と駅で待ち合わせをし、家へと向かっていた。
秋の香りが漂う、我が物顔のトンボ達が居座る橋を渡り、住宅街の長閑な昼下がりを二人でゆっくりと歩いているとき「それにしても残念だな」と井上が言った。
「お姉さん、今日はお出かけなんだよね?・・・会いたかったなぁ」
「・・・・・・・」
うっ、と俺は内心詰まった。多分傍からみたら表情は変わってないと思うが。
実は敢えて二人が居ない日を選んだとは言えない。明日なら二人とも揃ってるのを知っていたが敢えて今日を選んだ。
残念そうな表情の井上の言葉に一瞬だけ罪悪感が芽生えたがすぐに捨て去った。
姉達に見つかったら碌なことにならない。それだけは間違いがない。
何しろ・・・うちの姉二人はただ今絶好調に俺をからかうことに余念がないのだ。
どうしてばれたのかわからないが、俺が井上を追いかけてお互いの気持ちを伝えあった日、二人に両腕をがっしりと捕まえられて根堀歯堀つっこまれたことはまだ記憶に新しい。
その時のことを思い出して俺は頬が引きつった。
『鉱大くんっ♪』
『さーきりきり吐いてもらうわよー』
その日の夕食後、自分で言うのもなんだがまだ放課後の名残で気持ちがふわふわと浮ついていた俺は、早々にリビングから立ち去ろうとしていた。が、そそくさと食器を流しに運んでリビングから出ようとしたところで息の合った姉二人に両腕から確保されてしまったのだ。
振り払うことはできなかった。小さな頃から『女の子に手を挙げるヤツはサイテーだ』やら『あんた馬鹿でっかい身体なんだから女子はもっと丁寧に扱いなさいっ』やら、とにかく口うるさく指導?されてきたのだ。一番大変だったのは茜姉が怪我したときだったように思う。とにかく注文が多かった。
まあそんなことはどうでもいい。とにかく俺はその時、嫌な予感が背筋から這い登ってきていた。食後→リビング→姉達に井上のことをいじられる、がそれまでの一定の流れになっていたからだ。
それにもう言うまでもなく、茜姉の瞳は「おもしろい玩具みつけたっ」と言わんばかりに輝いていたし、詩織姉に至っては、これまで生温かい視線を向けてばかりだったのがここに来ていつもの詩織姉に戻っていた。つまり、突かれたくない所を容赦なくピンポイントで突いてくる詩織姉だ。
言っとくが俺にだって一応羞恥心だってある。何が哀しくって自分の姉にそんなこと細部まで話さなくてはならないんだ、と口を固く結ぶ俺に向かって、神がかった問いを重ねてきた詩織姉に俺は慄いた。
おかしい。俺はもともと口数が多いほうでないから、答える言葉も最小限なはずだ。なのにどうして詩織姉はそこからあんな問いをはじき出すことができるんだ?!
茜姉はその横でごろごろ奇声を上げながら転がってるし。おかげでほとんど全部吐かされた俺は、ようやく開放されたころにはもう疲労困憊状態だった。
『ちょ、もう早く連れて来て!愛那ちゃん連れて来て!会いたい会いたい会いたいー!』
『・・・その予定はない』
つい昨日もそんなやり取りがあったばかりだ。内心ぎくりとしたが、なんとか平静を保ってそう答えた・・・と思う。
冗談じゃない、これ以上あの二人に引っ掻き回されたくない。
思わず眉間に皺を寄せながらそんなことを考えていると、「高橋君?」と隣を歩く井上の不思議そうに俺を呼ぶ声に我に返った。
隣を見下ろすと「また眉間に皺、寄ってたよー」と首を少し傾けて、目尻の下がったふにゃっとした笑顔が返ってくる。
「・・・・」
ふわっとした、何ともいえない感情が胸の中を通り過ぎた。
俺は思わず腕を伸ばしてその柔らかな髪に触れていた。とたんぎょっとした井上の顔が赤くなる。
その反応に気を良くして、俺はまた井上とともに家へと歩き始めたのだった。
―――しかし俺はこの時点で自分の姉達をまだ甘く見ていたのだ・・・ということを、家に帰ってから痛感することになる。
「あー、愛那ちゃん、待ってたよー!」
玄関の扉を開けると、出迎えたのは出かけたはずの詩織姉、だった。
「・・・どうして」
お昼ごろ、クラブを終えて帰ってきたときには確かに家には誰もいなかったはずなのに。
呆然とする俺に向かって、詩織姉がにんまりと笑った。猫のような釣りあがり気味の瞳が楽しげに弧を描く。
「あんた、ばれないとほんとに思ってたの?すっかり色ぼけ太郎になっちゃってさあ。だいたい、この私に隠し通せるとでも思った?甘いわよ」
「・・・・・・色ボケ太郎って何だ」
「え?それ訊いちゃうわけ?ほんとに?いいの?」
「・・・・・・・・」
にこにこにっこりと満面の笑みを顔中に浮かべる詩織姉の言葉に、俺は沈黙という名の拒否を示した。
くそう。言葉を返せないでいる俺の隣で、井上がきょとんと目を瞬いた。
「色ぼけ太郎?」
井上の声を聞いたとたん、玄関の上の詩織姉がぱっと表情を煌かせて井上の方を向いた。
「わぁ、愛那ちゃんお久しぶり。元気してた?」
「あ、はい。詩織さんも、お久しぶりです。今日お会い出来ないと思ってたので、嬉しいです」
にこっと屈託のない井上の笑顔が、ぐさっと俺の胸を突き刺した。
会わないようにこの日を選んだとはこれで余計言えなくなった。
詩織姉の瞳に、意味ありげな光が点り、ちらりと俺の方に視線を向けてからにっこりとまた笑顔を浮かべて井上を見下ろした。
「ええそうなのよ、私も会えると思ってなかったんだけど、どこぞの色ボケ太郎君が呆けちゃってくれたおかげで助かったわー」
「・・・・」
なんだ。一体俺は何をやらかしたんだ?なんで詩織姉にばれたんだ。
俺はいたって普通に生活していただけなのに、どうしてこいつらにはばれてしまうのだろう・・・。他人にはわかりにくいと評されている俺のいかつい顔は、ごく親しい人々にとってはすごく分りやすいものに映るらしい。
初対面の人間には遠巻きにされるのに、なぜか俺は身近な人間たちにはからかわれる。
思わずため息をつく俺を尻目に、詩織姉が身体を脇に避けて井上を家の中に招き入れていた。
「ま、こんなところで立ち話もなんだから、とにかく上がって上がって」
「ありがとうございます。お邪魔します」
俺もそれに続いて靴を脱いで玄関に上がったのだが、その間に詩織姉は玄関を上がるとすぐの、二階へとあがる階段の手すりに右腕を乗せて寄りかかっていた。そしてその詩織姉の表情を見たとき、俺はものすごくいやな予感がした。
まずい。あの顔は、いつも俺をいたぶってるときと同じ系列の笑みだ。瞳は悪戯っぽくきらきらとして、口元にもからかうような笑みが載せられている。
咄嗟に詩織姉の前に立つ井上との間に割り込もうとした俺だが、詩織姉が行動を起こす方が早かった。
「さて、と。愛那ちゃんに質問があります」
詩織姉が身を屈めて井上の顔をのぞきこむ。
「この前は、リビング、だったよね。
―――今日は、ステップアップしていいのかな?」
「・・・・!」
井上の頬が真っ赤になった。色白だからすぐわかる。恥ずかしげに俯いて、ちらり、と姉貴を見上げるその仕草に、タイミングを逃してしまった俺は目を奪われた。
う、まずい。
昔から俺は、小動物が下から覗き込んでくる表情などにすごく弱い。人に言うとらしくないと笑われるが、そして何故か人は俺をストイックのように見るが、実は何のことはない。割と普通に俗物的な人間なのだ。
思わず口元を抑えて斜め先を睨みつけていると、井上の恥ずかしそうな声が聞こえてきた。
「・・・リビングで、」
「―――」
それは条件反射だった。その言葉が耳に入ったとたん、咄嗟に井上の手首を掴んでいた。びっくりした瞳が俺を見つめてくるのを眉間に皺を寄せて見返しながら、俺はぐいと井上の手首を引っ張った。「え?え?え?」という戸惑う井上の声を聞こえない振りをして、そのまま足早に階段を登っていく。後ろの井上の気配だけはちゃんと手繰りながら。
というかなんだか既知感だな、この状況。
そんなことを考えながら俺は階段の手すりに顔を乗せて俺たちを面白そうに見守っている詩織姉に向かって叫んだ。
「今日は部屋で!」
「あらあらあら・・・」
にんまりと、顔中に笑みを浮かべた姉貴の気配がする。引き止められるかと思ったが意外にもあっさりと詩織姉は引き下がった。
「ばいばーい、がんばってねー愛那ちゃん」
「ええっと、あの、ちょっと・・・?」
そんなからかうような詩織姉の声を背中に訊きながら、俺は自分の部屋の扉を開けて井上を引き入れると、後ろ手に扉をぱたん!と閉めた。
「えー・・・っと」
井上が、戸惑ったように見上げてくる。
視線が合うとほんのり頬が色づくそんな姿に、心臓が音を立てた。
「・・・すまん」
以前同じことをして詩織姉に『ナチュラルすけべ』呼ばわりされた俺は、反射的に引っ張ってきてしまった井上の手首を離しながら、やっぱり色ボケ太郎は間違ってないかもしれないな・・・なんて馬鹿なことを考えていた。
なぜなら、井上の一挙手一投足がかわいく見えてしかたがないのだ。
こちらを見上げる円らな瞳がかわいい。
ふわふわの髪もかわいい。
困るとほんの少し首を傾げるそのしぐさがかわいい。
「・・・嫌だった、よな」
井上の意志を無視して連れてきてしまった。姉貴に会いたがっていたし、先ほどもリビング、と答えようとしていた。
けれど咄嗟に嫌だと強く思ってしまったのだ、仕方がない。
しかし予想に反して井上はぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、・・・」と言った後で井上はいったん言葉を切った。そして、俺から視線を外し、ええっとね、と恥ずかしそうに頬をぽりぽりさせた後で。
「わ、私も色ぼけ花子みたい」
「・・・・・・・」
「だってさ、なんていうか・・・うん。うれしい、よ?」
「・・・・・」
「わ、私、高橋君の彼女になったんだなーって、なんだかそう・・・実感して」
「・・・・・・・」
「部屋に入るなんてそんなの勝手に言っていいのかなーって思ってたから。
うん、だから、えと、・・・ありがとう?部屋に入れてくれて」
なんだこれは。
井上はいったい俺をどうしたいんだ。悶え死にさせたいのか。そうなのか。
やばい、口元がもう堪えきれずに緩むのがわかって、慌てて抑えた。
とにかく必死に眉間に力をぐぐぐっと込めてから俺は「そうか、ならよかった」と答えるだけで精一杯だった。
その後、かりかりと扉の向こうから存在を主張するくろすけを部屋に入れて、とにかく床に座って落ち着いた俺達だったが・・・
まさかこの後、そんな色ボケ太郎と花子さんがちょくちょくお出ましになることになるなんてこの時の俺は想像していなかった。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
何回も見直したのですがまだおかしい処あったらすみません。力尽きた・・・
こんな感じのバカップルモードが終止続くと思います。こんな感じでよければ、お付き合いいただければ嬉しいです。
それでは、ありがとうございました。