少年、それは手ごわい 12
梅雨明け。
中間テストも終わり、あとは夏休みを待つだけという時期。
なんとなく学校全体に浮ついた空気が漂っている。
あれから何度か井上に会ったが、相も変わらず俺はまだ姉貴達の言うことを実感できずに居た。
それでも、気がつくと井上の姿を探している自分がいて、遠目からでも井上のふわふわした髪を見つけるとなんとなく和むし、笑顔を見ると目が離れなくなる。
そんないわゆる膠着状態のさなかに、それは起こったのだった。
この暑い中グラウンドで体育の授業を受けて汗だくになりながら、俺は橘と一緒に制服に着替えてから教室へと戻っていた。
階段を登っていると、3階の方からよたよたと危うい足取りで、見覚えのある小柄な女子生徒が分厚い本を縦に積んで降りてくるのが目に入ってきた。
「井上?」
「―――高橋君」
その鼻先まで届く分厚い本たち。その向こうからきょとんとした声が返ってくる。
というか、無茶だろう。いつ階段から落ちるか見ていてこっちがはらはらする。
俺は速やかに井上の所まで階段を登って行くと、本を上から適当にひょいっと取り上げた。
どうしたのかと訊くと、週番だという答えが返ってきて思わず眉をひそめた。そんなもの相手の男子生徒に頼めばいいだろうと思ったのだが、休みだという返事に自然とため息が漏れた。
しかたがない。
「悪い、これ頼んでいいか」
と俺達のやりとりをものすごく興味津々な瞳で見守っていた傍らの橘に、持っていた体育着の入った袋を頼むとにやっという笑みが返って来た。
「おーっす、了解。んじゃ、またあとでな」
その瞳が語っている。あとで詳しく教えろと。
ああ、まためんどくさい奴に見つかった・・・とは思ったが、このまま井上を放置するという選択肢は俺の中にはない。
橘に体育着を託して、俺はさっさと井上が向かおうとしていた社会科準備室へと足を向けた。
慌てて追いかけてくる井上の「悪いから、せめてもう一冊持つ!」という言葉に思わず目元を和ませた。
義理堅いな。そんなの、別にいいのに。むしろ、全部持ってもいいくらいだ。
「3冊も4冊も一緒だ。それに、井上も運んでいるだろう。気にするな」
そう答えると、俺はこれ以上井上が気を遣わないようにさっさと前を向いて歩き出した。
この時の俺は考えもしなかった。
この何気ない出来事がまさかあんなことを引き起こすとは。
まさに姉達の言うとおり。
それは、不意に訪れる。
井上と二人、社会科教室へと足を踏み入れた。準備室はこの奥にある。真夏の教室独特の、むっとした空気が部屋に漂っている。
額に汗が滲むのを感じながら、両手が塞がっているので井上に頼んで準備室のドアを開けてもらう。
さすがに教師が常時使用している準備室の方はクーラーが効いていたが、肝心のその主は部屋には居なかった。
昼食でも採りにいったのだろう。などと考えながら、ふと、本当に何気なく、視線を横に向けて。
俺は、それを見つけてしまった。
ドア枠の横に、黒い物体がその触覚をひくひくと動かして留まっているのを。
姉貴達の天敵だ。俺も決して好きじゃないが。
「・・・高橋君?」
井上に声を掛けられて、俺ははっと視線をそれから引き剥がした。
言わないほうが、良いか。あの姉貴たちでさえ、それを見ると大絶叫して逃げ回るくらいだ。井上だって、苦手・・・だよな。
と結論づけて俺は知らない振りを決め込んで、持っていた本を井上が机の上に置いた上に重ねる。
なぜだかその様をじいっと井上に見られていて、「どうした?」と訊くとはっとしたように井上が俺から視線を逸らした。
それから慌ててドアの方へと向かおうとするのを見て、思わず引き止める声をかけてしまった。
なぜなら。
・・・動いている、アレが。クリーム色の壁だから、小さくても黒いそれは目立つ。
舌打ちしたい気分だった。じっとしてくれてたらいいのに、動いたら井上に気づかれてしまうじゃないか。
いやでも、不思議そうにこちらを見上げる井上は、まだ気づいた様子がない。
このまま、行ってしまえ。そう決めて、どうかしたのかと目線で訊ねてくる井上に頭を振ってそのまま部屋を出ようとしたのだが、井上が着いて来ないのに気づいて再び部屋の中を振り返った俺は、それが遅かったことを知った。
井上の顔が、はっきりと青ざめていて、視線はしっかりと壁の方―――ゴキブリへと固定されている。
「見なかった振りでドアを通る・・・のは無理そうだな」
俺の提案に、ぶんぶんっと勢いよく首が思い切り左右に振られる。
さて、それじゃあしかたがない、仕留めるとするか・・・と思ったんだが、それにも井上の待ったがかかった。
「み、見なかったことにしよう!そしてどこかに立ち去るのを待とう!」
・・・だいぶ混乱してるな。言ってることが矛盾してる。
まぁ、当初の俺の提案とそう離れていないし、ゴキブリがどっか行くのを待つか・・・と視線をドアの方へと向けようとした時、また予想外のことが起こった。
ゴキブリが、扉の方ではなく壁を伝ってかさかさと部屋の方へと移動しているではないか。
それは迷いなく、よりにもよって壁の中央、つまり俺達の方へと向かっていた。こちらを向いている井上は幸いにもまだそのことには気づいていない。
あー、これはまずい。さっきより距離も近づいてるし、気づいたらやっかいなことになりそうだ。
とにかく部屋から出てしまおうと井上を促したんだが、こういうとき要らない勘というのは働くもので、井上ももうゴキブリがドアの方には居ないことを感付いてしまった。しかも俺とのやりとりで、近くに・・・井上の背後にいることまで突き止めてしまう。どんだけ勘がいいんだ・・・。
「落ち着いて、とりあえず行くぞ」
「わっ、わかった、わかったけど放しちゃ嫌だよっ」
すったもんだの挙句、俺はやんわりと、恐怖のあまりがっしと俺の両二の腕を掴んできた井上の手首を外そうとしたんだが、井上は逆にその腕にしがみ付いて来た。
しかも、本人は意識してないだろうがちょっと涙目で見上げてきたその仕草に・・・知らず胸が、ぐっときた。
う、まずい。
何がまずいのか具体的には説明できないがとにかくよくない気がする。
俺はぱっと視線を逸らすと、早くこの状況から脱するために井上を促した。
「・・・・・行こう」
「う、うんうんっ」
後ろでこくこくと頷く気配がして、俺の右腕を掴んだ井上が、びくびくしながらついて来る。
無意識に身体をすり寄せてくる井上の体温。前を向く俺からその姿は見えないのに、しっかりとその存在を背中から感じて、ただそれだけでかぁっと俺の頭の中が熱くなるのがわかった。
まただ。また、自分のペースが崩される。
鼓動が早くなって、平常心でいられなくなる。
何の拷問なんだこれは・・・
とか、考えていたときだった。
「ぎゃああああああっ」
という、耳を劈くような悲鳴と共に、何か小さくて温かいものが背中に張り付いてきて、思わず俺は硬直してしまった。
って、おい。そんなの、、ひとりしかいないじゃないか!
「い、井上」
「あれあれあれーっ」
ぎこちなく振り返って、身体に似合わず凄い力で抱きついてくる井上を引き剥がそうとしたんだが、どうもそれどころじゃない形相と勢いで俺の声は遮られてしまう。
指差す方に目をやると、空気を読まないゴキブリが本を置いた机の脚を伝って床に下り、よりにもよってこちらに向かってきているのがみえた。
お前のせいか・・・!思わずゴキブリに殺意を抱いてしまう。
盛大に顔を引きつらせた井上が、とにかく必死になって、身体を引き剥がそうと伸ばした俺の手にぎゅうっと抱きついてきた。勘弁してくれ・・・!と俺は心の中で悲鳴を上げた。
その、むき出しの腕に押し付けられた柔らかい二つの膨らみに、一瞬にして顔に熱が籠った。
普段は細身の井上だから、そこまで意識することはなかったがそれはちゃんと存在を主張してきて、なんというか・・・やわらかい。制服の白シャツを挟んで体温まで直々に感じてしまって、俺は思わず口元を抑えてしまった。
信じられないくらい動悸が激しくなり、周りの音が聞こえなくなる。
見下ろすと、華奢な身体は俺の右腕にしがみ付いたまま硬直していた。
そうこうしている間にゴキブリはどこかに去ったらしく、ほっとした気配が井上から漂う。
安心したような笑みを浮かべて、井上が俺を見上げてきた。
「やっと消えたよ、高橋君」
だがしかし、俺にとってはもうゴキブリなんてどうでもいい出来事となっていた。
その瞳が俺と交わったとき、井上は驚いたように一度大きく目を見開いた。
先ほどまで涙目になっていたからだろう、黒目がちのその瞳はしっとりと潤んでいる。
視線が、繋がる。
無防備に見上げてくるその円い瞳から、俺は目を逸らせなくなった。
半開きになった、薄い唇。夢見るようなその視線に、心臓が囚われた。
―――触れたい。
またもやふいに湧き上がってくる、その衝動。
―――肩に触れて、ぬくもりを、その甘い香りを、腕の中に閉じ込めたい。
そんな欲求が突き上げてきて・・・そして今は、運の悪いことにストッパーになるものが何も、なかった。
駄目だ・・・落ち着け、俺。しっかりしろ。
じわりと額に汗が滲んで、焦燥を訴えてくる、なけなしの理性を搔き集め―――なんとか井上から視線を引き剥がそうとしたその時。
ぎゅ、と井上が俺の腕を、掴んできた。
その、何かを訴えるかのような甘い視線を捉えたとたん。
目の端に、自分の両腕が伸びるのを見た。
細い背中に腕を回す。鼻に届く甘い香りに、頭の芯が痺れて、すぐに夢中になって思考が飛んだ。
心臓の音がうるさいくらい頭の中で鳴り響く。
もっとだ。まだ足りない。
俺の腕の中で、驚いたようにもがいて頭を上げかけた小さな頭を、反射的に胸元に押し付けて閉じ込める。
小柄な身体は俺の腕の中にすっぽりと納まって、柔らかいその感触に思わず目を細めて背中のラインを確かめるように手のひらで滑らせた。
自分とは違う、華奢な体躯を搔き抱く。すっぽりと腕の中に納まる、小さい、けれどあたたかな存在。
その一瞬、信じられないくらい胸の中が満たされた。
ああ。
俺はこれが、欲しかった。
「た、たたたかはしくんっ」
「―――!」
我に返ったのは、情けないことに泣きそうな井上の声を訊いてからだった。
がばりと井上の肩を引き剥がす。
真っ赤な顔が、そこにあった。目尻に溜まっていたのは、涙だろうか。
「あ・・・俺」
掠れた声が喉から漏れる。
―――俺はいったい、今、なにを。
「ほ、本運んでくれてありがとう!
私、もう行くね!」
俺から飛びずさって離れた井上が、視線を合わせず一息にそう言うと、じりじりと後ろへ下がって行く。
・・・ああ。
ぱたぱたという足音を響かせて井上が去った後で、俺は額を押さえて思わず呻いていた。
くそ、姉貴。今回ばかりは姉貴たちの言うとおりだった。
俺は井上が、好きだ。
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