少年、乙女に落ちる
ドアを思い切り蹴破って部屋に踏み入ったとき、求めた姿は窓枠からひらりと身を躍らせたところだった。
見事に首まで真っ赤に染め上げた顔が視界に飛び込んでくる。井上は一瞬俺と視線を合わせたあと、くるりと首を巡らせてそのまま走り出した。
・・・有り得ん!
ふつう、ここで逃げるか?!
呆然とそれを見送った後で、我に返ると襲ったのは激情だった。
―――逃がさない。
追いかけて捕まえて、この腕に閉じ込める。
俺は猛然と氷室の居る窓へと駆け寄った。
「おー高橋、ちわーっす。なんかすっげ怖い顔になってるけど大丈夫かー」
「・・・どけ!」
「うわぁ、熱烈歓迎ありがと・・・ってちょ、落ち着け、ほら、どくから!こえぇよお前!」
窓枠に身体を預け、へらへらと笑いながら片手を振っていた氷室は、俺の鬼気迫る表情を目の当たりにしてあっさりと身体を除けた。
血が登った頭の隅にちらりと、何故ここに氷室が居るのだろうか、という疑問が過ぎったがすぐにぽいと意識の外に捨て去った。そんなこと後で考えればいいことだ。
俺はがっと窓枠に手を掛けると、俺にとっては小さいその窓をなんとか飛び越えた。足を掛けて身を乗り出したとき、目測を誤り頭をちょっと掠ってしまってがんっ!と割といい音が響いたが、根性で無視した。いてぇ・・・!目の端に氷室が笑いを堪える表情をしているのが見える。
すぐさま視線を井上が走り去った方向へと向けると、ふわふわの天然パーマの頭の持ち主は廊下を曲がるところだった。ちらりとまた一瞬視線が絡んで、すぐ解ける。
その小柄な後ろ姿を求めて、俺は井上を追いかけ始めた。
全速力で廊下を走り、井上の後を追って角を曲がると、井上は階段を駆け上がっているところだった。
「・・・井上、待て!」
「ごめん、追い、かけ、ないでーっ!」
「だめだ!」
「明日!明日、はなす、からっ」
「そう言って、明日になれば、また今度とはぐらかすんだろう・・・!」
俺も負けじと階段を二段抜きで駆け上がる。一階分先に走る井上の、息も絶え絶えの言葉に俺は速攻突っ込んでいた。
冗談じゃない、これ以上逃げられてたまるか。
ここ数日井上に避けられていた俺のフラストレーションは溜まりに溜まっていた。
思い出す、井上に逃げられる度に感じた胸の痛み。
井上に嫌われたのだと思って、俺は苦しくて、悲しくて、心臓がどうにかなりそうだった。
だから。
井上が嫌ではないのなら、俺はもう遠慮するつもりはない。
逸る気持ちが身体を動かす。もとより基礎体力の違いもある、井上の走る速度はどんどんと落ちてきていた。
一階分の差が、みるみる縮まってゆく。ふわふわのウェーブ頭が、近づく。
井上の顔がみたい。
あのふにゃっとした、無防備な笑顔をもう一度見たかった。
垂れ目がちの瞳が俺を映し出すのを、もう一度、見たい。
あと少し、足りない。捕まえるには腕一本分くらいの差がある。
駆け上がる俺の視界に、屋上へと通じるドアが入ってきた。同時に、どうしてだかそこで井上がラストスパートを掛けるのがわかった。ほんの少しまた差が開く、井上との距離。ふわふわと肩先で身体の動きに合わせて揺れるその髪先が、離れてゆく。
ドアは、鍵がかかる・・・!そのことに思い立った瞬間、俺の全身の細胞が反応した。
絶対、行かせない。俺は疲れを訴える両足に檄を飛ばして、さらに速度を上げた。
井上が屋上のドアノブに手をかけた時、俺の指が井上の腕に届いた。
思い切りその身体を自分の方へと引っ張り込む。小柄な井上は難なく俺の腕の中に飛び込んできた。
それでもまだ安心できなくて、井上を掴んだ方の手とは逆の手をだん!と一瞬開きかけたドアへと叩きつけて押し戻し、そのまま井上を囲う。
捕まえた・・・!
ぜいぜいとさすがに肩で息をする。けれども、やっと腕の中に感じる井上の存在に、俺はほおっと安堵の息を吐いた。
これでもう、逃げられない。
と思ったんだが、そのちょっとした俺の気の緩みを衝くように、井上がずるずると肩で息をしながらドアを背に床へと座り込んでいった。
「おい?!」
焦って思わず腕を掴む手も緩む。その隙を逃さず、両腕の自由を取り返した井上が小さく蹲って自分の顔を隠した。
どうやらそれが井上の抵抗らしい。あくまでも俺に顔を見せないつもりなようだ。
俺は呼吸を整えつつ、同じように肩で息をする、身を縮こませた井上を見下ろした。
落ち着いたころ俺が「井上」呼びかけると、白いシャツを着た細い肩がぴくっと揺れた。
「顔を、上げてくれないか」
井上の顔が、見たいんだ。
けれども、返ってきたのは顔を隠したまま左右に首を振って拒否する井上の姿で。
―――なんて往生際が悪い。
そんなことを思いながらも、頭を腕で覆い隠す井上の姿に言いようのない想いが胸に浮かんだ。
俺の目の前で、恥ずかしがる井上が可愛い。
しゃがみ込む井上は全身で羞恥を訴えていて、それがたまらなく嬉しくて、こそばゆい。
なあ、井上。
俺は、期待していいんだろうか。
俺が井上のことを愛しく思うのと同じ、井上も俺のことを好ましく思ってくれていると。
片膝をついて、その場に俺もしゃがみ込む。井上に、近づいた。
柔らかい髪をそっと撫でると、一瞬びくりと肩を揺らしたものの、しばらくそうしていると力が抜けていくのが手のひらの感触でわかった。
知らず口元を緩めて、俺は井上に告げた。
「井上が、好きだ」
ぴく、とまた肩が揺れた。
井上の旋毛を見下ろしながら、俺は自分の気持ちを伝える。
隠した顔から唯一覗く、耳が赤い。きゅっとさらに身を縮こませる井上に、俺はふっと苦笑を零した。
そのすぐ赤くなるところも溜まらなく―――可愛い。
その、明るい笑顔も。
どこか抜けてて、お人よしで、けれどちゃんと芯が通ったその強さも。
俺は、人をちゃんと見てる井上の―――柔らかな優しさが好きだ。
ああ。井上の顔が、早く、見たい。
「―――井上」
呼びかける自分の声が甘くて、自分で驚いた。
顔を埋めた、井上の腕を外していく。わずかな抵抗が返ったけれど、俺は逃がさないだけの力を込めてその腕を戒め、井上の逃げ場をなくした。ふるりと井上の肩が震える。
往生際が悪い井上は、両腕を囚われても俯いて、その顔を隠す。
髪から覗く井上の肌は赤く染まっていて、それが自分のせいだと思うとたまらなく胸が疼いた。
掠れた声で、「―――顔が見たい」と囁くとふるふるとまた弱弱しく左右に振られる井上の頭。
その拒否は見なかったことにして、俺はそっと井上の頬に触れて、俯いた井上の顔を持ち上げた。
その瞬間沸き起こった想いに眩暈がした。
井上の顔は真っ赤で、きゅっと目を固く瞑っていても目尻に涙が溜まっているのがわかる。
久しぶりに感じる井上の体温は甘くて、―――愛しさに胸が詰まった。
井上にただ触れたくてたまらない。
その瞳に映りたい。
笑顔が見たい。
ただただ馬鹿みたいにそんな想いが溢れてくる。甘い気持ちに翻弄されて、為すすべもなく心臓が高鳴った。
触れる井上の頬が熱い。滑らかな肌の感触がただ愛しくて、手を離すことが困難になる。
目を細めて井上を見下ろす俺の耳に、小さく「わ・・・たし」という井上の声が飛び込んできたのはその時だった。
「わたしも、だいすき・・・」
「・・・・!」
その瞬間、心臓が止まるかと思った。
勇気を振り絞ったということがわかる、震える、井上のか細い声。それでもそれは俺がいつも好ましく思う柔らかな響きを持ってる。
好意を持つ相手に、同じ気持ちを告げられて、俺の心臓は急激に忙しく動き出した。
ぶわっと顔に熱が集まるのがわかった。
ああ、まずい。
嬉しくて、死にそうだ。
口元が止めようと思ってもだらしなく緩むのがわかって、咄嗟に井上に触れていた手を離すと自分の顔を覆った。
今や井上と同じくらい赤くなった俺がいた。
自分が言う分には平気なのに、相手に言われるとなぜか居た堪れない恥ずかしさを感じて動けなくなる。
沈黙する俺を不審に思ったのだろう、恐々と瞳を開けた井上が、そんな俺の姿をみてきょとん、とした。
さんざん顔を見たがっていたのに、今はその円い瞳を見返すのが出来なくてふいと目を逸らす。
「・・・すまん、照れる」
正直にそんなことを告げれば、ふ、と井上の纏う空気が変わったのがわかった。
「私なんてさっきから、恥ずかしくて胸がどきどきして死にそうだよ?」
笑みの含んだ声音。視線を戻すと、先ほどより表情を和らげた井上の姿があった。
「・・・そうか」
そのかわいらしい返事にまた、愛しさが募って俺は口元を緩めた。
まだ緊張した面持ちだった井上が、ふにゃりと相好を緩める。
円らな瞳が俺を見つめて、そしてまたあの甘くて―――蕩けそうな色が宿っていく。
ああ、そうか。
視線を交わす俺は、その時、気づいた。
きっと今、俺も同じような目をして井上を見ていることだろう。
井上が、好きだと。そんな想いを込めて井上を見つめる俺の瞳と。
―――なら、井上の、この瞳は。
思いついたそのことに、俺はたまらなく幸せな気分になって、井上の手首を捉えて自分の方へと引っ張り込んだ。狙い通り、バランスを崩した井上の身体が床に座る俺の脚の間に倒れこんでくる。逃がさないように井上の手首は自分の背中の方へと回して、留めておく。
あわあわとした井上の気配を感じる。
そんな小動物みたいな動きを楽しみながら、俺は井上の背中に腕を回した。
井上が悪い。
そんな目で俺をみるから。
「社会科準備室のときも、そうだった。どうもその目に俺は、弱いらしい」
「・・・・・っ」
そう告げると、絶句した井上が身体を強張らせた。
そのやわらかな感触を堪能していた俺は、そのあとすぐしっぺ返しを食らうことになる。
きっと眦を無理やり吊り上げた井上が(ちっとも怖くない。むしろかわいかった)、至近距離まで顔を近づけてきたのだ。
・・・俺は聞きたい。
気持ちを確かめ合って、抱きしめ合っている男女。
ここでどんどん顔が近づいてきたりしたら、普通、あれを連想しないだろうか・・・
それともそんなことを考える俺はいやらしい男なんだろうか。
いや、絶対そんなことないはずだ。
とにかく俺は、まさか井上からそんな、唇を寄せてくる(!)なんて思いも寄らなかったものだから、心臓をばくばくとさせながらもほんの少し・・・いや、正直に言うと多大な期待を寄せて、井上の行動を見守っていたわけなんだが。
顔を赤く染めた井上が、きゅっと目を瞑って勢いよく俺の首元にしがみついてきたときはだから、内心思い切り脱力してしまった。
「・・・・・!」
「どう?恥ずかしいでしょ?!高橋君も私の気持ち、分ればいいんだっ」
「た、確かに恥ずかしい。―――が、もっと違うことされるかと思った・・・」
「え?」
いや、これはこれで嬉しい。嬉しいがしかし、俺は唇が触れ合うのかと期待していたわけで、・・・そうだよな、井上がそんなことするはずがないよな・・・とがっくりするやら恥ずかしいやらでなんともいえない気持ちになった。
だが、俺の言葉にきょとんとした井上が、無防備にも顔を上げてきたから、その吐息が触れ合う距離にお互いにぎょっとした。
さっきあんなこと考えていたから、俺は井上の小さな唇を思わず凝視してしまう。
触れたらやわかいのかな、とか。
妙に艶めいて見えてしまって、慌てて視線を逸らした。
あほか俺は、思考が妙にピンク一色で自分でも頭が痛い。
しかも井上ときたら、そこで止めてくれていたらいいのに「だって、私ばっかりいっつもわたわたして、ずるいっ。高橋君もたまには逆の立場になってみればいいんだっ」とか自分から抱きついてきたりして妙に俺を煽ったりするから。
「―――逆の立場になったら、余計恥ずかしいことしたくなるが、いいか」
「・・・・・!!!」
離れようといったん放していた自分の片腕を、もう一度華奢な背中に回してぐっと力を込めて引き寄せる。
唇を白い耳元に寄せて低い声で本音を囁けば、井上は全身を朱に染めてすばやく俺から離れていった。
慌てて階段に足を掛けて逃げる井上に、俺は深いため息を禁じえなかった。
まったく、先が思いやられる。
それでも、クラブが遅刻だと告げると申し訳なさそうに俺を見上げてくる井上の円らな瞳に、俺はあっさりと機嫌を直してしまった。
きっと井上は、自分がどれだけ俺を惹き付ける動きをしているか気づいていないに違いない。
ぽん、と頭に手をやると幸せそうに微笑んだ井上は、凶悪なほどかわいい。
一緒に階段を降りる、井上の手のひらをぎゅっと握った。
あたたかな感触に、じわりと幸せな気持ちが胸に滲む。
そっと控えめに握り返してくれる、井上のことが愛しかった。
ちらりと下を見れば、照れくさそうな笑顔が返ってくる。その何気ない仕草や表情が、俺を捉えて離さないなんて、きっと井上は知らないんだろう。
俺は、自分で思うより井上に嵌まっているらしい。
そんなことに気づいて、俺は幸せな苦笑を頬に刻んだのだった。
こ、これにて本編番外編は終了です・・・!
あとは、後日談の話を投稿予定です(*^^*)
今から作り出すので、また一ヶ月後くらいに投稿したいと思います。
ここまでお付き合いいただいて、本当にありがとうございました^^
6/30追記:新連載の切りのいいとこまで進んでから執筆しようと思ってるんで、もう少しお待ち下さると嬉しいです。ごめんなさい!