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    少年、それは手ごわい 11

 

 

 ―――その笑顔に、俺は弱い。




 

「よく降るねー」

 止む気配を見せない雨の中、水玉模様の傘を差した井上が目を細めて空を見上げる。その表情は、雨が降って不愉快というよりもむしろ心地よさげだ。

 時刻は夕方6時頃。昼ごろから降り出した雨は、全然止む気配を見せない。

 この雨のため、校舎内でしかトレーニングできなかった俺達柔道部員は、いつもより早く帰路についていた。

 そしてその途中でたまたま学校に残っていた井上を校門辺りで見つけた俺は、部員達と別れて駅へと向かう街路樹の道を井上と一緒に肩を並べて歩いていた。

 季節はうっとおしい梅雨の季節に入った。じめじめとした空気が身体に纏わりついてくるのはあまり好きじゃないが、雨の降る街っていうのは、不思議と風情がある。いつもより周りの音を吸収して静かだからだろうか。気持ちも穏やかに凪ぐ。

 隣を歩く井上が大きく息を吸い込んで、「雨の匂いがするー」といつものほわっとした笑顔を向けてきた。

「・・・そうだな」

 日が落ちて、あたりは暗くなってきていた。街灯の明かりがぼんやりと降りしきる雨と道を照らす。

 ぽつぽつと会話を交わしながら、ふと井上の方に視線を向けると、なんだかとても幸せそうな笑みが口元に浮かんでいた。

 交わす会話の口ぶりも上機嫌で、相変わらず井上のそんな屈託なさは周りも幸せな気分にする。釣られるようにして俺も、唇を緩めた。

 視線が合うと、井上がふにゃっと笑った。

 駅までの道のりは、あっという間だった。

 

 

 


  

「お姉さん、元気?」

 ホームで電車を待つ間。井上が、雨に濡れた髪を気にしながら俺を見上げてくる。

 手に持つ、畳んだ傘からぽたぽたと雫が地面に染みを作っていた。

 俺も制服の肩についた水滴を払いながら、眉を寄せて答えた。白シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。

「・・・無駄にエネルギー有り余ってる」 

 俺の言葉に井上が楽しそうに声を上げて笑った。

 まったく、笑い事じゃないぞ。

 そうこうしている間に電車が到着したので二人して車内に乗り込んだ。俺はポール側、井上は釣り革に捕まって立つ。

 帰宅時間と重なるこの時間帯、そろそろ人は多く混み始めている。雨で濡れた制服に纏わりつく湿気、車内はお世辞にも快適だとは言えなかった。


「あれから、姉貴達がうるさい。 井上のこと見てみたいって騒がしい」

 主に茜姉だ。俺に親しい女子がいるってことがよっぽど興味が引かれるらしい。たびたび「今日は井上に会ったのか」「どんな話をしたのか」だの根堀歯堀突っ込まれ、俺が答えるとひとりじたばたと床を転がっては「会ってみたいから連れて来い」と煩い。ちなみに詩織姉の方は生温かい視線を注ぐだけだ。珍しいことに。

「あー・・・ははは、光栄です?」

「他人事じゃないぞ、もし会ったら絶対離してもらえない」

 我ながらげんなりした顔で井上を見下ろして忠告すると、井上は小首を傾げて「楽しみにしてるねー」と軽く笑った。

 

 

 電車の速度が落ちてくる。ホームに電車が停車していく様子を窓から眺めていて、その人の多さに正直、辟易した。

 今でさえ息苦しいのに更に人が増えるのか・・・

 俺がいる側と反対側の扉が開き、帰宅を急ぐ人の波が乗り込んできた。

 ある意味この時間帯は戦場と同じだ。皆、我先にと自分の立ち位置を求めて強引に身体を割り込ませてくる。特に出入り口付近は座席のある場所より混む。

 その人の勢いに小柄な井上が立ち向かえるはずがなく、釣り革に捕まっていた井上が、背中を押されてつんのめってきた。咄嗟に俺はその肩を掴んで身体を支えた。

「ご・・・っごめん」

「ああ。―――大丈夫か?」

「う、うんっ」

 慌てたように井上が顔を上げて、見下ろしていた俺は、意外と近くに井上の顔が合ってたじろいでしまった。

 雨で湿った井上の髪から、シャンプーの香りと思われるいい匂いがする。

 傘を差していたとはいえ完全には雨を防ぐことは出来ず、井上の制服もしっとりと濡れてしまっていた。

 白いシャツが身体に張り付いて、距離があるとわからなかったがここまで近づくと、うっすらと下着の線を浮かび上がらせてることに気づく。思わず目を見開いて凝視してしまってから、一気に顔に熱が集まった。

 う・・・っ、しまった。

 一度気がつくともう知らない振りはできなかった。手のひらの下の、井上の肩の細さを意識するともう、頭の中がかーっとなった。

  慌てて井上から手を離すと、視線を明後日の方へと向けた。

 井上は俺から距離を取ろうと奮闘していたようだが、人の多さでどうにもならないらしく、しばらくするとあきらめたように俺の前で顔を伏せたまま大人しくなった。

 俺は視線を逸らしながらもそれを目の端で捉え、井上の気配を全身で感じ取っていた。

 井上の、体温を感じる。

 雨のせいか濃密に立ち上る井上の香りが肺を満たして、胸の中が掻き乱された。

 ・・・はやく駅に着いてくれ。どうも落ち着かなくて困る。

 しかしそんな俺の願いは、更なる困難を呼び寄せただけだった。


 電車がホームに着く。人の多さで振り返れないが、今度は俺の背後の扉が開く。

 そして。更に人の波が反対側から押し寄せてきた。

 割と体格がいいと自負する俺だがその勢いには堪えきらず、為すすべもなく電車の真ん中の方へと身体が流されてゆく。

 その時、井上の身体がその勢いで俺から離れて行きそうになったのを見て、咄嗟に俺は自分の身体を他の客との間に割り込ませた。

 結果は・・・何故か、さっきより密着した状態で、井上と向き合う形となってしまった。

 ・・・しまった・・・

 胸元に感じる、温かい感触にまたしても不覚にも顔に熱が集まるのがわかった。

 ・・・なんなんだ、一体。

 いつもの自分のペースが崩される。

 ちらりと下を見ると、井上の小さな頭は俯いたままだ。

 無性にその頬に触れて顔を上げさせたい衝動に駆られて、俺は自制の意味を込めて思い切り拳を握った。 


 落ち着け、いったい何を考えているんだ。この前から可笑しいぞ。

 そんなことをぐるぐると考えていると、とん、と胸元に小さな感触がした。同時にふわりと鼻に立ち上る、井上の香りと体温。

「・・・・!」

 思わず俺は井上の旋毛を見下ろしてしまった。

 井上が、俺の胸に額を、くっつけている。ほんの、微かに。

 そのことを認めたとたん、鼓動が跳ね上がった。

 

 それは、人の波に逆らえず、たまたまの出来事だったのだろう。

 けど俺は、その微かな感触に胸がたまらなく疼いて・・・それと同時に、心の中が満たされた。

 くすぐったくて、あたたかくて、胸の奥が小さく弾んでいる。

 そして俺は、周りが混んでいて自分の身体が身動きできないことに感謝していた。

 どうしようもなく、井上に触れたくなっていた。

 

 ―――今すぐその細い肩に触れて、その存在の華奢さを確かめてみたい。

 そんな欲求が胸を突いていた。

 ・・・駄目だ、しっかりしろ。俺は自分の心を持て余して斜め上を睨み付けた。


「―――駅、―――駅」

 それは時間にしては短い出来事だっただろう。

 けど、俺にとってはとても長い時間のように感じていた。

 心を満たすものと、突き動かそうとするもの。片方はとてもあたたかなもので、片方はとても抑えるのに労力を使うものだった。

 このままこの時間が続けばいいのにという気持ちと、早く過ぎ去ってこの衝動を消し去りたいという気持ち。どっちも本音だった。


 それでも終わりを告げるアナウンスの声に感じたのは落胆で、扉が開く音とともに人の波が動き出して離れてしまったぬくもりが、寂しさを告げた。

 それは最後のあがき、だろう。

 ケーキのお礼と共に俺はぽん、と井上の頭に手を乗せた。触り心地のいい柔らかな感触が、やさしく俺の手のひらの中に納まるのに目を細める。

 返ってきたふにゃりとした、相変わらず警戒心のないしまりのない微笑みに苦笑を返し、俺は人の波と一緒に電車から降りた。

 合図と共に電車が動き出す。

 俺はその、去って行く車両を見送った。


 

 ―――井上の、無防備な笑顔に俺は弱い。

 眉尻が柔らかく下がったふにゃりと緩んだ井上の笑顔を見ると、気持ちのやわらかい処がくすぐられる。 

 俺をまっすぐ見上げるとろけそうな瞳を見ると、手を伸ばさずには居られない。

 髪に触れて、そのぬくもりを手のひらで確かめたくなる。

 


 その感情の名前を、俺は無意識の内では理解しながらも・・・初めての感覚に戸惑い、未だ掴めずにいた。

 



※※※ 



 

 家に帰った俺は夕食後、ぼんやりとソファの上でテレビのお笑い番組を見ていた。

 正直、自分で自分の気持ちがよく分らなかった。

 最近の俺は、井上によってひどく感情をかき乱されることが多い。

 

 そしてそんな俺を、姉達が放っておくはずがなかった。


「悩める青少年、何があったか言ってみな?」

「・・・なんにもない」

 床の上からずずいと迫ってきた茜姉に向かって俺は気のない返事をかえす。

「わーわかりやすい嘘」

「・・・・・・・・・・」

 言いたくない。いくらなんでも言いたくない。

 口にしたらものすごくからかわれるだけの自覚はあった。

 けれどもこの前からこのよくわからない感情に振り回されて、いい加減自分でも答えを見つけたかった。

 姉達に聞いたら、この答えをくれるのだろうか。  

 にまにまと楽しそうな笑顔を浮かべる姉達の顔を見ると口にするのは躊躇われるが、俺はため息をついて、できるだけ淡々と答えた。


「・・・井上の笑顔を見てると、嬉しいが同時にもやもやする」

「―――もやもや?」

 茜姉が眉を寄せて聞き返してくる。どういう意味かと目線で訊ねてきたが、俺は言葉に詰まった。

 言わないと駄目だろうか。恥ずかしいから、敢えて誤魔化したんだが。

「鉱大?」

 葛藤の末、俺は口を開いた。


「・・・・・ふれたくなる」

「は?」

 声が小さくて聞き取れなかったらしい。

 腹をくくって茜姉の、釣りあがり気味の瞳を見つめた。

「触れたくなる」

「・・・っぎゃーっ」

「・・・うわぁ・・・」

 とたん、茜姉が後ろにひっくり返った。詩織姉は呆れた眼差しで俺を見る。

 

「ってこのばかーっ!」

 ひとしきり床を転げまわったあとで、茜姉はがばっと起き上がってそう叫んだ。立ち上がって、ソファの上に座る俺を見下ろして仁王立ちになる。

「ていうかそれで気づかないってどんなけ鈍いのあんたは?!いい加減むず痒くっていーってなるわ!」

 自分達から話を振ってきて、それはないと思うのは俺だけか。

 眉を寄せる俺に、茜姉とは違って床に落ち着きながら。首を小さく振ってため息交じりにその『答え』をくれたのは詩織姉の方だった。

「鉱大、あんた愛那ちゃんのことが『好き』なんじゃないの」

「―――」

 

 俺は、虚を衝かれて目を瞬いた。

 ・・・『好き?』

 俺が、井上のことを? 


 その言葉は俺を戸惑わせたが、妙にすとんと納得できた、気がした。頭では。

 それは自分でも無意識に考えていたことだったから。けどまさか自分が、という気持ちがあって否定していたことだった。姉貴達の言葉はそれを後押ししてくれた形になる。

 ここまできたら、いくらなんでも俺にとって井上の存在が普通ではないことはなんとなくわかってきていた。

 けれど。

 その感覚は俺にとっては未知のもので、この期に及んで未だ俺は頷くことは出来ないでいた。

 なぜなら俺の中の『好き』というイメージは、お花畑を二人で走りあって「あはは」「うふふ」と笑い合ってるようなイメージなのだ。そんなもの俺に似合うとは思えん。

 ていうか有り得ないだろう。 


「・・・よく分らん」

 だから、正直にそう言ったのだが。

 そんな俺を、詩織姉はしたり顔で見つめてくる。

 そして、

「すぐわかるわよ」

 そう言って、意味ありげな笑みを茜姉と交し合っていた。



 

 




 

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