少年、それは手ごわい 13
俺は自分が自制の効くタイプの人間だと思っていたんだが、こと井上に関することに対しては違うらしい。
井上が目の前に居ると、触れたくなる。
くせっ毛の柔らかそうな髪。無防備な笑顔。そんなものを目に入れる度、こころの中があたたかくなる。
円い瞳が俺を見つめて、ふにゃりと緩むと、自分を受け入れてくれているのだと錯覚して、堪らなく胸が疼く。
情けないことに、それが井上に対して特別な感情を抱いているからだと自覚できたのは、その気持ちが膨らんで弾けた時―――思い切り彼女を抱きしめてしまってから、だった。
全く俺は馬鹿だ。
※※※
最悪だ。
なんだって俺はあんなことをしてしまったのだろう。
昼休み終了間際、呆然としていた俺は戻ってきた社会科の先生に追い出され、教室へと戻ってきた。
その後、授業を受けたが正直先生の声なんて聞こえてないし、自分が何をやっていたのかも覚えていない。
とにかく激しく後悔していた。
去り際、涙目で俺を見上げてきた井上の顔が脳裏を散らついて消えてくれない。
それはそうだ。井上にしてみたら俺がそんなことするなんて思ってもいなかったに違いない。
嫌われただろうか。
そんなことを思いつくと、ずどんと胸が落ち込んだ。
好意を自覚したとたん、嫌われるのは結構きつい。
馬鹿だ俺は。
頭がふわっとなって気がついたら腕の中に井上が居たなんて、言い訳にならない。
「たかはしーさっきの・・・ってうわあ?」
自分で言うのもなんだが、いつもよりまして俺は近づきにくいオーラを醸し出していただろう。授業の終わりに、橘が上機嫌で俺の席へ近づいてきたのに気づいたが、無言の威嚇でおっぱらった。
駄目だ、自分に腹がたってむしゃくしゃする。
こういう時は身体を動かすしかない。
―――その日、俺は部活で荒れに荒れまくった。
多分俺は自分で思うよりも凄惨な雰囲気を纏っていたんだろう、据わった目で乱取りを申し込む俺に後輩や同級生は尻込みしていたが俺は有無を言わさず繰り返した。
動いている間は頭の中をからっぽに出来るからよかった。
休憩なく繰り返すうちに体力は尽きていき、はじめは実力の差で勝ってはいたが途中からはもう投げられっぱなし負けっぱなしになる。
けれどもそれが妙に気持ちよく、見かねた先輩が止めに入るまで俺は続けた。
部活で身体を酷使し、重い身体を引きずって家に帰ると、その日は泥のように深く眠ってしまった。どうやってあの後飯を食ったり風呂に入ったりしたのか覚えてない。
が、次の日の寝覚めは最悪だった。
夢の中に出てきた井上ははらはらと涙を零して俺を見上げていて、何故だか俺は声も出ないし身体も動かない。 そうこうしているうちに井上が俺に背中を向けて立ち去ってしまった。
引きとめようと必死に腕を伸ばしているところで、はっと目が覚めた。
くそ。汗で張り付いたTシャツが気持ち悪い。
その日一日を示唆する夢見の悪さにため息がでるのを堪え切れなかった。
案の定、学校に着いてからも俺の気分の悪さは続行中で、いつもは何かと構って来る橘も気配を感じ取って遠巻きに見守ってる。
ここ最近、緩んできていた俺に対してのクラスメイトからの怯えも、俺がぴりぴりしているからだろう、復活してしまった。
とにかく、井上に会って謝らなくては。
ようやくそのことに思い立ったのは、二時間目が終了したころだった。
俺も頭の中がいっぱいいっぱいになっていた証拠だろう。
しかしその後、俺は井上の姿を見ることができなかった。
※※※
その日の授業終了後。出席番号で運悪く当てられた俺は、集めたプリントを職員室に持って行った後、教室に戻るため階段へと向かっていた。
はあとため息が漏れる。
久しぶりに俺はかなり落ち込んでいた。
今日一日、井上の姿を探して謝る機会をうかがって居たんだが、まだそれは叶えられていない。
隣のクラスで、いつもなら話さなくても姿ぐらいは目に入ってくるのに、今日はそれすらもない。
避けられてる、とさすがに鈍い俺でも気づいてしまって更にずんと落ち込んだ。
ため息を吐き、相変わらず最悪な気分のまま一階の廊下を歩き、角を曲がる。
悪いことは重なるもの。
偶然が更に俺を追い詰めることになるなんてその時の俺は思わなかった。
角を曲がると、丁度階段を降りてくる人影がある。
仏頂面のまま何の気なしに顔を上げて俺ははっとして動きを止めた。
人影が、今日一日捜し求めていた人物のものだったから。
井上だ、と気がついて俺は思わず目を見開いて凝視してしまう。
井上も俺の姿を認めたようで、はっと息を飲み込む音が聞こえた。
空気が、張り詰める。
「―――・・・!」
初対面のころからまっすぐ俺を見つめてくれていた、いつも朗らかな色の宿る井上の瞳がぱっと逸らされたとたん、言い知れない痛みが胸を襲った。
「―――井上」
緊張しながら、俺は井上の名を呼んだ。ごくりと唾を飲み込む。
そのとたん大きく肩を震わせた井上が、ばさばさと抱えていたプリントを床に落とした。
はらはらと床に散らばる、白いプリントたち。
くしゃりと顔を歪めた井上が、視線を合わせないまま床にしゃがみこんで、プリントを拾い出す。
「ご、ごめんね大丈夫だから・・・!」
だからそのまま通り過ぎてくれという、そんなニュアンスを含む言葉だった。
事実、井上はさっさと俺に行ってもらいたいのだろう。
けれど。
俺は、聞こえないふりをして、井上と一緒にしゃがみんだ。
もくもくと、プリントを拾う。
俺の顔は無表情だったろうが、実際は目の前の井上の気配を手繰るのに精一杯だった。
心臓の音が、早い。緊張にプリントを拾う指先の動きがぎこちなくなる。
もう、どうしようもない。
俺は、井上の近くに、行きたいのだ。
なんでもいい。声を聴きたい。話をして欲しい。
―――俺から、逃げないで、欲しい。
自覚した井上への想いが、じりじりと胸を焦がす。
なんとかプリントを拾い集めて、俺は立ち上がって井上にそれを差し出した。
顔を赤く染めて俯いたままの井上は、自分が拾った分は片手で抱いたまま、俺の分も受け取ろうともう片方の指をそっと伸ばしてくる。
視線は合わない。いつも生き生きと屈託ない光を宿す瞳は、俺を拒否するように伏せられている。
どうしようもないもどかしさが俺を包んだ。
頼むから、逃げないでくれ。井上に嫌われると、俺は―――
井上の震える指が、プリントを受け取るときに俺の手のひらに触れて、ぴくっと跳ねた。
そうしてまた、床にぶちまけられる、白いプリントたち。
「あっ・・・」
呆然とした井上の声を耳にしながら、俺はもう一度床にしゃがみこんでプリントを拾った。
動揺を隠せない井上の姿に、俺を避けるその仕草に、胸が痛んだ。
井上にとっては、俺と会うことがすごく苦痛だと訴えるその事実にきり、と心臓がきしむ。
感情に任せて井上を抱きしめてしまったことを、俺は心の底から後悔していた。
しっかりしろ、と俺は自分を鼓舞した。
落ち込む前に、することがあるだろう?
俺はまだ井上に何も伝えていない。
「―――ほら」
今度はしっかりと井上がプリントを受け取るのを確認してから、俺はプリントから手を離した。
井上の唇から「ありがとう」と掠れた声が聞こえた。
俺は、そのまますぐさま去りそうな井上を、咄嗟に「井上」と呼んで引き止める。
「昨日は・・・すまなかった」
俯いたままの井上の小さな肩が揺れた。
その旋毛を見下ろしながら言葉を続けようとしたその時、突然井上が「だ、大丈夫!」と顔を上げたので俺は驚いた。
顔を赤く染めた井上が、なんだか泣き笑いのような表情を浮かべている。
俺が、そんな顔をさせているのか。
罪悪感が浮かんだのは一瞬だけだった。
なぜなら。
「わ、私平気だから。なんとも思ってないから、気にしなくていいよ!」
―――平気?
―――気に、しなくてもいい?
井上の言葉を脳が理解する端、自分の顔が固くなっていくのがわかる。
「だ、大丈夫だから、もう忘れるから、」
だから高橋君も忘れていいよ、と。
尻すぼりに小さくなっていく声が、そんな風に囁いた。
―――違う!
「違う・・・!」
すり抜けて行こうとする小柄な身体を、俺は手首を引き寄せることで阻んだ。
咄嗟のことで力加減ができずに、井上がたたらを踏む。けど、それを思いやる余裕が、今の俺にはなかった。
どうしようもなく井上のことを好ましく思っていることを、否定しようもなくこの胸の動悸が、井上の手首を捉えて離さないこの手が、素直に自分に向かって訴えてくる。
「井上」
熱が籠って掠れた声が自分の唇から零れる。いきなりのことに目を見開いた井上が、俺を見上げて―――視線が絡まった。
今までよくも気づかないで居られたものだ。自覚すると同時、その想いはすごい勢いで胸の中に膨れ上がっていく。
俺に向けられるその円らな瞳も小振りな唇も頬を朱く染めるその仕草にも、心が囚われて目が離れない。
俺の胸元ほどしかないこの小さな身体が、昨日自分の腕にあったことを思い出すと頭の芯がまた痺れたようになる。
俺の視線に晒された井上が、慄いたようにきゅっと瞳を閉じたから、そこで俺はまた我に返った。
気づくと、無意識にまた引き寄せた手首に力を込めている。
俺は学習能力のないバカか、何度同じ事を繰り返そうとする―――ため息まじりに、俺は井上の手首を離して、彼女から距離を取った。
近づくと、また同じことをしそうだった。
深く息を吐き、自分の中の衝動を奥へと押し込める。
「悪かった、でも・・・話が、あるんだ」
「は・・・なし?」
また顔を俯けた井上が、そっと視線を上げてくる。
その色ずく頬や眦が、俺をまた刺激するなんてきっと井上は考えてもいないのだろう。
どうしようもなく、俺はまたそんな井上に見惚れてしまう。
それが、油断に繋がってしまった。
「ごめん・・・!私、行かないと・・・っ」
俺の視線に気づいた井上が、目尻に涙を溜めて、プリントをぎゅっと胸元に抱えながら俺の脇をすり抜けて行く。
するりと、昨日も嗅いだ心地よいシャンプーの香りが鼻を掠めていった。
「―――井上!」
慌てて振り返ると・・・その後ろ姿が、ぱたぱたという足音を響かせて角を曲がって消えるところだった。
呆然としている間に、井上は行ってしまった。
・・・逃げ、られた。
そのことを認めたとたん、心臓がきりきりと痛んだ。
それは今まで感じたことのない痛みだった。
思わずその場に立っていられなくて、どん、と階段脇の壁に背中をつく。
自業自得、じゃないか。当たり前だ。
井上にとったら、不本意極まりない出来事だったのだから。
けれど、俺にとってそれは―――
思い返して、乾いた笑いが口を衝いた。ぐしゃ、と自らの髪を掻き揚げる。
てのひらを見つめた。
昨日確かめた井上の感触を追うように。
思っていた通り井上は華奢で―――思っていたよりも、ずっと井上はやわらかくてあたたかかった。
その甘やかな記憶を辿るうち、また身の内が熱くなってくる。
重症だな、と自分の中の理性の部分が、囁いた。