少年、それは手ごわい 16
特別教室の密集するA棟への渡り廊下を一気に駆けると、人の姿がまだらになってくるのがわかる。授業が終るとこの校舎はほとんど人の利用がない。
あった。視聴覚教室。
俺は肩で息をしながら、扉を勢い良く開け放った。力加減しなかったため、がたん!と扉は激しくきしんだ。
中はカーテンが閉めきられていて薄暗い。密閉された空間独特の、むわっとした空気で淀んでいる。
人の姿は、見えない。井上どころか誰の姿も見当たらなくて、俺はとにかく部屋に足を踏み入れた。
等間隔にならんだ机たちの間を体当たりで突き進みながら、俺は井上の姿を捜し求める。
いない・・・!井上、どこだ?!
「おーい、もう、何してるのよー!」
焦る俺の耳に、その時のほほんとした声が届いた。
籠ってはいるが間違いがない、井上の声だ・・・!
「井上? そこにいるのか?!」
声が聞こえたのは、隣の教室からだった。視聴覚教室の奥にある、準備室の方だ。
準備室のドアは窓際の壁近くにあるんだが、そこにはどうしだか、いつもは離れた場所にある本棚が、ドア横ぎりぎりに寄せられていた。そして、よく見るとその本棚と壁の間に斜めがけに棒が立てられていて、それがドアを開けられないようつっかえ棒の役割を果たしていた。
どうやら、状況から見るに井上は誰かに閉じ込められたようだ。
俺は急ぎドアに近づいて、その棒――箒の上部分だった―――を取り除くとすぐにドアノブを捻ったんだが、がちゃがちゃという抵抗が返ってきて開かなかった。
なんてことだ、誰だかしらないが鍵を掛けた上更につっかえ棒までしたのか―――なんて、悪質な。
「・・・開かない・・・!井上、大丈夫か?」
どんどんとドアを叩いて部屋の中に声を掛ける。
すぐには返ってこない反応に、不安が胸を覆った。
まさか何かされて身動きできない状況なんじゃ・・・?
「だ、大丈夫。というかどうして、高橋君が、ここに?」
嫌な予感に心臓がばくばくと音を立てていたから、井上の声を訊いて俺はほおっと胸を撫で下ろした。
先ほど会った工藤の話をすると、「凜?!」と驚いたような井上の声がドアの向こうから返ってきて俺はその声の元気さに更に安堵した。
良かった。姿は見えないが、大丈夫そうだ。
けれどまだ声だけで彼女の姿を見ていない。ちゃんと無事を確認したくて、俺はとにかく扉をどうにかしようと井上にドア前から退いてもらうように頼んだんだが、ドアをぶち破るという俺の言葉に井上が俄かに慌てだした。
「きゃー待って待って待って、だめだめ!
こっちから鍵掛けてるだけだから壊しちゃだめー!!」
・・・なんだって?
その瞬間、冷たいものが胸を抉った。
「ドア、そっちから開くのか」
「え・・・っっと、あー・・・開くような開かないような・・・」
声音を抑えて確認するように問えば、扉の向こうから、怯えたような声がはぐらかす言葉を返してくる。
思わずいらっとして低い声で問うと、「ひ、開きます!」という言葉が返ってきて心配していた分密度の濃い怒りが胸の中に渦巻いた。
つまりはあれか、今準備室から井上が出てこないのは井上の意思ということか。
しかし腹が立ったのは一瞬だけだった。それが彼女の拒絶の印だということに胸がぎしりと痛んだ。
胸の奥が重たくなって、俺はそんな気分を吐き出すかのように大きな息をはぁーっと吐いた。
「・・・悪い。俺の、せいだな」
謝罪の言葉を口にすると、事実が重く圧し掛かって更に気分が落ち込んだ。
それこそ、落ち込む資格すら俺にはない。好意を持つ女の子を抱きしめて、怖がらせて、井上にしてみれば理不尽な思いだらけに違いない。友達だと思っていた奴に突然そんなことされて、さぞ戸惑ってるし腹がたっていることだろう。
だからこれは、自業自得だ。彼女の信頼を裏切ってしまったことに対する。
「鍵、そっちにあるんだな?じゃあもう、出られるな。
―――俺、もう行くから。あとで出てくればいい」
俺は沈黙を守る扉の向こうにそう声を掛けた。
また、井上に拒絶されるのが怖かった。だから、俺は静かに、彼女の返事も待たずにドアから離れた。
井上に対する気持ちを口にするどころか、今までのような心和む関係にさえもう、戻れない。
そのことが苦しくて哀しくて、胸がきりきりと痛んだ。
俺はもう、あの井上の無防備な笑顔をみることは出来ないのだ―――ぎゅっと痛みに耐えるように眦に力を込めたその時だった。
「ち、違うの!」
搾り出すかのような、井上の声が扉越しに聞こえてきた。
願望だろうか。どこか必死さを滲ませるその声に、俺は机の間を縫って歩いていた足を思わず止めた。
扉越しの籠った声を拾おうと、耳を澄ます自分の未練がましさに思わず口元が歪む。
そんな俺の耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
「嫌だったんじゃないの!恥ずかしかったの!」
井上の声が聞こえてくる。焦ったように、少し早口に話されるその言葉たち。
「高橋君の顔を見たら、どうすればいいのかわからなくなるくらい、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかったの・・・!」
誰もいない教室にひとり立ち尽くす俺は、呆然として目を見開いていた。
一瞬すぐには意味がわからなかった。
じわじわと、言葉の意味を理解するにつれて、期待で身体が震えてくる。
今、井上は何ていった?
緊張の余り身体の動きがぎこちなくなる。動きの鈍い足をなんとか動かしながら俺は、くるりと踵を返して扉の前に立った。そこにたどり着くまでのほんの数秒が数分にも感じるもどかしさだった。
逸る気持ちを抑えて、俺は口を開く。
「―――それは」
声が微かに震える。情けない、でも今ここで、今すぐ訊かなければ俺は一生後悔する。
「抱きしめても嫌じゃなかった、という意味で間違いはないか」
「・・・・・・!」
扉の向こうで、姿は見えないけれどもひゅっと息を呑む音がした。
それはほんの数秒にも満たない時間だったろう。
けれど待つ俺にはものすごくじりじりともどかしくてたまらない、長い時間に感じられた。
「嫌・・・じゃ、なかった、よ」
「―――・・・・」
だから、そんな恥ずかしそうな井上の声が返ってきたとき。俺は、信じられなくてしばらく呆然としてしまった。
嫌じゃ、なかった。
俺が、抱きしめても、井上は、いやじゃなかった。
今、井上は、そう言ったよな?
歓喜と興奮は突然やってきた。ぶわっと体中の体温がいきなり上がるのが自分でもわかった。
沸騰する頭の中で、俺はひたすら目の前の扉を見つめた。
この向こうに井上がいる、そのことが頭を占めて、居ても立ってもいられない気持ちになる。
今すぐ井上の顔を見ないと俺は死ぬ。
だから今すぐ、俺は井上の顔を見なければならない。
それはもう俺の中では決定事項だった。
だから俺は目の前のドアを睨み付け、そいつを片付けるために動き始める。
―――ドアの向こうの、井上を捕まえるために。